ここが、わたしの厨房
2026年5月24日
2026年5月24日
「……甘い」
声が、落ちた。
かすれた、小さな声。
焚き火の爆ぜる音にかき消されそうな、それほど小さな声だった。
でも、リゼットには——はっきりと、聞こえた。
「え……」
リゼットの口から、声が漏れた。
「今、甘いって……?」
セドリックが、リゼットを見た。
その瞳に——何かが、揺れていた。
怒りでも、苦しみでもない。もっと深い、名前のつかない何か。
長い沈黙が流れた。
焚き火の炎が揺れている。村人たちの笑い声が、どこか遠い世界の音のように響いている。
「……気のせいだ」
セドリックは、視線を逸らした。
タルトの残りを、口に入れた。最後の一欠片まで。
そして——立ち上がった。
「ごちそうさま」
リゼットに背を向けて、歩き出す。
「あ、待って——セドリック様——」
手を伸ばしたけれど、届かなかった。
黒い外套が、焚き火の光の外へ消えていく。
広場の端から、暗い夜道へ。
リゼットは伸ばした手を下ろして、その背中を見送った。
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どれくらいの時間が経っただろう。
焚き火が小さくなり、村人たちが少しずつ家路につき始めた頃——マリーがリゼットの隣に立った。
「リゼ」
「……マリーさん」
「見てたよ。セド、タルト食べたんだね」
リゼットは頷いた。
「あの人……甘いって。甘いって、言ったんです」
声が震えていた。自分でも、どうして震えるのか分からなかった。
マリーは、焚き火の向こう——セドリックが消えていった方角を見つめた。
「リゼ」
「はい」
「あの子ね、泣いてたよ」
リゼットは、息が止まった。
「背中向けて——泣いてた」
マリーの声は、静かだった。
「あたし、セドの幼馴染だからね。あの子の背中なら分かるんだ。肩が震えてた。ほんの少しだけだけど——確かに」
「……」
「3年だよ、リゼ。あの子は3年間、何を食べても味が分からなかった。19のときに魔物の大群と戦って、村を守って——その代わりに、味覚を失った」
マリーの手が、リゼットの肩に置かれた。
「3年ぶりに——甘いって、感じたんだ。あんたの菓子で」
リゼットの目から、涙が落ちた。
止められなかった。
3年間、味のない世界で。食事が作業で。何を食べても何も感じない日々を——19歳の若者がたった一人で耐えてきた。
そして今日、リゼットのタルトで甘いと感じた。
気のせいだ、と。彼はそう言った。
でも——泣いていた。背中を向けて。
「マリーさん」
「ん?」
「わたしの菓子が……あの人に、甘いを届けられたなら」
「ああ」
「それだけで——菓子師として、こんなに嬉しいことはないです」
マリーは、リゼットの頭をぽんぽんと叩いた。
「あんたは、いい菓子師だよ。リゼ」
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村人たちが全員帰り、広場に誰もいなくなった。
焚き火の残り火だけが、赤く燃えている。
リゼットは一人、長テーブルの前に座っていた。
空になったタルトの皿を、見つめている。
今日、この皿の上に——辺境で初めての菓子が乗っていた。
子供たちが目を輝かせた。大人たちが驚いた。マリーが泣いた。
そして——セドリックが甘いと言った。
リゼットは皿を抱えて、立ち上がった。
空を見上げると、星が降るように瞬いていた。王都の空では見えなかった、辺境の星空。
冷たい風が頬を撫でる。秋が終わり、冬が近づいている。
辺境の冬は厳しいとマリーが言っていた。雪に閉ざされて、村は外界との行き来ができなくなる。
——それでも。
リゼットは、ここにいたい。
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宿に戻ると、マリーはもう部屋に上がっていた。
リゼットは一人、厨房に入った。
蝋燭に火を灯す。
石窯が、まだほんのり温かい。今朝、タルトを焼いた余熱が残っている。
作業台の上には、使い切った素材の瓶や袋が並んでいる。霜花蜜の空き瓶。焙煎黒胡桃の残りかす。大麦粉の袋の底。
全部、使い切った。
辺境の素材を、全部。
リゼットはエプロンのポケットからレシピ帳を取り出して、作業台に広げた。
最初のページには、母が書いてくれたレシピがある。砂糖菓子、バタークッキー、フルーツタルト。王都の、貴族のための菓子。
ページをめくる。
途中から、リゼットの字に変わる。宮廷菓子師として書き溜めたレシピ。精緻な分量。正確な温度。完璧を目指した記録。
さらにめくる。
最後の数ページ——辺境に来てから書いたレシピ。
『辺境の蜂蜜クッキー』。失敗の記録。
『焙煎黒胡桃のビスコッティ』。初めて成功した菓子。
『山ベリーのジャム』。子供たちが運んでくれた素材。
『木の実タルト』。霜花蜜×焙煎黒胡桃×高原りんご。
どれも、不格好な記録だ。分量は曖昧で、温度は「手のひらの感覚で」としか書いていない。王都のレシピとは比べものにならない。
でも——このページに書かれた菓子は人を笑顔にした。
子供たちを。村人を。マリーを。
そして——セドリックに甘いを届けた。
リゼットは、新しいページを開いた。
ペンを手に取り——書く。
『辺境菓子の記録 第一章 ここが、わたしの厨房』
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翌朝。
リゼットは厨房の扉を開けた。
冷たい朝の空気が流れ込んで、蝋燭の炎が揺れる。窓の外には、白霜の森が朝日を浴びて輝いている。
石窯に手を当てた。冷たい。昨日の温もりは、もう消えている。
でも——また温めればいい。薪を入れて、火を点けて、この窯をもう一度温めればいい。
マリーが階段を降りてくる足音が聞こえた。
「リゼ、早いねえ。昨日あんなに遅くまで起きてたのに」
「おはようございます、マリーさん」
リゼットは振り返って、笑った。
「お願いがあるんです」
「なんだい?」
「これからも——この厨房を、使わせてください」
マリーは一瞬きょとんとして、それから大きな声で笑った。
「何言ってるんだい! 当たり前じゃないか。あんたがいなくなったら、あたしが困るよ」
「ありがとうございます」
リゼットは深く頭を下げた。
「わたし、ここに残ります。この村で——菓子を、作り続けます」
マリーは笑うのをやめて、リゼットの顔をじっと見た。
「……本気かい?」
「本気です」
「辺境は冬が厳しいよ。雪で閉ざされたら、春まで外に出られない」
「知っています」
「砂糖もバターも手に入りにくいし、素材だって限られてる」
「だからこそ——ここで作る菓子に、意味があるんだと思います」
マリーは、しばらくリゼットを見つめていた。
そして——目を潤ませて笑った。
「嬉しいよ、リゼ。あんたがここにいてくれて」
二人は、厨房の入り口で向かい合って笑っていた。
窓から差し込む朝日が、石窯を照らしている。
冷えた窯に、これから火を入れよう。
今日も菓子を作ろう。明日も。その先も。
ここが——リゼットの厨房だ。
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その日の昼、リゼットは白霜の森に素材を探しに出かけた。
冬に向けて、使える素材を確認しておきたかった。保存できる木の実、冬でも採れる蜂蜜、雪の下で甘みを増す根菜——辺境の冬を、菓子で乗り越えるために。
森の入り口で、足を止めた。
遠く——村の外れの丘の上に、黒い外套の人影が見えた。
セドリックだ。
北の見回りに向かうところだろう。馬に跨り、朝日を背に受けて、まっすぐ前を見ている。
昨日のことを思い出す。
——甘い。
あのかすれた声。震える唇。そして、背を向けて去っていった姿。
マリーが言っていた。あの子は泣いていた、と。
セドリックの味覚のこと——リゼットには、まだ分からないことだらけだ。なぜ味を失ったのか。どうすれば取り戻せるのか。リゼットの菓子がなぜ「甘い」と感じられたのか。
でも、一つだけ——分かることがある。
リゼットの菓子は、あの人に届いた。
3年間、何も感じなかった舌に——木の実タルトは、甘いを届けた。
それなら——もっと、届けたい。
もっと美味しい菓子を。もっと甘い菓子を。あの人が、もう一度「甘い」と言えるような——
丘の上の人影が、動き出した。馬が歩き出し、やがて北の道へ消えていく。
リゼットは、その背中を見送って——森へ向かった。
白霜の森は、秋の終わりの冷たい空気に包まれていた。
木の実が、枝から落ち始めている。
リゼットは手を伸ばして、黒胡桃を一つ拾い上げた。
硬い殻。苦い実。でも——焙煎すれば、あの香ばしい宝物に変わる。
この森には、まだまだ知らない素材が眠っている。
冬が来る。
でも——春も、必ず来る。
その時にはきっと、もっとたくさんの菓子を焼いている。
リゼットは黒胡桃を籠に入れて、森の奥へ歩き出した。