第9話 割れた花瓶
2時間前
2時間前
花瓶が割れる音は、想像より大きかった。
着任から十ヶ月。冬の終わりが近い。マティアスが——ハイハイを始めた。
前世の保育園で、ハイハイが始まった赤ん坊を「動く災害」と呼ぶ先輩がいた。笑い話のように聞こえるが、事実だ。それまで揺り籠の中で完結していた世界が、床一面に広がる。手の届くものは全て掴み、引っ張り、口に入れ、投げる。
その日、マティアスは子供部屋から廊下に出た。
私が背を向けたのは一瞬だった。エミリアの髪を梳いている間に、揺り籠の柵を乗り越えた。生後十ヶ月半の赤ん坊は、柵の高さを超える方法を覚えたのだ。——前世でもあった。柵を越える月齢は個人差があるが、この子は早い。体が小さい分、身軽なのだ。
エミリアが「マティアス!」と叫んだ時には、もう廊下に出ていた。
追いかけた。石の廊下を這っていくマティアスの後を。子供部屋は最上階の隅にある。廊下は長い。大人なら数歩の距離が、赤ん坊のハイハイでは果てしなく遠い——はずだが、この子は速い。驚くほど速い。
階段の手前で追いついた。だが手を伸ばした瞬間、マティアスが段差に差しかかった。ここで掴めば驚いて体が跳ねる。石段の上で赤ん坊が暴れたら——落ちる。
掴むのをやめた。代わりに、マティアスの後ろにぴったりついて、一段ずつ降りるのを見守った。転んだ瞬間に受け止められる距離を保ちながら。声をかけて驚かせてもいけない。赤ん坊の後ろ這いに合わせて、一段、一段。
その間に——下の階の廊下まで降りてしまった。
二階の廊下に差しかかった時だった。
広間に通じる扉が開いていた。
マティアスがその隙間から中に入った。
広間——公爵家の来客を迎える部屋。磨かれた石の床。暖炉の上に飾られた調度品。壁際に並ぶ燭台。そして——入口の脇に置かれた、白い花瓶。
大人の腰ほどの高さの台の上に、花が生けられていた。冬の間に温室で育てた花だろう。公爵家の財力を示す装飾の一つ。
マティアスが台の脚に掴まって、体を起こした。つかまり立ちだ。掴まるものがあれば立てる。立てれば——手が届く。
「マティアス、だめ!」
間に合わなかった。
小さな手が花瓶の縁を掴んだ。重心が傾いた。花瓶が台から滑り落ちて——石の床に激突した。
白い破片が飛び散った。花が床に転がり、水が広がった。マティアスが驚いて尻餅をつき、大きな声で泣き始めた。
駆け寄って抱き上げた。破片が体に刺さっていないか確認する。手のひら、指、膝、足の裏。——傷はない。泣いているのは驚いたからだ。
「大丈夫、大丈夫。怪我はないよ」
安堵で力が抜けた瞬間、足音が近づいてきた。
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「何をした」
エドワード様だった。広間の奥の扉から現れた。書斎に続く扉——この時間、書類仕事をしていたのだろう。花瓶の割れる音が聞こえたのだ。
床に散らばる白い破片を見下ろした。灰色の瞳が冷たく光った。
「誰がやった」
私の腕の中で泣いているマティアスを見て、すぐに理解したようだった。
「この子か」
「はい。マティアスがハイハイで広間に——」
「なぜ目を離した」
声が低い。三ヶ月前の「静かにさせろ」の時よりも——いや、あの時とは質が違う。あの時は苛立ちだった。今は怒りだ。冷たい、制御された怒りが声に乗っている。
「この花瓶はハウザー伯爵家から贈られたものだ。母が嫁入りの際に持参した品と交換したもので、代えがきかない。子供の管理もできないのか」
管理。また、その言葉だ。
マティアスが泣き続けている。私の胸に顔を押しつけて、体を震わせている。大きな音と、父親の怒りの声に、怯えている。
エドワード様がマティアスに向かって口を開いた。
「いい加減に——」
「この子は叱られるべきではありません」
声が出ていた。考える前に。
エドワード様の目が大きくなった。養育係が公爵嫡男の言葉を遮ったのだ。この家で、おそらく初めてのことだった。
「まだ一歳にもなっていません。ハイハイを始めた赤ん坊は、手の届くものを全て触ります。それは好奇心です。成長の証です。花瓶に手を伸ばしたのは、この子が正常に育っている証拠です」
震えていた。声は震えていなかったが、膝が震えていた。マティアスを抱く腕だけは、安定していた。この子を離さない。
「叱らなければ学ばないだろう」
「一歳前の赤ん坊は『叱る』という概念を理解できません。怒られたという恐怖だけが残ります。花瓶を割ったことと叱られたことの因果関係は、この月齢では結びつきません」
前世の知識が口を衝いて出ていた。保護者面談で何度も説明した内容だ。「叱れば分かる」と信じている親に、「この月齢では因果関係の理解ができない」と伝える。あの時は園長先生が隣にいた。今は一人だ。
「つまり、お前の管理不行き届きだと」
「……目を離したのは私の落ち度です。ですが、マティアスを叱ることは——」
「ヒルデ」
エドワード様が私を見ずに名前を呼んだ。いつの間にか、ヒルデが広間の入口に立っていた。割れた花瓶の音で駆けつけたのだろう。
「ヒルデ。養育係の管理体制に問題がある。意見を聞きたい」
ヒルデは一度だけ床の破片を見た。それから私を見た。教鞭を持つ手は揺れていなかった。
「養育係の本分は、子供を安全に管理することでございます。広間への進入を許したのは、明らかな管理の不備です」
二対一。また、だ。
「花瓶の弁償は養育係の給金から差し引く。次に同じことがあれば——」
「エドワード」
声は広間の奥から聞こえた。
杖の音がした。石の床を一歩ずつ、ゆっくりと叩く音。
イルマ公爵夫人が、書斎に続く扉から姿を現した。銀髪を品よくまとめ、杖を突きながら。痩せた体に冬の室内着を纏い、呼吸が浅い。離れの居室から——いや、書斎にいたのだ。花瓶の音が聞こえる距離に。
「母上。なぜこちらに」
「花瓶の音は離れまで届きましたよ。あの花瓶には覚えがありますから」
イルマ様の声は穏やかだったが、芯があった。病で体は弱っているが、この方の声にはまだ公爵夫人の重みがある。
「子供は走るものです。這うものです。手の届くところに壊れ物を置いたのは、わたくしたちの落ち度でしょう。養育係の責ではありません」
エドワード様の顎が強張った。
「母上、しかし——」
「花瓶は惜しいですが、孫が怪我をしなかったことの方が大切です。エドワード。そうでしょう?」
問いかけの形をした命令だった。穏やかな声の奥に、公爵夫人として数十年を生きた女性の力がある。
エドワード様は何も言わなかった。母の言葉に反論しなかった。ただ一度だけ、私の腕の中で泣いているマティアスを見た。——見たのは一瞬だった。すぐに目を逸らし、踵を返して書斎に消えた。
ヒルデが無言で一礼し、廊下に去った。
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広間にイルマ様と二人残された。
マティアスは泣き疲れて、私の胸に顔を埋めたまま眠りかけていた。
「フィオナ」
イルマ様が杖で体を支えながら、こちらに近づいてきた。息が荒い。ここまで歩いてくるだけで、相当な負担だったはずだ。
「子供を守ってくれましたね。ありがとう」
「イルマ様こそ——助けていただきました」
「わたくしに出来ることはもう少ないのです」
イルマ様の目が柔らかかった。孫を見る時だけ浮かぶ、あの目。
「けれど、覚えておいてね。あの子にも——エドワードにも、子供だった時代があったのです。誰にも遊びを許されなかった子供の時代が」
その言葉は、フィオナの中に深く沈んだ。
エドワード様もまた、「遊びは堕落」の中で育った子供だったのだ。笑い声を騒音と聞くのは、笑い声のある子供時代を知らないからだ。
イルマ様が去った後、散らばった花瓶の破片を拾い集めた。白い陶器の欠片を一つ一つ手に取りながら、マティアスの寝息を背中で聞いていた。
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【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
イルマ公爵夫人は、この話で初めて「動く」キャラクターです。第二話では離れの居室でフィオナと面談しただけでしたが、今回は杖をついて広間まで歩いてきた。病身にとってそれがどれほどの負担か——その一歩一歩の重さを想像してもらえたら嬉しいです。
「あの子にも子供だった時代があったのです」——このセリフは最初からプロットにありました。エドワードが悪役として機能するだけでなく、「壊れた連鎖の一環」であることを読者に伝えたかった。彼は子供を管理するしか知らない。なぜなら、自分がそう管理されて育ったから。誰かがその連鎖を断ち切らなければならない。フィオナはその役割を引き受けた人です。
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