幕間:さすが我が息子
2時間前
2時間前
硝子の底で琥珀が揺れていた。
書斎の机に葡萄酒の瓶と脚の細い杯。蝋燭は一本。炎の先が窓の桟の微かな夜風に低く傾いた。初夏の夜は冷えない。それなのに背筋の奥の一本だけが冷たかった。
エドワードは杯を傾けた。渋みと香りが舌に広がる。今日の広間の拍手がまだ舌の奥に残っているような気がした。
——さすが、我が息子。
声に出さず唇の中で転がしてみた。壇上で発した自分の声が書斎の石壁にもう一度反射するようだった。ヴェルナー家の血は争えん。父祖から続く鍛錬の伝統。言葉はどれも正しい位置に嵌まっていた。客席の誰一人として疑わなかった。
嘘はついていない。
---
杯をもう一度傾ける。
琥珀の液面が蝋燭の炎を小さく映し返した。映された炎のすぐ横に——
葡萄色の布の袖口が一瞬過った。
杯を机に置いた。音が少し固かった。
気のせいだと思った。酒の映り込みに人の袖が映るはずがない。壁際の柱の半分に隠れた列。あの列に自分は視線を向けなかった。向けなかったのだから記憶にあるはずがない。
正しい理屈は胃の底の別の何かを押し返してはくれなかった。
---
式次第に登壇の項目は入っていなかった。それでも自分は拍手の鳴り止まないうちに立ち上がり、壇の階段を大股で上がって息子の肩に腕を回し朗々と発した。
——なぜ、駆け上がった。
問いは書斎の空気の中で一瞬だけ立ち上がってすぐに机の影に沈んだ。息子の成果はヴェルナー家の成果であり当主の成果である。問いを差し挟む隙間はない。父祖がそう生きた。自分もそう生きる。
それ以上の問いは不要だった。
---
不要だったはずの問いの外側を葡萄色の袖口がもう一度かすめた。
小さく舌打ちをした。その音に蝋燭の炎が揺れた。
あの女は広間で泣いたか、泣かなかったか。——知らない。視線を向けなかったから知らない。知らないことを今ここでなぜ確認しようとしているのか。それも分からなかった。
壇上でルーカスは「ある時、私のそばにいてくださった方」と言った。名前は出さなかった。気に留めなかったことに今ごろ気づきそうになって杯の縁を指でなぞった。
三年とあの子は言った。その三年のどの朝を自分はどの書類に向かって過ごしていたか。——記憶をたどる気にはならなかった。たどり始めれば終わらない。終わらないものには触れない。それが十二年この家を回してきた一本の柱だった。
---
——名前を、呼ばなかった。
その一文だけは書斎の空気の中で形を作ってしまった。長く炎を見つめた。見つめている間も一文は揺れていた。揺れながら消えず、ただそこにあった。
重さを測りたくはなかった。測り始めれば寝台に行けなくなる。寝台に行けない夜をヴェルナーの当主は持たない。父祖も持たなかった。
忘れようと思った。忘れるという動詞を意志として握った。握った瞬間その動詞がいかに力を要するかを指の関節が知った。
---
杯の中の残りを一息に呷った。
液面が消えた底にもう葡萄色の袖は映らなかった。映らない底をエドワードは暫く見つめていた。見つめていれば映らないことが忘れたことと同じ意味になるような気がした。
机の上の杯と瓶と一本の蝋燭。壁際の席も壇上の十歳の半秒の視線も——この部屋のどこにもなかった。
ないことにした。
窓の外で初夏の夜風が葉を一度鳴らした。エドワードはその音に顔を上げなかった。蝋燭の炎だけを静かに見つめ続けた。