おやすみの言い方
2026年2月22日
2026年2月22日
◆ティア視点
ホットミルクを——11杯。
厨房のカウンターに並んだカップを数えた。1、2、3……11。
足りている。全員分。
「……よしこ様。ホットミルク、ご用意できました」
「おおきにティアちゃん(^^) 11杯て、壮観やなぁ」
よしこ様が厨房に入ってきた。黒と紫のローブではなく、寝間着代わりの簡素な白い服。漆黒の長い髪を一つに結んでいる。
——普段の威圧感がない。こうしていると、ただの優しいお方だ。
……いつもそうだけれど。
「ティアちゃん、このミルク、蜂蜜入れてくれたん?」
「は、はい。少しだけ……甘いほうが、眠りやすいと聞きましたので……」
「完璧や(^^) ほな、配りに行こか」
よしこ様がトレーを持った。わたしがもう一つ。
11杯を二つのトレーに分けて——夜の魔王城を歩き始めた。
廊下は静かだ。
松明の灯りが壁を揺らしている。足音は——わたしの革靴と、よしこ様の素足。
よしこ様は城の中ではいつも裸足だ。「スリッパがないんよ」と言っていた。スリッパが何かはわからない。
「ティアちゃん」
「は、はい」
「夜の城って、ええなぁ。静かで」
尻尾が——少しだけ揺れた。
嬉しい。よしこ様と二人で歩くのが嬉しい。
……先代魔王様の時代には、こんなことはなかった。
夜の城は真っ暗で、誰も歩いていなかった。侍女は自室に戻れと命じられていた。廊下に松明を灯す必要もなかった。
だって——部屋を訪ねる人が、いなかったから。
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◆ティア視点(続き)
最初の部屋。ガルドとトールの部屋。
よしこ様がそっと扉を開けた。
覗いた先——ガルドが布団にくるまって、すでに眠っていた。隣のベッドではトールも同じ姿勢で丸まっている。
190cmが二人、同じ丸まり方で並んでいる。
「……でっかいダンゴムシが二匹」
よしこ様が小声で言った。尻尾が揺れた。笑いをこらえるのに必死だ。
よしこ様がそっとベッドサイドにカップを二つ置いた。起きたら飲めるように。
ガルドの布団がずれていた。よしこ様が直した。トールの布団も。
「おやすみ、ガルくん。トールくん(^^)」
小声。でも——温かい声。
わたしはカップの位置を少しだけ直した。倒れないように。ガルドは寝相が悪いから。
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次。レオンとドルガの部屋。
ここは——明かりが漏れている。
よしこ様が扉を開けた。
わたしも覗いた。
テーブルの上に紙が散らばっていた。墨壺。筆。
レオンが椅子に座って、字を書いている。眉間に皺を寄せて、筆を握りしめて。
——その隣に、ドルガが。
四天王第二席。210cmの巨漢。巨大な角。牙。
その巨体が——子ども用の椅子のような小さな椅子に座って、筆を握っている。
二人とも、紙に書かれた字をにらんでいる。
「……この字、読めねぇ」
「俺もだァ。なんだこのぐにゃぐにゃは」
「お前が書いたんだろ」
「……そうだった」
よしこ様が——ぷっ、と吹き出しかけた。
わたしが慌ててよしこ様の袖を引いた。気づかれる。
よしこ様がカップを二つ、テーブルの端にそっと置いた。
「よしこ……?」
レオンが気づいた。ドルガも振り向いた。
「夜更かしはあかんよ(^^) でも——頑張ってるなぁ。えらいえらい」
レオンが顔を赤くした。「べ、別にえらくねぇし……」
ドルガが「フン、当然だ」と鼻を鳴らした。耳が赤い。
「ミルク飲んで、ちゃんと寝るんやで。おやすみ(^^)」
「……うるせぇ」
「……フン」
二人とも——目をそらした。でもカップには手が伸びた。
扉を閉めた。
廊下に出てから、よしこ様が呟いた。
「あの二人、ほんまそっくりやなぁ(^^)」
……わたしもそう思います。
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リーゼの部屋。
窓辺に座って、本を読んでいた。
月明かりだけで。膝の上に本を開いて、薄い青の目が文字を追っている。
隣にミーナが座っていた。リーゼの肩にもたれて——眠っている。淡い金髪がリーゼの肩に流れている。
「……起こさないで」
リーゼが、扉を開けた瞬間に言った。声は低い。でも——ミーナを起こさないように小さい。
「起こさへんよ(^^) はい、ミルク」
よしこ様がカップを窓辺に置いた。ミーナの分も。
「……ミーナ、さっきまで起きてた。『リーゼ殿、この本の続きが気になります』って。3ページで寝た」
「3ページで(^^) 疲れてたんやな」
「……うん」
リーゼが——ミーナの肩に、そっと自分のローブをかけた。
ゆっくり。起こさないように。
「おやすみ、リーゼちゃん。ミーナちゃんにもおやすみ言っといてな(^^)」
「……言う」
短い返事。でも声が少しだけ——柔らかかった。
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メルの部屋。
ノックする前に、扉が開いた。
「あら。おやすみのミルクですか。——お気遣いありがとうございますわ」
メル様は——起きていた。寝間着ではなく、まだローブを着ている。机の上に何か書きかけの書類がある。
よしこ様がカップを渡した。
「メルちゃん、まだ仕事してるん?」
「ちょっとした報告書ですわ。すぐ終わりますの」
「無理したらあかんよ。ちゃんと寝ぇ(^^)」
「……はい、はい。おやすみなさいませ、魔王様」
慇懃な声。でも——カップの蜂蜜ミルクを一口飲んで、メル様の肩が少しだけ下がった。力が抜けたように。
「……ティア」
メル様が、扉を閉める前にわたしを見た。
「蜂蜜、多めですわね。……ありがとう」
尻尾がパタパタした。止められなかった。
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ピプの部屋。
扉を開けると——ベッドの上で、ピプがマントにくるまって丸くなっていた。蝶のような薄い羽根が、寝息に合わせてゆっくり動いている。
水色のぼさぼさ髪が枕に散らばっている。
「もう寝てるわ(^^) 早いなぁ」
よしこ様がカップをベッドサイドに置いた。ピプの布団を直した。
ピプが寝返りを打った。
「……よしこ……おやつ……もう一個……」
寝言だった。
「おやつは明日な(^^) おやすみ、ピプちゃん」
ピプの羽根がぱたぱた、と動いた。夢の中で——嬉しいことがあったのかもしれない。
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◆ヴェルザ視点
最後の部屋を訪ねる前に——一つ、残っている。
「よしこ様。シオンの部屋、まだです」
ティアが言った。トレーの上のカップは残り二つ。シオンのと——。
「せやな。行こか」
シオンの部屋の前に立った。明かりは消えている。
魔王様がそっと扉を開けた。
暗い部屋。ベッドに横になっている。目は——開いている。
天井を見ている。灰色の目が、暗闇の中でぼんやり光っている。
「シオンくん、起きてるんか」
シオンが体を起こした。
「……はい。眠れません」
「眠れんか。そういう日もあるわな(^^)」
魔王様がベッドサイドにカップを置いた。
「ホットミルクや。飲んでみ。蜂蜜入りやで」
「……いただきます」
シオンがカップを受け取った。両手で包むように持った。——教会仕込みの綺麗な所作。だが手が少し——震えている。
寒さではない。
「……よしこ殿」
「ん?」
「自分は……命令がないと眠れないのです。教会では『22時に消灯。就寝』と命じられていました。ここには——命令がない」
魔王様が——シオンの隣に座った。ベッドが軋んだ。
「そうかぁ。ほな、おばちゃんが言うたるわ(^^)」
——魔王様。
「シオンくん。おやすみ(^^)」
命令ではない。
許可でもない。
ただの——おやすみ。
「……おやすみ、なさい」
シオンが——ミルクを一口飲んだ。
両手のカップから湯気が立っている。灰色の目が——少しだけ、揺れた。
「……甘い、です」
「蜂蜜やで(^^) ティアちゃんの特製や」
「……美味しい、です」
魔王様がシオンの頭に——手を置いた。ぽん、と。
「眠れん時はな、美味しいもん飲んで、ぼーっとしてたらええねん。何も考えんでええ。——明日また起きたらええだけやから(^^)」
シオンが——目を閉じた。
私は廊下からそれを見ていた。
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魔王様がシオンの部屋から出てきた。
ティアがトレーの上の最後のカップを差し出した。
「よしこ様。最後の一杯です」
「ん? これ誰の?」
「よしこ様のです」
魔王様が——目を丸くした。
「え、わてのもあるん?」
「は、はい。11人ですから……よしこ様も、入れて」
「ティアちゃん……」
魔王様がカップを受け取った。一口飲んだ。
「……うっま(^^) ティアちゃんの蜂蜜ミルク、天下一品やわ」
尻尾が——パタパタパタパタ。止まらない。
止めたいのに。止まらない。
「よしこ様」
「ん?」
「今日の『おやすみなさいませ』は——11回になりました」
先代魔王様の時代には、0回だった。
誰も「おやすみ」を言わなかった。言う相手がいなかった。
よしこ様が来て——1回になった。わたしとよしこ様。
それが2回になり、3回になり——今日、11回。
「11回か(^^) ええなぁ。ありがとな、ティアちゃん(^^)」
——泣きそうになった。
なんでだろう。「ありがとう」と言われただけなのに。
「い、いえ……わたしは、ホットミルクを作っただけですから……」
「ちゃうちゃう(^^) ティアちゃんがおるから、みんなに『おやすみ』言いに行けるんやで。わて一人やったら、11杯も運べへんもん」
尻尾が——もう完全に制御不能だった。
パタパタパタパタパタパタ。
「お、おやすみなさいませ、よしこ様」
「おやすみ、ティアちゃん(^^)」
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◆ヴェルザ視点
全員の部屋を回り終えた魔王様が——最後に、自室に戻る廊下を歩いていた。
私は——待っていた。
「あら、ヴェルちゃん。まだ起きてたん」
「……ヴェルザでございます」
魔王様が笑った。いつもの——裏表のない笑顔。
180年生きたメルでも見抜けない。策略の欠片もない。ただの——笑顔。
「魔王様。毎晩、全員の部屋を回っておいでですか」
「うん(^^) 保育園でもやってたんよ、お昼寝の時間。ちゃんと寝てるか見て回るの」
保育園。
この方はいつもそうだ。魔王城を子どもの家と同じに扱う。全員を預かった子どもと同じに見る。
300年仕えた先代は——部下の部屋を訪ねたことは一度もなかった。
「ヴェルちゃんはちゃんと寝てる?」
「……はい。十分に」
「ほんまに? 目の下にクマできてるで?」
「……それは、元々の肌の色でございまして……」
魔王様がじっとこちらを見た。深紅の目。優しい目。
「無理すんなよ、ヴェルちゃん(^^) 四天王筆頭かて、人間——あ、魔族やな。魔族やもん。疲れたら寝なあかんで」
「……かしこまりました」
魔王様が自室の扉に手をかけた。
振り返った。
「ヴェルちゃんにもおやすみ言いたかってん。——おやすみ、ヴェルちゃん(^^)」
——。
300年。
先代魔王に仕えた300年。
「おやすみ」と言われたことは——一度もなかった。
言ったこともなかった。
先代は「おやすみ」を知らなかった。部下に言う言葉だと思っていなかった。
私も——言われる言葉だと思っていなかった。
「……おやすみなさいませ、魔王様」
声が震えた。
300年分の——何かが、喉に詰まった。
魔王様は笑って、扉を閉めた。
——廊下に、一人になった。
松明の灯りが揺れている。
300年。暗い城。誰もいない廊下。「おやすみ」のない夜。
それが——今。
11人分の「おやすみ」がある。ティアが蜂蜜ミルクを作り、魔王様が全員の部屋を回り、毛布を直し、頭を撫でる。
……先代。
あなたにも——こういう夜が、あればよかった。
私は——自室に戻った。
ベッドサイドに——カップが置いてあった。
蜂蜜ミルク。まだ温かい。
ティアだ。いつの間に。
一口飲んだ。
甘かった。
「……おやすみなさいませ」
誰に言ったのか——自分でもわからなかった。
先代に。魔王様に。ティアに。この城にいる全員に。
300年越しの——おやすみ。
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【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第51話「おやすみの言い方」。静かな夜の話です。
保育園には「午睡巡回」という業務があります。お昼寝の時間に、先生が子どもたちのベッドを一つずつ見て回る。ちゃんと寝ているか、布団がずれていないか、呼吸は正常か。よしこがやっていることは、それと同じです。ただの——巡回。でも「見に来てくれる人がいる」ということが、どれだけ安心を与えるか。
ヴェルザは300年生きています。先代魔王に仕えた300年間、彼は「おやすみ」と言われたことがありません。言ったこともない。それが当たり前だった。よしこが来て初めて、ヴェルザは「おやすみ」を覚えた。300年越しの「おやすみ」は、ただの挨拶じゃない。「明日もここにいてね」という意味です。
ティアのホットミルク11杯。数えてみると、ティアも11人目に自分を入れていません。でもよしこは入れた。「ティアちゃんの分もあるやろ?」——見えない人を見る。この物語の、ずっと変わらない芯です。
次回、第52話「裏山の遠足」。全員で山に行きます。お弁当を持って。
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