帰る場所
2026年2月22日
2026年2月22日
◆ドルガ視点
朝。
目が覚めた。まだ暗い。窓の外に薄い光が差し込んでいる。
——今日だ。
起き上がった。鎧を着けた。いつもの重装鎧。肩当てを留める。腰帯を締める。200年繰り返してきた動作。戦場に出る朝と同じ手順。
——今日は、戦場に出るわけじゃないが。
食堂に向かった。
廊下に、パンの匂いが漂っていた。——ガルドがもう焼き始めている。
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◆ガルド視点
暗いうちに起きた。
厨房のかまどに火を入れた。小麦粉を量った。塩と水とバター。昨夜のうちに仕込んでおいた生地を棚から出す。
——今日は、グランさんが帰る日だ。
普段より多めに焼く。いつもの丸パン。それから——旅に持っていけるように、硬めに焼いた保存用のパンも。
ドルガさんに聞いた。「第三師団は千人だ」と。
千人分は——さすがに無理だ。でも、副官が持って帰れるくらいは焼ける。
「……えっと、十個……二十個……」
数えながら天板に並べた。丸いの、四角いの、少し大きいの。
全部同じ味だけど。同じ生地だけど。——形が一つずつ違う。手で丸めるから。僕の手は大きいから、気をつけないと潰れる。
でもよしこさんが言ってた。「不格好でもええんやで。味は一緒や(^^)」って。
かまどから——パンが焼けた匂いがした。
小麦とバターが混ざった、甘い匂い。
この匂いが好きだ。この匂いがする場所が好きだ。——この城の厨房が、好きだ。
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◆ドルガ視点
食堂に入った。
テーブルに——もう朝飯が並んでいた。
ティアが皿を配っている。尻尾がぱたぱた揺れている。いつもより——少し動きが速い。
グランが——席に座っていた。
背筋がまっすぐ。両手は膝の上。いつもの副官の姿勢。だが——目の下が少し赤い。眠れなかったのか。あるいは昨夜も泣いたか。
「四天王殿。おはようございます」
「……座っていろ」
向かいの席に座った。
テーブルの上。パン。スープ。目玉焼き。果物。——ガルドの焼きたてパン。
「はいはい、朝ごはんやで(^^)」
よしこが鍋を持ってきた。スープ。ニンジンとジャガイモ。いつもの匂い。
よしこがグランの前に皿を置いた。
「グランさん、たくさん食べや(^^) 今日は長旅やろ?」
「は……はい。お世話になりました」
「お世話なんかしてへんよ(^^) ご飯食べただけやん」
魔王に「ご飯食べただけ」と言われている。200年の軍人が、おばちゃんに翻弄されている。
——俺も最初はそうだった。
「食え、グラン」
「はっ」
パンを取った。ガルドの焼きたて。まだ温かい。ちぎったら湯気が出た。
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食べた。
グランも食べた。スープを3杯。パンを4つ。目玉焼きを2個。
——昨日の歓迎の食事の時より、箸——いや、スプーンの動きが自然になっている。一晩で、この城の飯に慣れたか。
食べ終わった。グランが——皿の上に残ったパンのかけらを見た。
「……四天王殿」
「なんだ」
「……こ、このパンを——第三師団の者たちにも——」
声が——小さかった。副官にしては珍しく、小さい声だった。
1000人分は無理だとわかっている。でも——味だけでも、持ち帰りたい。部下に食わせてやりたい。
200年、配給の干し肉しか食っていない連中に。
「持っていけ」
言った。
「——ガルドのパンだ。崩すなよ」
グランの赤い目が——少し潤んだ。
「はっ……かしこまりました……!」
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◆ガルド視点
食堂の片隅で——聞いていた。
ドルガさんが「ガルドのパンだ」と言った。
僕のパン。僕が焼いたパン。それを——ドルガさんが、部下に持たせると言った。
「……えへへ」
声が漏れた。
慌てて口を押さえた。でも——嬉しい。すごく嬉しい。
僕のパンが、魔王城の外に出ていく。第三師団の魔族たちが食べる。僕のことを知らない人たちが、僕の焼いたパンを食べる。
トールが隣に立っていた。
「……ガルド。保存用のパン、あと十個焼くか」
「う、うん! 焼こう!」
二人で厨房に戻った。かまどの火がまだ赤い。
追加の生地をこねた。トールが横で同じ動作をしている。体格がほぼ同じ二人が、並んで生地をこねている。
もう何度もやった動作。剣を振るより、盾を構えるより——ずっと手に馴染んでいる。
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◆ティア視点
厨房の棚から——布を出した。
白い麻の布。清潔なやつ。旅の道中で汚れないように、パンを包むための布。
ガルド様とトール様が焼いた保存用のパン。丸くて、硬めに焼いてあって、崩れにくい。——上手に焼けている。
数えた。二十四個。きれいに並んでいる。
「……一人で持てるかしら」
グラン殿は徒歩で帰る。背嚢に入れるのだろう。二十四個は少し多いかもしれない。でも——減らすのは嫌だった。一つでも多く持っていってほしい。
布で丁寧に包んだ。角を折って、紐で結ぶ。侍女の仕事。120年やってきた。包み物は得意だ。
先代の時代は——武器や書類を包んだ。パンを包んだことはなかった。
包み終わった。もう一つ——別の小さな包みを作った。
「お、お帰りの分のお菓子も……」
蜂蜜のビスケット。よしこ様のレシピで、ガルド様が焼いたもの。六枚。布で包んで、紐を結んだ。
旅の途中で——休憩の時に。甘いものが——あったほうが、いいと思う。
魔王城の味。この城の味を——少しだけ。
尻尾が——ぱたぱた揺れた。
自分の意思とは関係なく。嬉しい時に勝手に動く。——止められない。でも今は、止めなくてもいい。
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◆ドルガ視点
城門の前。
朝の光が差し込んでいる。空気が冷たい。まだ春の手前。吐く息が——少し白い。
グランが——門の前に立っていた。
背中に背嚢。中にはガルドのパン二十四個。ティアのビスケット六枚。——そして俺が字で書いた手紙の返事。
城門の前に、俺とグランだけ——のつもりだった。
だが。
「グランさん、気をつけてね(^^)」
よしこが来た。
後ろにガルドがいる。トールがいる。ティアが控えている。レオンが——壁にもたれて腕を組んでいる。素直に見送りに来たとは言わないだろう。
「こ、これは——皆様、お見送りなど——」
グランが——慌てて頭を下げた。
「見送りも何も、朝の散歩やで(^^)」
よしこが笑った。
——朝の散歩で城門まで来る奴がいるか。
「グランさん、道中の飯足りる?(^^) もうちょっと持っていく?」
「い、いえ——十分すぎるほど——」
「遠慮せんでええのに(^^)」
ガルドが前に出た。
「あ、あの、グランさん!」
「は、はい」
「パン、崩さないように気をつけてください! 布で包んであるけど、衝撃に弱いので……!」
「は、はい——かしこまりまし——」
「あと、食べる前に少し温めると美味しいです! 火であぶるくらいで!」
「は……はい……」
ガルドの目が——真剣だった。パンの扱いを説明する時のガルドは、いつもこうだ。戦場の話をしている時より真剣な顔をしている。
トールが——一歩前に出た。
「……グランさん。塩味のやつが四個、甘味のが二個、入ってます。好みで選んでください」
「あ、ありがとうございます……」
ティアが——小さな包みを差し出した。
「こ、これは——旅の途中の分です。ビスケットが六枚入っています。——お、お帰りの分のお菓子も……」
「……お菓子……」
グランが——包みを受け取った。
手が震えている。——魔王軍の副官が、ビスケットを渡されて手が震えている。
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全員が渡し終わった。
レオンだけが——壁にもたれたまま動かなかった。
グランがレオンを見た。
「……勇者殿。——お世話になりました」
「世話なんかしてねぇよ」
レオンが——そっぽを向いた。
こいつはいつもこうだ。
「……パンは食ったけどな」
「は?」
「お前が来てから、ガルドが張り切って多めに焼いてた。——おかげで俺も多く食えた。だから……まぁ、ありがとよ」
レオンが——小さく手を上げた。
グランが——目を見開いた。勇者に礼を言われた。いや、礼とも呼べないような言葉だが。
「……っ、はい。——ありがとうございます」
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みんなが——城門の内側に下がった。
残ったのは、俺とグランだけ。
城門の外。荒野へ続く道。第三師団の駐屯地までは二日の行程。この道を、グランは200年通い続けた。命令を届けに。報告を持って。
——今日は、パンを持って帰る。
「……四天王殿」
グランが——跪いた。片膝をつく。軍礼。200年変わらない動作。
「第三師団副官グラン。帰陣いたします」
「ああ」
「部下一同——お待ちしております。いつでもお帰りを」
顔を上げた。赤い目が——まっすぐ俺を見ている。
200年。こいつは俺の帰りを待ち続けた。遠征から。偵察から。戦場から。いつも門の前に立って、「お帰りなさいませ、四天王殿」と言った。
俺が怪我をしていれば手当てをし、怒っていれば黙って従い、黙っていれば何も聞かなかった。
——待っている。1000人が待っている。俺の帰りを。
「……帰る」
言った。
グランの目が——光った。
「だがまだ帰らん」
グランの——口が開いた。閉じた。
何か言おうとして、やめた。
「……この城で、まだやることがある。——小僧どもの面倒を見んといかん」
「……は……はっ……」
「パン屋も——まだ半人前だ。あのでかぶつ、放っておくと焦がすからな」
「は……」
「それに——」
城を振り返った。
黒い石造りの城。門の向こうに中庭が見える。花壇がある。まだ花は咲いていない。
煙突から——白い煙が上がっていた。厨房の煙。朝飯の片付けをしているのだろう。ガルドが追加で焼いたパンの残り火か。
洗濯物が干してある。ティアが干したやつだ。白いシーツ。
廊下の窓から——よしこの声が聞こえる。「お皿こっちに置いといてー(^^)」。
「——飯が美味い。もう少し食ってから帰る」
グランが——唇を噛んだ。
「……四天王殿……」
「泣くな」
「泣いておりません……!」
「泣いてるだろう」
「……目から水が出ているだけです……」
——それを泣いてると言うんだ。
「……フン」
腕を組んだ。
「グラン。部下に伝えろ」
グランが——顔を上げた。涙が頬を伝っている。目から水が出ている。副官の顔が——200年で初めて崩れている。
「——ドルガは元気だ。パンが美味い」
グランの肩が——揺れた。
「はっ……お伝えいたします……!」
声が震えていた。軍人の声ではなかった。ただの——上官を慕う部下の声だった。
「……行け」
「はっ——」
グランが立ち上がった。目を拭った。背筋を伸ばした。背嚢を背負い直した。
——パンが入っている背嚢。ビスケットが入っている背嚢。俺の手紙が入っている背嚢。
いつもの軍装と、いつもの軍靴。
だが中身が——違う。200年前の背嚢には、命令書と干し肉しか入っていなかった。
グランが——歩き出した。
城門を出た。石畳の道。荒野へ続く道。
三歩。十歩。二十歩。
——振り返った。
---
◆ガルド視点
城門の内側から——覗いていた。
ドルガさんの背中越しに、グランさんが見える。道の上で——振り返っている。
グランさんの目が——城を見ている。
煙突から白い煙が上がっている。中庭に洗濯物が揺れている。門の前にドルガさんが立っている。腕を組んで、いつもの威圧的な姿勢で。
——でも、その姿勢のまま、動かない。グランさんが見えなくなるまで。
グランさんが——深く頭を下げた。
それから前を向いて、歩き出した。
背中が——少しずつ小さくなっていく。背嚢の中に、僕のパンが入っている。
「……がんばれ……」
小さく言った。聞こえないとわかっている。
でも——僕のパンが届いてほしい。第三師団の人たちに。ドルガさんの部下たちに。
僕の名前も顔も知らない魔族たちが——僕のパンを食べて、「美味い」と言ってくれたら。
「……えへへ」
泣きそうになった。
パン屋の夢が——少しだけ、形になった気がした。
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◆ティア視点
グランさんの姿が——道の向こうに消えた。
朝の光の中を、一人で歩いていく。背嚢が少し重そうだ。——パンとビスケットが入っているから。わたしが包んだ分も。
ドルガ様が——まだ門の前に立っていた。
腕を組んで。城門に寄りかかって。赤い目が——道の先を見ている。
「……ドルガ様」
声をかけた。おそるおそる。
「……なんだ」
「あの……お茶を、お持ちしましょうか」
「……」
ドルガ様が——振り返った。
怒っているかと思った。いつもの「フン」が来ると思った。
「……もらう」
声が——少し低かった。いつもの粗暴な声とは違う。
「は、はい! すぐにお持ちします!」
尻尾がぱたぱた揺れた。
厨房に走った。走りながら——窓の外を見た。
煙突から、まだ煙が出ていた。
追加のパンを焼いた残り火。ガルド様の火。
グランさんが振り返った時に見えたであろう——この城の煙。
お茶を淹れた。カップを二つ。——いや、三つ。ドルガ様と、よしこ様と、わたしの分。
前は——自分の分を淹れなかった。侍女は主人と同じものを飲まない。先代の時代のルール。
でもよしこ様が「ティアちゃんの分は?(^^)」と聞くから。毎回聞くから。だから——三つ。
盆に載せた。
城門に向かった。
---
◆ドルガ視点
ティアがお茶を持ってきた。
カップが三つ。
——三つ?
「よしこ様の分と——わ、わたしの分も……」
「……フン」
受け取った。
飲んだ。温かい。少し甘い。蜂蜜が入っている。——ティアの淹れ方だ。ヴェルザより甘い。
よしこが——隣に立った。
「グランさん、無事に着くとええな(^^)」
「ああ」
「パンいっぱい持たせたから、重かったかもしれへん(^^)」
「……軍人だ。あの程度の荷物は——」
「でも美味しいもん持ってたら、元気出るやろ(^^)」
——飯の話にしか聞こえない。が、よしこはいつもそうだ。飯の話をしているようで、別のことを言っている。
「……そうだな」
パンを持って帰る副官。干し肉じゃない。パンだ。焼きたてだったパンだ。ガルドが朝早くから起きて焼いた。トールが塩味と甘味を分けた。ティアが布で包んだ。
——魔王城の温度が、あのパンに入っている。
「帰ったら第三師団の人も食べるんやろ?(^^) 次はもっとたくさん焼かなあかんな」
「……次?」
「また来るやろ? グランさん(^^)」
よしこが——笑った。
当たり前のように。また来ると。また食べに来ると。
「……ああ。——来るだろう」
来る。グランは来る。あいつはそういう奴だ。
今度は一人ではなく——部下を連れてくるかもしれない。
第三師団の魔族たちが、この城門をくぐる日が来るかもしれない。
パンの匂いを嗅いで、よしこに「お腹すいてない?(^^)」と聞かれて、困惑する部下たちの姿が——見えるようだ。
「……フン」
お茶を飲んだ。
城門の向こうに、もうグランの姿は見えない。朝の光が道を照らしている。
城の中から——声が聞こえた。
「ドルガさーん! ビスケット焼けたでー!(^^)」
「……ああ」
城に戻った。
ティアとよしこが先を歩いている。ティアの尻尾が揺れている。よしこが何か話しかけて、ティアが「は、はい」と答えている。
振り返った。一度だけ。
城門の外。道が延びている。その先に——1000人がいる。俺の部下。
——ドルガは元気だ。この城のパンは――やっぱり美味い。
帰る場所が、二つある。
ここと——あそこ。どちらも、俺の場所。
——だが今日は、ここにいる。ビスケットが焼けたらしい。
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【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第73話「帰る場所」。第67話で魔王城に来たグランが、帰ります。
ドルガの「帰る。だがまだ帰らん」は、矛盾しているようで矛盾していません。帰る場所がある。1000人の部下が待っている。でも、今はここにいたい。ここにも帰る場所がある。パンが美味い城がある。「帰る場所が二つある」というのは、ドルガにとっては人生で初めてのことです。
ガルドが朝早くから保存用のパンを焼いたシーン。第三師団の1000人に届けるには足りない。でも二十四個のパンが、「魔王城にはこういう味がある」と伝えてくれる。ガルドのパンが魔王城の外に出ていく。それは「パン屋の夢」の最初の一歩です。
ティアがビスケットを包むシーン。「お帰りの分のお菓子も」。先代の時代は武器と書類を包んでいた手が、今日はお菓子を包んでいる。同じ技術、違う中身。この城の変化は、いつもこういう小さなところに出ます。
グランが振り返った時に見えたもの——煙突からの煙。第66話でピプが言った言葉を思い出してください。「煙が出てるって——みんながいるってことなの」。グランにもきっと、同じものが見えたはずです。
次回、第74話「王の返事」。カインが魔王城に戻ります。
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