勇者は生きていた
2026年2月22日
2026年2月22日
◆カイン視点
眠れなかった。
客室を与えられた。清潔な部屋だった。
シーツに糊が効いていて、窓から月明かりが差し込んで、暖炉に火が入っていた。
——魔王城の客室が快適だなど、報告書に書けるわけがない。
ベルクを見張りに立てて、他の部下は交代で仮眠を取らせた。
私は——一睡もできなかった。
考えていた。
昨夜の宴を。
あの食卓を。
魔王が椅子を引いた。
四天王筆頭が「どうぞ」と頭を下げた。
エプロンの少年——勇者パーティの戦士——がシチューをよそった。
羽根のある子どもが天井から降りてきた。
巨大な赤髪の魔族がビスケットを齧っていた。
犬の尻尾のある侍女がお茶を配った。
——全部、事実だ。
全部、この目で見た。
だが——報告書に書いたら、私は正気を疑われる。
「…………」
朝日が差し込んできた。窓の外の空が高い。夏の終わりの、澄んだ朝だ。
魔王城の朝は——静かだった。
---
身支度を整えて廊下に出ると、匂いがした。
パンの匂い。
焼きたての、温かいパンの匂い。
匂いを辿って歩く。部下のベルクが後ろについてくる。
大食堂の扉が——開いていた。
「…………」
光景を、見た。
テーブルに朝食が並んでいる。
パン。スープ。チーズ。果物。温かい牛乳。
その席に——
勇者レオンが座っていた。
パンを手に取り、スープに浸し、食べている。
隣に、魔法使いリーゼ。静かにスープを飲んでいる。
向かいに、戦士ガルド。エプロンをつけたまま、自分の分のパンを食べている。
テーブルの上座に——魔王。
「ガルくん、今日のスープ美味しいなぁ(^^) 昨日より味が馴染んどる」
「え、えへへ……昨日の夜に一度火を入れ直したんです……」
「ほんまに? ガルくん、プロやなぁ」
「プ、プロなんかじゃ……えへへ……」
——勇者パーティの戦士が、魔王に褒められて照れている。
朝食の席に——調査隊の分の皿も並んでいた。
十人分。きちんと用意されている。
「あ、おはようございます(^^) カインさん」
魔王が——こちらに気づいた。
「おはようございます。席空いてるで。座って(^^)」
「…………」
「スープ温かいうちにどうぞ(^^) ガルくんが朝早くから作ってくれたんや」
ガルドが慌てて立ち上がった。
「あ、あの、よかったらパンもどうぞ……! 今朝焼いたばかりです……!」
——なぜ。
勇者パーティの戦士が、敵の城で、朝食を作っているのだ。
「……いただく」
座った。
パンを手に取った。温かい。
スープを一口飲んだ。
——昨日と同じだ。
体に染み込む、温かい味。
部下たちが次々と大食堂に入ってくる。全員、匂いにつられたのだろう。無言で席に着き、無言で食べ始める。
「副長殿……」
「……なんだ」
「報告書ですが。『二日目朝食。魔王城にて勇者パーティと共に食事を摂る。パンは焼きたてであった』——」
「……もういい。報告書は後で考える」
食卓の向こうで、犬耳の侍女がお茶を配っている。尻尾がぱたぱた揺れている。嬉しそうだ。
あの巨大な赤髪の魔族は——壁際に立っている。ビスケットを齧りながら。
扇子の女性魔族は席に座って、優雅にお茶を飲んでいる。
羽根のある子どもが——レオンの横に座って、レオンの皿からパンを一切れ取った。
「おい。勝手に取るな」
「えー。レオンのパン美味しいんだもん」
「全部同じパンだろうが」
「レオンの皿のがいいの!」
「……好きにしろ」
——勇者が。魔族の子どもに。パンを分けている。
なんだ、この光景は。
---
食後。
私は——レオンに声をかけた。
「勇者殿。少し話がしたい」
レオンが——初めて、こちらを正面から見た。
鋭い目だ。十七歳の少年にしては、戦場を経験した者の目をしている。
だが——澄んでいる。濁りがない。
「……あんたが隊長か」
「カインだ。騎士団副長、調査隊長を務めている」
「…………」
「勇者レオン。王命により、帰還を命ずる」
レオンの目が——動いた。
「…………」
「勇者パーティの安否確認と帰還が、我々の任務だ。貴殿と、魔法使いリーゼ、戦士ガルドの三名を、王都に連れ帰る」
「…………」
沈黙。
長い、沈黙。
レオンの手が——テーブルの端を握った。
指が白くなるほど強く。
「……聞こえたか、勇者殿」
「……聞こえてる」
「では——」
「…………」
レオンが——目を伏せた。
「…………考えさせてくれ」
「考える? これは王命だ」
「……わかってる」
「わかっているなら——」
「わかってるっつってんだろ」
声が——低かった。
怒りではない。
何か別のものを、押し殺している声だった。
「…………」
私は——それ以上、言えなかった。
この少年の目に——何かがある。
洗脳ではない。恐怖でもない。
何か——私の知らないもの。
---
◆カイン視点(続き)
レオンと別れた後、廊下でヴェルザと遭遇した。
四天王筆頭。三百年を生きた魔族。
——だが、その佇まいは、騎士団の古参将校と変わらない。背筋が真っ直ぐで、無駄な動きがない。
「カイン殿」
「四天王殿」
二人の間に——一瞬の沈黙があった。
軍人同士が、相手の力量を測る間。
「……昨夜の歓迎、感謝する」
「魔王様のご意向です」
「魔王の意向か。四天王殿自身の意向ではない、と」
「…………」
ヴェルザの金色の目が、微かに細まった。
「私自身であれば——貴殿らは門の前で止めておりました」
「……率直だな」
「率直に申し上げます。貴殿が勇者殿を連れ帰ろうとしていることは承知しております」
「任務だ」
「承知しております。——ですが」
ヴェルザが——一歩、近づいた。
威圧ではない。だが——三百年の重みがある。
「あの子どもたちが、どのような状態でこの城に来たか。貴殿はご存知か」
「……報告書では——」
「報告書には載っていないことを申し上げます」
ヴェルザの声が——低くなった。
「三人とも、飢えていた。装備は壊れ、食料は尽き、体中に傷があった。リーゼ殿は魔力の枯渇で意識が朦朧としていた。ガルド殿は恐怖で身動きが取れなかった。レオン殿は——二人を庇って、立っているのがやっとだった」
「…………」
「あの状態で、魔王を討伐せよと。——それが王命ですか」
「…………」
私は——答えられなかった。
「勇者とは、使い捨ての駒ではないはずだ。——少なくとも、魔王様はそうお考えです」
ヴェルザの目が——一瞬だけ、柔らかくなった。
それはすぐに消えた。
「……パンは温かいうちにどうぞ」
「……は?」
「厨房にガルド殿が焼きたてのパンを追加で焼いております。貴殿の部下の分も」
「…………」
四天王筆頭が——背を向けて歩き去った。
足音が規則正しく遠ざかっていく。
——軍人だ。
あれは、紛れもなく軍人だ。
主君のために最善を尽くし、敵にも礼を失わない。
そして——あの軍人が仕える魔王が、勇者に朝食を出している。
「…………」
洗脳を疑っていた。
魔王が何らかの術で、勇者を支配下に置いているのだと。
それなら辻褄が合う。勇者が魔王城で暮らしている理由。帰還しない理由。
だが——
あの食卓には、術の気配がなかった。
レオンの目には、操られた者の濁りがなかった。
ガルドの笑顔には、強制された者の歪みがなかった。
リーゼの静けさには、恐怖がなかった。
「副長殿」
ベルクが追いついてきた。
「報告書ですが」
「…………」
「『勇者パーティは生存を確認。健康状態は良好。洗脳の兆候は——』」
「——認められない」
「……認められない、と」
「認められない。洗脳ではない。少なくとも、私が見た限りでは」
「……では、なぜ勇者は魔王城に」
「わからない」
正直に言った。
「報告書には——事実のみを書く。『勇者パーティは生存。健康状態良好。魔王城にて食事・宿泊を提供されている。帰還の意思については確認中』」
「了解であります。……上は信じないでしょうが」
「信じる信じないは上の判断だ。我々は事実を報告する」
「了解」
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◆レオン視点
帰還命令。
わかってた。
こうなることは、わかってた。
調査隊が来た時点で——こうなることは。
カインっていう騎士。
悪い奴じゃなさそうだ。目が真っ直ぐで、嘘がない。
でも——あいつは「任務」で来ている。
勇者を連れ帰る。それが任務。
俺が——何を思おうが、関係ない。
「…………」
大食堂の隅っこに座っている。
みんなはもう出ていった。よしこは厨房でガルドと昼飯の相談をしている。リーゼは魔法書を読みに行った。ピプはどこかに飛んでいった。
テーブルの上に——パンの欠片が残っている。
さっきピプが俺の皿から取ったやつの残り。
「…………」
あいつ、毎朝俺の皿から取るんだ。
自分の皿にも同じパンがあるのに。「レオンのがいい」って。
——そういうの。
そういう小さいことが、全部。
「レオンくん」
よしこの声。
振り返ると——よしこが立っていた。
手に皿を持っている。焼き菓子が載っている。
「お茶の時間やで(^^)」
「…………」
「調査隊のカインさんにも持っていこうと思って。レオンくん、一緒に行く?」
「……なんで俺が」
「カインさん、固い顔しとるから(^^) お菓子食べたらちょっとは柔らかくなるやろ」
「…………」
「レオンくんもな(^^)」
「……俺の顔が固いって言いたいのかよ」
「せやな(^^) さっきからずっと固い」
「…………」
よしこが——俺の前に焼き菓子を一つ置いた。
「帰る帰らないは、後で考えたらええ。まず食べ(^^)」
「…………」
この人は——いつもこうだ。
大きな問題を、小さな行動に変える。
「帰還命令」を「お茶の時間」に変える。
「……もらう」
焼き菓子を手に取った。
一口齧った。
甘い。メルが好きそうな味だ。
「おいしい?」
「…………普通」
「ふふ(^^)」
——おいしい。
本当は、おいしい。
でも——
いつまで、ここでこうしていられるんだろう。
あの騎士は、また来る。
帰還命令を、また言う。
次は「考えさせてくれ」じゃ済まない。
「…………」
窓の外を見た。
魔王城の庭。ティアが洗濯物を干している。尻尾がぱたぱた揺れている。
ドルガが庭の隅で素振りをしている。
ヴェルザが城壁の上を巡回している。
いつもの朝だ。
いつもと同じ、朝。
——でも、同じじゃない。
調査隊が来た。
「外の世界」が、ここまで来た。
「……よしこ」
「ん?(^^)」
「…………」
言おうとした。
何を言おうとしたのか、自分でもわからない。
「……なんでもない」
「そう?(^^) なんでもなくない時は、言ってな」
「…………」
「いつでもええから(^^)」
よしこが——皿を持って厨房に戻っていった。
鼻歌を歌いながら。
——くそ。
いつもの鼻歌だ。
何曲かある中で、今日はゆっくりした曲。
よしこが心配してる時に歌う曲。
……覚えてしまった。この人のクセを。
「…………」
焼き菓子を、もう一口齧った。
甘い。
——明日。リーゼとガルドに、話さなきゃいけないことがある。
---
【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第26話「勇者は生きていた」。カインが見た朝の食卓と、レオンへの帰還命令。
この話で一番書きたかったのは、ヴェルザとカインの廊下での対話です。
二人は敵同士です。でも、同じ「主君に仕える軍人」として、通じ合うものがある。ヴェルザは勇者たちがどんな状態で城に来たかをカインに伝えました。報告書には載らない事実を。そして最後に「パンは温かいうちにどうぞ」と言った。これがヴェルザです。敵にも礼を失わない。でも、言うべきことは言う。
カインは洗脳を疑っていました。そのほうが辻褄が合うから。でも——食卓に術の気配はない。レオンの目に濁りはない。ガルドの笑顔に歪みはない。「洗脳ではない」と認めた時、カインは困ってしまった。洗脳じゃないなら、なぜ勇者は魔王城にいるのか。その答えは——もう少し先で。
レオンの「考えさせてくれ」は、Arc1の「知るかよ」から遠くまで来た言葉です。考える、という選択肢がこの子にはなかった。与えられた「勇者」の役割を、ただ遂行するだけだった。「考える」と言えるようになったのは——ここが安全な場所だから。
次回から、物語は魔王城の外へ動き始めます。
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