和平の壁
2026年2月22日
2026年2月22日
◆カイン視点
夕食が終わった。
12人の食卓。二日目の夜。——慣れていない。慣れてはいけない気もする。だが、スプーンを置いた皿は空だった。
食後、メルが密書の返答を仕上げた。ヴェルザが確認し、封蝋を押した。
明日、持ち帰る。
和平交渉の第一歩——国王陛下が望んだものが、今、懐の中にある。
食堂から出た。
廊下を歩いた。
——客間に向かう途中で、足が止まった。
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中庭に面した廊下に——人がいた。
白い鎧。短い黒髪。壁にもたれて、立っている。
シオン。
夕食の席にいた。端の方で。スープを静かに飲み、パンを半分残した。——食が細い。
「……シオン」
声をかけた。少年が——こちらを見た。灰色の目が、暗い廊下の中でわずかに光っている。
「カイン殿」
「食堂に戻らないのか」
「…………」
シオンが——壁から背を離した。姿勢が正される。教会仕込みの直立。
「自分は——食後の空気が、まだ慣れません」
「……食後の空気?」
「皆が笑っている空気です。自分は——何をすればいいのかわかりません」
——わかる。
私も、何をすればいいのかわからなかった。焼き菓子を5つ食べている間は考えなくて済んだが。
「……私もだ」
「…………」
二人で——中庭に面した廊下に立った。
夜の空気が冷たい。花壇の花が月明かりに白く見える。
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「カイン殿」
シオンが——前を向いたまま言った。
「和平は——成るのですか」
「……努力する」
「聖教会が——反対しているのですね」
知っている。この少年は——教会の兵士だった。教会が育て、教会が送り込んだ「完璧な勇者」。
「……ああ。大神官グレイヴスが反対している。魔族は滅ぼすべき敵だと——教会の教義がそう定めている」
「…………」
「国王陛下は和平を望んでおられる。だが教会の影響力は大きい。公にはできない。だから私が——非公式の使者として来た」
シオンが——黙った。
しばらく、二人の呼吸だけが聞こえた。
「カイン殿。自分は——教会の兵士でした」
「……ああ」
「自分は、教会に育てられました。孤児院から選ばれて。聖剣の訓練を受けて。魔王を倒すことが自分の存在理由だと——教えられて」
声に感情がない。事実を述べているだけ。——だが、その「事実」の重さを、この少年は理解しているのだろうか。
「教会が正しいと——自分はそう信じていました」
「…………」
「魔王は人類の敵。魔族は滅ぼすべき存在。聖教の教えです。自分は——その教えに従って、ここに来ました」
シオンが——中庭の花壇を見た。よしこが植えた花。赤と白と青。
「ここに来て——よしこ殿にスープをもらいました」
声が——ほんの少し、揺れた。
「美味しかった。——自分は、教会で食事をしていました。毎日同じ食事。温かくも冷たくもない。味も——覚えていません」
「…………」
「よしこ殿のスープは——味がしました。塩が効いていて、ニンジンが甘くて……自分は、涙が出ました。なぜ涙が出るのかわかりませんでした」
——この少年は。
15歳。食事で泣いた経験がなかった。「美味しい」という感情を知らなかった。
教会が育てた「完璧な勇者」。——感情を殺して。
「今は——わかります」
「何が」
「美味しいから泣いたのです。——それだけです」
シオンが——また前を向いた。
---
「カイン殿」
「……なんだ」
「教会が——間違っていたと、認めることは」
言葉が途切れた。
「……自分の、存在理由が消えることと——同じです」
——。
私は——何も言えなかった。
この少年の問いに、答えを持っていない。
「自分は——よしこ殿のスープが美味しいと思います。ここの生活が——嫌ではありません。レオン殿のように、命令なしで動けるようになりたいとも思います」
「…………」
「でも——教会が間違っていたと認めたら、自分は何のためにここに来たのかわからなくなります」
月明かりが——シオンの白い鎧を照らしている。傷一つない鎧。教会が用意した、完璧な装備。
レオンのボロボロの革鎧とは——正反対だ。
「……シオン」
「はい」
言った。言わなければならないと思った。
「私も——同じだ」
シオンの灰色の目が——こちらを見た。
「私は王国騎士団の副長だ。王の命令に従い、国を守ることが仕事だ。——だが教会とも深い関係がある。騎士の叙任式は教会が執り行い、祈祷は大神官が捧げる。私の剣は——教会の祝福を受けている」
「…………」
「和平の使者として来ることは——教会の教えに反している。魔族と交渉するなど、教義上はありえない。グレイヴスが知れば——私は異端者扱いだ」
懐に——密書がある。国王の密書。そして——よしこの招待状の返答。
「だが私は——ここに来た。二度目だ。一度目は任務だった。二度目は——」
言葉を選んだ。
「二度目は——自分の目で見たかった。あのシチューが、まだあるかどうか」
「…………」
シオンが——わずかに、目を見開いた。
この少年が表情を変えるのは——珍しい。
「……カイン殿も、食べ物の話になるのですね」
「……そういうわけでは」
「レオン殿もそうです。ここの人たちは——皆、食べ物の話をします」
——否定できなかった。
---
「カイン殿」
「……なんだ」
シオンが——正面を向いた。中庭の花壇。月明かり。
「正しいことは——誰が決めるのですか」
——。
廊下が静まった。
正しいこと。
教会は「魔族を滅ぼすこと」が正しいと言う。国王は「共存すること」が正しいと言う。
よしこは——「ごはん食べにおいで」と言う。正しいも正しくないもない。ただ——「お腹すいてへん?」と聞くだけだ。
「……わからない」
正直に言った。
「わからない。——だから、見に来た」
「…………」
「自分の目で見て、自分で判断する。それしかできない」
シオンが——黙った。
長い沈黙だった。
「……自分も——見に来たのかもしれません」
「……そうか」
「教会の命令で来ました。でも——今は、自分の目で見ています」
シオンの灰色の目が——花壇を見ている。よしこが植えた花。先代魔王が植えたかった花。
「カイン殿。自分は——答えが出ません」
「……私もだ」
「でも——よしこ殿のスープは美味しい。それだけは——確かです」
——。
笑いそうになった。堪えた。軍人として。
「……ああ。確かだ」
---
客間に戻る前に——振り返った。
シオンが——まだ廊下に立っていた。白い鎧。月明かり。
15歳の勇者。教会が育てた完璧な兵士。——スープで泣いた少年。
「シオン」
「はい」
「明日——私は王都に帰る。密書の返答を持って」
「…………」
「グレイヴスに——報告しなければならないことがある」
シオンの肩が——わずかに動いた。
「何を——報告されるのですか」
「見たことを。ありのまま」
「…………」
「魔王城で、12人が食卓を囲んでいた。魔王がシチューを出した。パンが美味かった。——それを、報告する」
シオンが——長い間、私を見た。
「……グレイヴス殿は、信じないでしょう」
「だろうな」
「報告書に——何と書くのですか」
「…………」
考えた。
「……前回も書けなかった。今回も——書けないだろう。だが、言葉にはする。信じてもらえなくても」
シオンが——小さく頷いた。
初めて——この少年が、軍人口調ではない仕草を見せた。
「……カイン殿」
「なんだ」
「……おやすみなさい」
——。
おやすみ。
教会式の就寝挨拶ではなく——ただの、おやすみ。
この城で覚えたのだろう。よしこが毎晩、全員に言っている言葉。
「……ああ。おやすみ」
客間に入った。
扉を閉めた。
——報告書に、何と書けばいいのか。
三度目の訪問で書けるようになるとは——思えなかった。
---
【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第61話「和平の壁」。カインとシオン、二人の「軍人」の夜の会話です。
和平の最大の壁は、聖教会。でもこの話で書きたかったのは「制度の壁」ではなく「心の壁」です。シオンにとって教会が間違っていたと認めることは、自分の存在理由を失うこと。カインにとっても、教会の祝福を受けた剣で魔族と握手することは、自分の騎士としての根幹を揺るがすこと。——二人とも、頭ではわかっている。でも心が追いつかない。
「正しいことは——誰が決めるのですか」。シオンの問いにカインは「わからない」としか答えられません。でも「だから見に来た」と言える。自分の目で見て、自分で判断する。それが今できる精一杯。
そして結局、二人とも「スープは美味しい」に帰着する。この城では——どんな深刻な話も、最後は食べ物に戻ります。
次回、第62話「ドルガの手紙」。不器用な男が、もっと不器用な手紙を書きます。
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