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リード 6月23日22時過ぎ、俳優・橘奏太(27)の公式Xアカウントに短い文が投稿された。「大切なご報告があります」——その7文字で、タイムラインが一瞬止まった。直後に婚約を報告するコメントが公開され、「橘奏太 婚約」は投稿から30分でトレンド入り。2時間で関連投稿数は18万件を超えた。 何が起きているのか 6月23日22時12分、橘奏太は自身の公式X(フォロワー約340万人)に婚約を報告する文章...
翌朝、リゼットは昨日の焦げたクッキーの欠片を眺めていた。 焦げの苦味の奥にあった、あの香ばしさ。大麦と蜂蜜の組み合わせだけじゃない。何かもう一つ、気になる味があった。 黒胡桃だ。 白霜の森で採ってきた、硬くて苦い木の実。生のままでは食べられなかったけれど——あの焦げたクッキーの中で、黒胡桃が熱を受けて変化していた。苦味が薄れて、代わりに深い香ばしさが立ち上っていた。 「焙煎……」 リゼット...
収穫祭の朝は、いつもより早く訪れた。 リゼットは夜明け前に起き出して、宿の裏にある窯に火を入れた。楢の薪——おそらくセドリックが置いていってくれた薪を、慎重に組み上げる。火種を押し込み、息を吹きかける。炎が立ち上がり、薪が爆ぜる音がした。 窯の中で、炎がゆっくりと安定していく。 これなら、焼ける。 昨日の夜、何度も繰り返した言葉を、リゼットはもう一度心の中で唱える。 -- 窯の温度が安定...
雪が、すべてを埋めた。 十二月。窓の外は白一色だった。屋根も、石畳も、白霜の森の木々の梢《こずえ》も——何もかもが、音を吸い込む柔らかな白に覆われている。 厨房の窓硝子に指で触れると、刺すような冷たさが骨まで届いた。 リゼットは手を引っ込めて、作業台の上のレシピ帳に目を落とした。 ——匂いが鍵。 先日、ラベンダーの焼き菓子を差し出した時。セドリック様が、初めて「何か、匂いがする」と反応し...
山ベリーを摘んできたのは、村の子供たちだった。 麻布の巾着いっぱいに、つやつやした紫がかった赤い粒が転がっている。小指の先ほどの小さな果実は、手に取るとすぐに潰れてしまいそうなほど柔らかい。一粒つまんで口に含むと、びりりと舌を刺す酸味が広がった。 「酸っぱいでしょう? でも、甘くなるんですよね」 子供たちはきらきらした目でリゼットを見上げてくる。昨日のビスコッティが村中に評判になったらしい。こ...
秋が、深まっていた。 白霜の森の木々は赤と金に色づき、朝晩の冷え込みが厳しくなっている。村の畑では最後の収穫が急ピッチで進められ、男たちは日の出から日没まで鎌を振るっていた。 「収穫祭は、来週の木曜日だよ」 朝食の配膳を手伝いながら、マリーが言った。 「年に一度の祭りだからね。村中総出で、広場に長テーブルを出して、みんなで食べるのさ」 「どんなものを出すんですか?」 「干し肉とパンと芋のスープ...
収穫祭まで、あと一日。 リゼットは厨房の片隅で、崩れたタルトを見つめていた。 焼き上がりの時点で——もう、駄目だった。生地の縁が焦げている。中心部は生焼け。木の実の詰め物が流れ出し、皿の上でどろどろの甘い泥になっている。 温度が、高すぎた。松材の薪は火力が強すぎる。石窯は蓄熱してどんどん温度が上がっていく。蓋《ふた》を閉じても火を弱めても、一度熱し過ぎた窯は言うことを聞かない。 これで——...
「今日は何作るの?」 厨房の窓から、小さな顔が覗いている。 赤い頬。霜焼《しもや》けの指。好奇心でいっぱいの目。村の子どもたちが、毎朝ここに集まるようになったのは——収穫祭から二週間ほど経った頃だった。 「今日はね、干しりんごの蜂蜜漬けです」 「あまいやつ?」 「甘いやつです」 子どもたちが歓声を上げた。リゼットは笑いながら、薄く切った高原りんごを霜花蜜に漬け込む。一晩置くと、りんごの酸味が...
雪が、すべてを覆った。 白霜の森は白い壁になった。村の屋根は綿帽子のように膨らみ、道という道が消えて、世界は白い沈黙に包まれた。 十二月。 辺境の冬は、まだ始まったばかりだ。 リゼットは毎日、厨房にこもっていた。 作業台の上には、いつもの焼き菓子の材料ではないものが並んでいる。小瓶が、六つ。七つ。中身はどれも透明な液体で、一見すると水と変わらない。 でも——蓋を開ければ、分かる。 ラ...
王都クラウゼンの尖塔が、秋の陽光に白く輝いていた。 馬車の窓から身を乗り出すようにして、リゼットはその光景を見つめた。三年ぶりの——あの街。石造りの尖塔が何本も天を突き、朝日を受けて金色に縁取られている。記憶の中の王都と、寸分違わない姿。 胸の奥が——きしんだ。 -- 城門を抜けると、甘い空気が流れ込んできた。 焼き菓子の匂いだ。バターと砂糖と小麦粉を高温で焼いた、あの幸福の匂い。街道沿い...
蜂蜜湯。 焙煎黒胡桃のビスコッティ。 蕪の蒸しパン。 干しりんごの焼き菓子。 霜花蜜のキャラメル。 ——この二週間で、リゼットがセドリック様に差し出した菓子の数は、十を超えた。 どれも、考え抜いて作った。 蜂蜜湯には花の蒸留水を加えて、湯気そのものが甘い香りを運ぶようにした。ビスコッティは二度焼きして、歯で噛む瞬間にざくりと音が鳴るようにした。蒸しパンは蕪の甘みを限界まで引き出して、...
初雪は、音もなく降った。 朝、目を覚まして窓の外を見た瞬間——世界が白かった。 屋根も、道も、白霜の森の木々の梢《こずえ》も。一夜のうちにすべてが白い衣を纏《まと》って、昨日までとはまるで違う景色がそこにあった。 リゼットは窓枠に手をついて、息を呑んだ。 王都では、雪はめったに降らなかった。降っても薄化粧のように消えてしまう、はかないものだった。 でも、辺境の雪は——違う。 積もってい...
蝋燭が揺れている。 二月の朝。窓の外は白一色で、その白さが逆にまぶしい。雪は夜のうちにまた積もって、昨日踏んだ道の跡さえも消してしまっていた。 厨房に降りると、いつもの時間なのに——セドリック様の姿がなかった。 毎朝、同じ時間に来るようになっていた。 扉を開けて、無言で座って、リゼットが出すものを食べて、「明日も来る」とだけ言って出ていく。短いけれど確かな日課。二人の間に出来た、小さな約束...
春が——来た。 白霜の森の雪が溶けて、細い流れになって丘を下っている。石畳の隙間から、緑の芽が顔を出している。空が——高い。冬の間ずっと低く垂れ込めていた灰色の雲が割れて、青い空が覗いている。 空気が変わった。 冷たい。まだ冷たい。でも——もう、痛くない。肌を刺す冬の風ではなく、頬を撫でていく春の風。 そして——セドリック様も、変わった。 -- 「……塩が効いてる」 朝食の食堂で、セドリ...
ヴィントヘルムには、匂いがなかった。 正確には、甘い匂いがなかった。馬車を降りた瞬間にリゼットの鼻を突いたのは、薪の煙と、獣脂と、冷たい土の匂い。秋だというのに風は刃物のように冷たく、吐く息が白い塊になって消えていく。 ——ここが、辺境。 村と呼ぶには小さすぎた。石造りの家が二十軒ほど、街道沿いに身を寄せ合うように並んでいる。屋根は灰色の石板で、窓は小さく、どの家も背を丸めて風を避けているよ...
朝、リゼットはマリーに尋ねた。 「昨夜、森から甘い匂いがしたんです。あの森には、何かあるんでしょうか」 マリーは朝食の黒パンを配りながら、ああ、と頷いた。 「白霜の森だね。木の実がたくさん生えてるし、野生の蜜蜂もいるよ。ただ——」 彼女は少し眉をひそめた。 「あの森の木の実は、硬くてえぐくて、とても食べられたもんじゃない。蜂蜜も、誰も採りに行かないさ。危ないし、甘いものに興味もないしね」 リ...
マリーの厨房は、思っていたよりずっと広かった。 石造りの壁に囲まれた空間の奥には大きな石窯が鎮座していて、その横には作業台と棚が並んでいる。棚には大麦の粉袋や塩の壺、干し肉や保存用の野菜が整然と置かれていた。 リゼットは厨房の入り口で立ち尽くして、その光景を見つめる。王都の宮廷厨房とは何もかもが違う。でも——ここには、確かに菓子を作るための場所がある。 「どう? 使えそう?」 マリーが腕を組...
焼き菓子が冷める音を、リゼットは知っている。 窯から出した瞬間の、ぱちぱちという小さな囁《ささや》き。生地に閉じ込められた空気が抜けていく、ほんの数秒の声。それは菓子が「生まれた」合図であり、菓子師にとっては赤子の産声にも等しい。 ——だから今、自分の耳に届いているこの音が何なのか、すぐには理解できなかった。 拍手だった。 宮廷の大広間に響く、乾いた拍手。王太子ヴァレンティン・フォン・クラ...
「……甘い」 声が、落ちた。 かすれた、小さな声。 焚き火の爆ぜる音にかき消されそうな、それほど小さな声だった。 でも、リゼットには——はっきりと、聞こえた。 「え……」 リゼットの口から、声が漏れた。 「今、甘いって……?」 セドリックが、リゼットを見た。 その瞳に——何かが、揺れていた。 怒りでも、苦しみでもない。もっと深い、名前のつかない何か。 長い沈黙が流れた。 焚き火...
屋根から、雫《しずく》が落ちている。 ぽた、ぽた、ぽた——規則正しく。まるで時計の秒針みたいに。 三月の終わり。窓を開けると、冷たいけれど痛くない風が頬を撫でた。あの刺すような冬の風とは違う。湿り気を含んだ、柔らかい風。 春が——近い。 リゼットは厨房の作業台に立って、手のひらの上のものを見つめていた。 高原りんご。 最後の一個。 秋のうちに保存しておいた中で、唯一残ったもの。皺が寄...
第3章「王都の毒と蜜」 -- 厨房が、甘い煙に包まれている。 石窯の扉を開けると、焙煎した黒胡桃の香ばしさと、霜花蜜の花のような甘さが一斉に立ち上った。鼻腔をくすぐる、濃くて深い匂い。リゼットは反射的に目を閉じ——嗅覚だけで、焼き加減を読んだ。 あと三十秒。 数えるまでもない。匂いの色が変わる瞬間は、舌で分かるのと同じくらい、鼻で分かる。 三十秒後、窯から引き出した天板の上で、黒胡桃のフ...
いつの間にか、日課になっていた。 朝。厨房で試作品を仕上げていると、重い足音が廊下を近づいてくる。 扉が開く。 冷たい外気と一緒に、大きな影が入ってくる。灰銀色の髪。黒い外套。左頬の傷跡。 セドリック様は、まっすぐリゼットを見て——言った。 「食わせろ」 たった一言。 それだけで——リゼットは、笑顔になる。 -- 始まりは、十二月の終わりだった。 最初は夜更けだった。 片づけの終...
悔しい。 厨房の作業台に並べた試作品を見つめながら、リゼットは唇を噛んだ。予選の審査で言われた言葉が、まだ頭の中で回り続けている。 ——技術は確かだが、素材が貧弱。 分かっている。辺境の素材は、王都の菓子師たちが使う高級素材には遠く及ばない。南部の上白糖、東方の香辛料、温室で育てた季節外れの果実——そんなものは、手元にない。 あるのは黒胡桃。霜花蜜。高原りんご。寒さと風に鍛えられた、素朴で...
厨房の扉を開けた瞬間——空気が、変わった。 朝の練習厨房には、すでに五、六人の参加者が作業台に向かっていた。昨日までと同じ顔ぶれ。同じ白い作業着。同じ小麦粉の匂い。 でも——視線が、違う。 リゼットが一歩踏み入れた途端、手が止まった。泡立て器を握る手が。生地をこねる手が。砂糖を量る手が——一斉に止まって、こちらを見た。 すぐに逸らされる。わざとらしく作業に戻る。でも、耳は——こちらに向いて...
三月の吹雪は、音が違う。 二月の雪はしんしんと降る。音もなく、静かに、世界を白く塗り替えていく。 でも三月の吹雪は——唸る。窓硝子《まどガラス》を叩き、屋根を揺すり、煙突の中を駆け抜けて暖炉の火を脅かす。冬の最後の力を振り絞るように、荒々しく、執拗に。 リゼットは毛布を引き上げて、天井を見つめていた。 眠れない。 保存食の量産で体は疲れ切っているはずだった。毎日、朝から日が暮れるまで厨房...
プティフール。 小菓子の詰め合わせ——辺境の四季を、一皿に載せる。 その構想が頭の中で形を取り始めてから三日。リゼットは宿の厨房にこもり、各パーツの試作を繰り返していた。黒胡桃のフィナンシェは秋。霜花蜜のボンボンは冬。高原りんごのコンポートは春。ベリーのタルトレットは夏。そして中央に——辺境の蜂蜜を使ったカラメルで、全てをつなぐ。 辺境の太陽。 一つの菓子では伝えきれなかったものを、五つの...
王都の菓子は——光っていた。 品評会の前夜祭。王城の大広間に並べられた展示台の上で、色とりどりの菓子が燭台の光を浴びて輝いている。砂糖細工の薔薇。金箔を散らしたガトー。琥珀色のカラメルの塔。銀の皿に盛りつけられた宝石のようなボンボン。 息を、呑んだ。 三年前まで、この世界にいた。宮廷菓子房の末席で、この光の中にいた。 でも——今のリゼットは、この光の外側にいる。 -- 前夜祭は、品評会の...
目が覚めた瞬間——頭の中に、皿があった。 白い、丸い皿。何も載っていない。でもその上に、何かが並ぶべき場所がある。四つの、小さな場所。東西南北のように、あるいは春夏秋冬のように——等間隔に。 そして中央に、一つ。 リゼットは宿の寝台の上で目を見開いた。天井の木目が朝日に照らされて、琥珀色に光っている。 昨夜レシピ帳に書いた一行が——あの疑問符付きの一行が——寝ている間に、形を変えていた。 ...
朝の厨房は、嘘のように静かだった。 昨日まで漂っていた疑惑の空気が嘘のように——いや、違う。消えたのではない。別の場所に移っただけだ。 練習厨房の扉を開けると、いつもの参加者たちがいた。作業台に向かい、生地をこね、砂糖を量り、窯の温度を確かめている。昨日とは視線が違う。リゼットを避ける目ではなく——もっと遠くを見ている目。後任菓子師の作業台のあたりを、ちらちらと窺う目。 あの場所は——空だっ...
品評会の予選会場は——息ができないほど、甘かった。 溶かしバターの重い香り。焼けたカラメルの苦甘い匂い。バニラの、あの鼻腔の奥にまで沁み込んでくるような芳香。砂糖が焦げる、わずかに焦がした縁だけが放つ深い甘さ。 空気そのものが菓子だった。 リゼットは作業台の前に立ち、両手を握りしめた。指先が冷たい。九月の王都は暖かいはずなのに——手だけが、凍えている。 -- 予選会場は王城の西棟、大宴会場...