『強い経済』は誰を強くするのか
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伊東雄歩について
4月22日、高市首相が日本成長戦略会議を開いた。 テーマは「労働市場改革で強い経済を実現する」こと。 高圧経済政策——意図的に経済を過熱させ、雇用を最大化するという構想も俎上に載っている。
読んで、正直に思った。 「国家が、個人に成長を要求する構造になってきた」と。
これは批判ではない。構造の話だ。
政府の論理はこうだ。 人口が減る→労働力が足りない→生産性を上げるしかない→だから人間を強くする。
シンプルに見えて、この図式には省略がある。 「生産性を上げる」の主語が、企業なのか制度なのか個人なのか、曖昧なまま走っている。
たとえば「高圧経済」という概念は元々、マクロ経済学者ラリー・サマーズらが提唱したもので、意図的な需要超過で労働市場を引き締め、企業に賃上げと投資を迫る発想だ。 つまり本来は企業側への圧力設計である。
だが政策として実装されると、「成長しない人間は市場に置いていかれる」という個人へのプレッシャーに変換されやすい。 言葉は制度になり、制度は空気になり、空気は義務になる。
止まれない時代、という言葉を使ってきた。 AIが人間の仕事の定義を毎月書き換え、スキルの賞味期限が短くなり、「現状維持」がリスクになる。
そこへ今度は国家が「強い経済」という旗を立てた。
成長圧力はもはや個人の動機の話ではなく、社会インフラのレベルで設計されようとしている。
ここで二つの反応が起きる。 ひとつは「やっと政府が本気になった、自分も頑張らないと」という焦燥。 もうひとつは「また上から圧かけてくるのか」という反発。
どちらも正直な反応だ。ただ、どちらも思考を止める。
ここが核心だ。
「強い経済」の「強い」を、国家の論理に丸投げしていいか。
政府が想定する「強さ」は、おそらくGDP成長率、労働生産性、賃金水準で測られる。 それ自体は悪くない指標だ。 だが個人にとっての「強さ」は、それとずれる可能性がある。
私が「成長=アップデート」と再定義してきたのは、この理由からだ。
GDPに貢献できるかどうかと、自分がアップデートできているかどうかは、重なる部分もあるが、同じ問いではない。
成長戦略会議の議論は、制度設計の話だ。 リスキリング支援、労働移動の円滑化、賃金の上方硬直性の解消——これらは構造問題で、個人が単独で解決できるものではない。
だから「政府が動いても自分には関係ない」も違うし、「政府が全部やってくれる」も違う。
制度は追い風か向かい風かを決めるが、あなたが動くかどうかは別の問いだ。
個人にできることは、この圧力の構造を理解した上で、自分のアップデートを設計することだ。 焦燥から動くのではなく、内発から動く設計。 恐怖が燃料では、長く走れない。
高圧経済政策が本当に機能するなら、労働需要が増え、賃金が上がり、人々の選択肢が広がる可能性はある。 それは歓迎すべきことだ。
だが同時に問い続けなければならない。
その「強い経済」は、人間が適応できるスピードで動いているか。
アップデートを支援しない成長戦略は、脱落者を量産する装置になる。 強さを個人の根性に依存した設計は、構造として持続しない。
成長戦略会議が議論すべきは、数字の目標だけでなく、「どうすれば人間がアップデートし続けられる設計になるか」だと私は考える。
労働市場の改革は必要だ。 だがその改革が「より速く走れる個人を選別する仕組み」で終わるなら、それは強い経済ではなく、消耗する経済だ。
国家が成長を語るとき、個人は問いを手放してはいけない。 「強い」とは何か。誰にとって強いのか。そのコストは誰が払うのか。
その問いを持ち続けることが、どんな制度設計よりも先に必要な、個人のアップデートだと思っている。