ガルドのパン
2026年2月22日
2026年2月22日
◆ガルド視点
朝が来る前に、起きた。
窓の外はまだ暗い。石壁の隙間から冷たい空気が入ってくる。シオンくんたちが魔王城に来てから、もう二週間になる。
隣のベッドでトールくんが寝ている。寝息が規則正しい。盾を構えるみたいに毛布を抱えている。
起こさないように——そっと、部屋を出た。
厨房。
暗い。冷たい。誰もいない。
かまどに火を入れた。
よしこさんに教わった手順。薪を組んで、火打ち石を打って、息を吹きかける。
ぼんやりと火が灯った。厨房が橙色に染まる。
——今日は、一人でやる。
小麦粉を量った。水を足した。塩を入れた。
よしこさんのレシピを思い出す。何回も一緒に作った。よしこさんの横で、よしこさんの手の動きを見て、同じようにやって——「上手やん(^^)」って言ってもらって。
でも今日は、横にいない。
一人で——パンを焼く。
生地をこねた。
手が大きいから、生地がはみ出る。粉が飛ぶ。台が白くなる。
力加減がわからなかった頃のことを思い出す。最初は生地を潰した。二回目は硬くなった。三回目でやっと「こね」ができるようになった。
よしこさんが言っていた。「パンはな、赤ちゃんの頬っぺたみたいになったら完成やで(^^)」
赤ちゃんの頬っぺた。
触ったことはないけど——たぶん、こういう感じだと思う。指で押すと跳ね返る。柔らかくて、温かくて。
生地を丸めた。
——下手だ。
丸くない。楕円でもない。なんだろう、この形。右側がつぶれて、左側が尖っている。
もう一つ丸めた。今度は——もっと歪い。
三つ目。四つ目。五つ目。
全部、形が違う。一つとして同じものがない。
よしこさんが丸めると、全部同じ大きさで、全部まんまるになる。
僕のは——でこぼこで、大きさもバラバラで、なんだか——不恰好だ。
かまどに入れた。
火加減を見る。よしこさんは「かまどの声を聴くんやで(^^)」と言っていた。意味がわからなかったけど——最近、少しだけわかる。パチパチという音。熱の匂い。石の色。
待つ。
待っている間、何もすることがない。
いつもはトールくんが隣にいる。一緒に野菜を切ったり、皿を並べたり。でも今日は——起こさなかった。
一人で焼きたかった。
理由は——うまく言えない。
ただ、一人でやってみたかった。
——匂いがした。
香ばしい。小麦粉と、塩と、火の匂い。
窓から入る冷たい空気と混ざって——厨房に広がる。
心臓が跳ねた。
かまどを開けた。
——焼けている。
不格好なパンが、五つ。
形はめちゃくちゃだ。左右対称なものは一つもない。焼き色もムラがある。一番端のやつは少し焦げている。
でも——いい匂いがする。
手で触った。熱い。表面がカリッとしている。
割った。中から湯気が出た。ふわっと——香ばしい匂い。
一口食べた。
——美味しい。
しょっぱくない。硬くない。ちゃんと——パンの味がする。
……えへへ。
---
◆トール視点
——匂いで目が覚めた。
パンの匂い。香ばしくて、温かくて、少し焦げた匂い。
よしこ殿の作るパンに似ている。でも——少し違う。もっと——荒い。
隣のベッドが空だった。
厨房に行った。
ガルドがいた。190cm。エプロン。手が粉だらけ。
まな板の上に——パンが並んでいる。五つ。
「……ガルド」
「あ、トールくん! 起こしちゃった?」
「匂いで起きた。——これは」
「えへへ。……焼いたの。一人で」
一人で。
パンを見た。
形は——めちゃくちゃだ。一つは潰れている。一つは尖っている。焼き色がバラバラで、一番端のは黒い。
教会の食事で出されるパンとは全然違う。教会のパンは四角くて、全部同じ形で、全部同じ色で——味がしなかった。
ガルドのパンは——どれも違う。
「……食べていいか」
「うん! どうぞ!」
一つ手に取った。温かい。重い。
割った。湯気が出た。
口に入れた。
——うまい。
噛むと、塩の味がする。小麦粉の甘さがある。焦げたところは少し苦い。でもその苦さが——いい。
「…………」
ガルドのパンを見た。
五つ。全部形が違う。全部歪い。全部不格好。
でも——全部、ガルドの手の形をしている。
「……きれいだ」
「え?」
ガルドが目を丸くした。
「き、きれいって……形めちゃくちゃだよ?」
「きれいだ」
繰り返した。
きれいだ。
盾で敵を押し返すことしか知らなかった俺には——わかる。
壊すことしかできなかった手で——何かを作るのは、きれいだ。
形なんか関係ない。歪くても、焦げていても——この手で作ったものは、きれいだ。
「…………」
ガルドの目が——潤んだ。
「ト、トールくん……」
「うまい。——もう一つ食べていいか」
「うん……うん、食べて! いっぱいあるから!」
五つしかないが——「いっぱいある」と言い切った。ガルドらしい。
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◆ガルド視点
朝ごはんの時間。
食堂に——全員が来た。
テーブルの真ん中に、僕のパンを置いた。
五つ。不格好なパン。皿の上で——ちょっと傾いている。丸くないから、安定しない。
「これ何!? パン?」
「ボクも食べるー!」
ピプちゃんが椅子の上に立った。オレンジの目がきらきらしている。羽根がぱたぱた動いている。
「ガルドが焼いたの!? 一人で!?」
「え、えへへ……うん。一人で……」
「すげぇじゃん」
レオンが——ぼそっと言った。
手を伸ばして、パンを一つ取った。乱暴にちぎった。口に入れた。
「…………」
噛んでいる。黙って。
「……悪くねぇ」
レオンの「悪くねぇ」は——「美味い」だ。もうわかる。
「……香ばしい。塩加減がいい」
リーゼさんが小さな声で言った。パンを小さくちぎって、一口ずつ食べている。薄い青の目が——少しだけ光っている。
「形はあれだけど。——味は、よしこのより好き」
「え、えぇっ!? よしこさんよりって——」
「うん。荒い感じが……いい」
リーゼさんに褒められた。
えへへ。
「フン」
ドルガさんが——パンを手に取った。210cmの手に、パンが小さい。
一口で半分食べた。
「…………」
「ド、ドルガさん?」
もう半分も食べた。
「……フン。悪くない」
そして——二つ目に手を伸ばした。
「あ、あの……みんなの分が——」
「二つ目だ」
「は、はい」
二つ目も——一口で半分消えた。残り半分も消えた。
「…………」
三つ目に手を伸ばした。
「……3つ目をもらう」
「ド、ドルガさん!? もう残り2つしか——」
「3つ目だ。文句あるか」
「お前飲みすぎ——食いすぎだろ!」
レオンが叫んだ。
「うるせぇ小僧。腹が減っていただけだ。——フン」
3つ目が消えた。
「ドルガー! ボクの分がないー!」
「知るか。弱い奴が悪い」
「弱くないもん! ボク四天王だもん!」
ピプちゃんが羽根をばたばたさせている。
「ピプちゃん、僕のを半分あげるよ」
「ガルくんやさしい!」
残ったパンを半分にちぎった。ピプちゃんに渡した。小さな手で受け取って——ぱくっと食べた。
「おいしー! ガルくんのパンおいしー!」
羽根がぱたぱた。尻尾がゆらゆら。
「…………」
みんなが——食べている。僕のパンを。
不格好で、形がバラバラで、焼き色がムラだらけの——僕のパンを。
美味しいって言ってくれている。
胸が——熱い。
---
食堂の片隅。
よしこさんが——じっと見ていた。
みんながパンを食べている間、よしこさんは自分のパンに手をつけていなかった。
「よ、よしこさん? 食べないんですか?」
「……ん? ああ、食べるで(^^)」
よしこさんがパンをちぎった。——手が、少し震えていた。
「よしこさん?」
口に入れた。
噛んだ。
——深紅の目が、細くなった。
「…………」
よしこさんが——黙った。
いつもはすぐに「美味しいやん(^^)」って言うのに。今日は——黙っている。
「よ、よしこさん……口に合いませんでしたか……?」
怖い。
よしこさんに「美味しくない」って言われたら——たぶん、僕は泣く。
「…………美味しいわ」
声が——小さかった。
よしこさんの声が、こんなに小さいのは初めて聞いた。
「ガルくん」
よしこさんが——僕を見た。深紅の目が——潤んでいる。
「え」
「あんた、これ……一人で焼いたん?」
「は、はい。朝、みんなが起きる前に——」
「一人で」
「一人で……」
よしこさんの目から——涙がこぼれた。
「よ、よしこさん!?」
「あかん……あかん、ちょっと待って(^^)」
エプロンで目を拭いた。でも涙が止まらない。次から次へとこぼれてくる。
「なんでこんなん……あかんなぁ……えらいなぁ……」
「よ、よしこさん、僕なにか——」
「ちゃうねん(^^) ちゃうの。嬉しいの。嬉しくて泣いてんの」
嬉しくて——泣く。
「あんたが……一人で焼けるようになったんやと思ったら……あかん、涙止まらんわ……」
よしこさんが——泣いている。
魔王が。この城で一番強い人が。パンを食べて、泣いている。
「園長やってた時もな……卒園式で毎回泣いてたんよ(^^) 子どもが一人で何かできるようになった時が……一番嬉しいんよ(^^)」
卒園式。
よしこさんの前の世界の言葉。僕にはよくわからない。でも——「子どもが一人でできるようになった時が嬉しい」は、わかる。
僕が——一人でパンを焼けるようになったことが、嬉しいんだ。
胸が——もっと熱くなった。
「よしこさん」
声が出た。自分でも驚くほど——はっきりした声。
「僕……パン屋、やりたいです」
よしこさんの涙が——止まった。
深紅の目が、まっすぐ僕を見た。
「この世界のどこかで。僕のパンを……もっとたくさんの人に食べてもらいたいです」
ずっと——言えなかった。
勇者パーティの戦士として選ばれた僕が、「パン屋やりたい」なんて。そんなの——「使えない」って言われるのと同じだと思っていた。
でも——今なら言える。
「戦えなくても。剣が持てなくても。僕には——パンが焼ける」
声が震えた。でも——止めなかった。
「よしこさんに教わったこと。トールくんと一緒に作ったこと。ドルガさんが『悪くない』って食べてくれたこと。全部——全部、僕の中にあります」
よしこさんが——また泣いた。
でも今度は——笑っている。泣きながら、笑っている。
「ええやん(^^)」
「……え」
「ええやん(^^) パン屋。最高やん(^^)」
よしこさんが僕の手を取った。粉だらけの、大きな手を。
「えらいな、ガルくん。自分で見つけたんやな(^^)」
——あぁ。
泣いた。
僕も泣いた。
190cmが、食堂の真ん中で、泣いた。
「す、すみません……泣いて……」
「泣いてええの(^^) 泣くんは、心が動いてる証拠やで(^^)」
よしこさんの手が——温かい。粉だらけの僕の手を、ぎゅっと握ってくれている。
「……パン屋か」
トールくんの声が聞こえた。振り向くと——トールくんが、茶色い目で、僕を見ていた。
「……ガルド。俺も——手伝っていいか」
「トールくん……」
「俺の切った野菜は三角だ。でも——パンの生地なら、形がなくても焼ける」
トールくんが——笑った。口元だけ。ほんの少し。
でも——今日のは、いつもより大きかった。
「ハッ! パン屋だと?」
ドルガさんが腕を組んだ。
「戦士がパン屋とは——笑わせる」
立ち上がった。210cmの影が食堂を覆った。
「——毎朝届けろ。焼きたてをだ。それが条件だァ」
条件。
届けろ。つまり——応援してくれている。
「ド、ドルガさん……!」
「感謝するな! フン! 腹が減るだけだ!」
背を向けた。耳が赤い。
「……ガルド」
レオンが——壁に寄りかかったまま、腕を組んでいた。
「お前、戦士辞めんのか」
「……うん。ごめん、レオン」
「謝んなよ」
レオンが——鼻を鳴らした。でも目は笑っていた。
「お前のパン、悪くなかった。——もっと焼けるようになったら、教えろ」
「……うん。うん!」
「ガルくんパン屋さんー! ボクお客さん第一号ー!」
ピプちゃんが飛び回っている。羽根がぱたぱた。天井にぶつかりそうになっている。
みんなが——笑っている。
僕のパンの匂いが漂う食堂で。不格好なパンの欠片がテーブルに散らばっている食堂で。
泣きながら——笑った。
パン屋。僕の夢。
初めて——自分で見つけた、僕だけの夢。
---
【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第50話「ガルドのパン」。この物語で初めて、子どもが「自分の夢」を口にした話です。
ガルドは「体が大きいから」という理由だけで戦士にされました。自分で選んだわけじゃない。戦いたかったわけじゃない。でもパンは——自分で選んだ。誰にも言われていないのに、朝早く起きて、一人で焼いた。
よしこが泣いたのは「パンが美味しかったから」ではありません。「子どもが自分で何かを見つけた」から泣いた。保育士にとって一番嬉しい瞬間は、子どもが自分の足で歩き出す時です。手を離す怖さと、手を離せる嬉しさ。よしこの涙には、40年分の「卒園式の涙」が全部入っています。
トールの「きれいだ」は、壊すしかできなかった手で作ったものへの、最高の賛辞です。形がめちゃくちゃでも、きれいなものはきれいなんです。
ドルガの「3つ目をもらう」は「応援してるぞ」の翻訳です。「毎朝届けろ」は「お前のパンが好きだ」の翻訳です。この人は一生こうです。
不格好なパンが5つ。でも全部、ガルドの手の形をしている。自分の手で作ったものは、どんな形でも美しい——そういう話を書きたかった。
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