第11話 いつか、あの舞台に
2時間前
2時間前
桜に似た花が、庭木の枝に咲いていた。
着任から一年。春が、また来た。
窓を開けると、去年と同じ新芽の匂いがした。あの日——革鞄ひとつで門の前に立ち尽くした日から、季節が一巡した。子供部屋の空気はもう重くない。酸えたミルクの臭いも、汚れた布も、虚ろな目もない。
観察記録ノートは二冊目に入っていた。一冊目の最後のページには、三人の一年間がぎっしりと詰まっている。
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朝。エミリアが自分で髪を梳いていた。
毎晩私が梳いていた栗色の巻き毛を、四歳になったエミリアが自分で梳いている。まだ上手ではない。毛先が絡まって、小さな眉が寄る。でも誰にも助けを求めずに、鏡の前で格闘している。
「エミリア、手伝おうか?」
「じぶんで、やる」
四歳の意地。前世の保育園でも、四歳は「自分でやりたい期」だった。靴を自分で履きたい。服を自分で着たい。できなくても、手伝われるのが嫌。——それが成長だ。
夜泣きは、もうほとんどない。月に一度あるかないか。雷の夜だけは、まだすすり泣く。でも私の手を引き寄せれば、十分もかからず眠りに落ちる。あの百八十夜が、嘘のようだ。
「できた!」
エミリアが振り返った。髪は半分だけ梳けて、もう半分は寝癖のままだ。でも顔は得意そうに輝いている。
「上手にできたね」
残り半分は、後でこっそり直そう。
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昼。マティアスが庭を歩いていた。
歩いていた。一年前は揺り籠の中で一滴の乳を飲むのがやっとだった赤ん坊が、二本の足で庭の土を踏みしめている。一歳を過ぎて、ひとり歩きが安定した。転ぶことはまだあるが、転んでも泣かない。手をついて、また立ち上がる。
麦粥はとうに卒業し、今は柔らかく煮た野菜と芋を食べている。好き嫌いの兆候はまだない。何でも口に入れる。——好奇心旺盛すぎて、食べてはいけないものまで口に運ぶのが問題だが。
マティアスが庭の花を摘んだ。ぎゅっと握りしめて、こちらに駆けてきた。よたよたとした足取りで。
「あ!」
花を差し出された。握りすぎて花弁が潰れている。でもそれは——贈り物だ。一歳の子供が、誰かに何かを「あげたい」と思って持ってきた。
「ありがとう、マティアス。きれいだね」
きれい。
あの夜の言葉が、ふと蘇った。
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夕方。ルーカスが子供部屋で本を読んでいた。
一年前と同じ姿。窓辺の椅子に座って、膝の上に本を開いている。でも今のルーカスは、一年前のルーカスとは別人だ。
「る、ルーカス様。今日のリズム練習、始めましょうか」
——しまった。ルーカスの前で噛んだ。私の方が緊張している。この子の言語の進展が嬉しくて、つい声が上ずる。
ルーカスが本を閉じた。こちらを見た。茶色の瞳に、あの冬の夜の星の光はもうない。代わりに、穏やかな光が灯っている。
「……うん」
一音。でも確実な返事だ。「きれい」の夜から四ヶ月。あの二音節を皮切りに、ルーカスの声は少しずつ戻り始めていた。
「うん」「ううん」「いや」「もう少し」。短い単語だけ。長い文はまだ組み立てられない。途中で喉が詰まる。でも——声が出る。出そうとしている。
手拍子を始めた。三拍子。ルーカスの手が合わせる。今はもう毛布越しではない。自分の掌で、はっきりと音を鳴らす。リズムが部屋に満ちる。
二拍子に変えた。ルーカスが即座に追う。四拍子。追う。変拍子——三拍子と二拍子を交互に。ルーカスの手が一瞬迷い、二小節で追いついた。
この子のリズム感は、並ではない。音楽の根幹を掴んでいる。
手拍子を止めて、今日は少しだけ試すことにした。
「ルーカス様。前に話した、旋律のこと——今日、少しだけ歌ってみてもいいですか? 私が歌うので、聴いているだけでいいです」
ルーカスが一瞬固まった。あの日——着任二日目に歌を拒否した記憶が、まだ残っているのだろう。でも今は首を横に振らなかった。
「……うん」
「ちゅうりっぷのはなが ならんだ、ならんだ——」
小さな声で歌った。ルーカスの目が閉じた。拒否ではない。聴いている。旋律が耳に入り、体に染み込んでいくのを、自分のペースで受け入れている。
歌い終わった後、しばらく沈黙があった。
ルーカスの唇が微かに動いた。声にはならなかった。でも口の形が——旋律を追っているように見えた。
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マルタが夕食を運んでくれた時、一通の手紙を添えていた。
「イルマ様から。お時間がある時に、離れへ来てほしいと」
イルマ様の体はこの一年で目に見えて衰えていた。離れの居室から出る回数が減り、花瓶事件の日のような無理はもうできないだろう。
それでも、マルタを通じて子供たちの報告を欠かさず読んでいた。
夕食後、子供たちが眠りについてから離れを訪ねた。
「久しぶりですね、フィオナ」
イルマ様は寝台の上に体を起こしていた。銀髪が以前より薄くなっている。でも目は変わらない。あの鋭く柔らかい、孫を見る時の目。
「一年分の報告、毎日読んでいましたよ。マルタが運んでくれるノートの写しを。ルーカスが声を取り戻し始めたと聞いた時は、涙が出ました」
「……ありがとうございます。まだ短い単語だけですが」
「十分です。あの子が声を出せたこと自体が——。ところで、フィオナ。学園のことはご存知?」
「学園……王都の貴族学園でしょうか」
「ええ。年に一度、弁論大会があるの。貴族の子弟が自分の考えを壇上で発表する場。ルーカスの年齢なら、三年後には出場できます」
弁論大会。壇上で、大勢の前で、自分の言葉を話す。
一年前のルーカスには、想像もできなかったことだ。声が出ない少年が、大勢の前で弁論する。でも今——短い単語が出始めた今——不可能ではなくなった。不可能ではないと、信じられるようになった。
「イルマ様。もう一つ、お聞きしたいことがございます。王立教育監査というものが——」
「ああ、ブラント卿のことね」
イルマ様の声が少しだけ硬くなった。
「王立教育監査官。教育機関の認可と査察を行う王立機関です。いずれ——あの人がこの家の教育を見に来ることがあるかもしれません。覚えておいてね」
それ以上は語らなかった。でも「覚えておいて」という言葉の奥に、何か重いものを感じた。
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子供部屋に戻ると、ルーカスがまだ起きていた。
窓辺ではなく、寝台の縁に座って、膝を抱えている。あの一年前の姿に似ているが——目が違う。虚ろではない。何かを考えている目だった。
「ルーカス様。まだ起きていたの?」
「……べん、ろん」
弁論。さっきイルマ様の部屋に行く前に、私が「弁論大会」と口にしたのを聞いていたのだろうか。この子は——いつも、聞いている。
「弁論大会のこと? 学園で、年に一度あるんですって。自分の考えを、みんなの前で話すの」
ルーカスの顔が曇った。
「……む、むり」
むり。二音節。声は小さかったが、はっきりと聞こえた。
膝を抱える腕に力が入っている。声が出るようになったからこそ、自分の限界が見えるのだろう。短い単語しか出ない。長い文は途中で詰まる。それで弁論など——と思っている。
隣に座った。
「今はね。今はまだ難しい。でも——いつか、あの舞台に立てるよ。ルーカス様なら」
ルーカスが顔を上げた。
「……ほん、とう?」
あの夜と同じ言葉だ。着任初日の夜。暗闇の中で、声にならない口の形で「ほんとう?」と問いかけたあの瞬間。
あの時は唇だけだった。今は——声がある。
「本当だよ」
頷いた。
ルーカスの唇が震えた。何か言いたそうだった。でも言葉にはならなかった。代わりに——目が光った。涙ではない。星を見た夜と同じ光が、茶色の瞳の奥で静かに燃えていた。
この子は今、初めて「未来」を見ている。
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【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
一年目の終わりを書くのは、長い手紙の最後の一行を書くような気持ちでした。一滴のミルクから始まった物語が、エミリアの「じぶんでやる」とマティアスの花束とルーカスの「うん」に辿り着いた。数字で言えば観察記録ノート二冊分。でも数字では測れない変化が、三人の中で起きています。
「いつか、あの舞台に立てるよ」——このセリフを書いた時、ルーカスが弁論大会で優勝する未来が確実に見えました。まだ三年先のことです。短い単語しか出ない今から、あの舞台まで。その道のりを一緒に歩いてくださる読者がいてくれたら、こんなに嬉しいことはありません。
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