第12話 先生
2時間前
呼び出しは、春の陽が長くなり始めた午後に来た。
マルタが伝言を持ってきた。「エドワード様が、書斎で養育状況の報告を求めておられます。ヒルデ様も同席とのことです」
来た。
一年前の花瓶事件以来、エドワード様は子供部屋に足を運んでいない。でも「報告」は求める。数字が欲しいのだ。この人が理解する言語は、成績と数値と目に見える成果だけ。
分かっていた。いつかこの日が来ることは。
観察記録ノートを二冊、腕に抱えた。一年分の記録。一日も欠かさず書き続けた三人の成長の全記録。これが私の「報告」だ。
---
書斎は広かった。窓から春の光が差し込み、大きな机の上に書類が整然と並んでいる。エドワード様は机の向こうに座り、ヒルデがその脇に立っていた。
「座りなさい」
椅子が一脚用意されていた。面談の形式。着任初日のイルマ様との面談を思い出した。あの時は離れの陽当たりのいい部屋だった。今日の書斎には温もりがない。
「一年が経った。養育状況を報告しなさい」
「はい。まず、ルーカス様について——」
「その前に、ヒルデの所見を聞こう」
遮られた。私の報告より先に、ヒルデの意見を聞く。序列が明確だった。
ヒルデが一歩前に出た。教鞭を右手に持ち、背筋を伸ばして。
「エドワード様。率直に申し上げます。この一年間、養育係は子供たちを遊ばせてばかりでした。手を叩かせ、歌を聴かせ、庭で花を摘ませる。いずれも教育的価値のない行為です」
一語一語が、私の一年間を否定していく。
「読み書きの進度はゼロ。算術もゼロ。礼儀作法の指導は一切行われておりません。公爵家の嫡男として、ルーカス様は来年の学園入学に備えるべき時期にあります。現状では、入学後に恥をかくのはルーカス様ご自身です」
ヒルデの声に感情はなかった。事実を報告しているだけだ。——そして事実として、読み書きも算術も教えていないのは本当だ。私はこの一年間、「教育」ではなく「養育」をしていた。言葉を取り戻すこと。食べられるようになること。眠れるようになること。それが先だと判断した。
でもこの書斎では、その判断は通らない。
エドワード様が私を見た。
「報告しなさい。何科目の成績が上がったのか」
成績。科目。数字。
「エドワード様。科目の成績ではございませんが、子供たちの変化を記録したものがございます」
ノートを差し出した。二冊。表紙が日焼けして、角が丸くなっている。三百六十五日分の記録が詰まった、私の一年間。
「これは観察記録です。ルーカス様の言語の回復、エミリア様の睡眠の改善、マティアス様の身体の成長——すべて記録してございます。一日ごとの変化を——」
「数字で報告しなさい」
エドワード様は手を振った。ノートを見ようともしなかった。
「何点上がったのか。何科目を修めたのか。どの程度の礼儀作法が身についたのか。それが報告だ。日記を読む暇はない」
日記。
一年分の観察記録を、「日記」と呼ばれた。
「……日記ではございません。これは子供たちの成長の——」
「成長? 読み書きができないことが成長か? 算術ができないことが成長か?」
エドワード様の声が硬くなった。
「ルーカスは声が出るようになりました。一年前は一言も——」
「声が出ることと成績は別だ。声が出ても学園で使い物にならなければ意味がない」
意味がない。
あの子が十一ヶ月の沈黙を破って「きれい」と言った夜を。「ほんとう?」と声を震わせたあの瞬間を。——意味がない、と。
拳を握った。膝の上で、エドワード様から見えない位置で。
「エミリア様は夜泣きがほぼ解消し——」
「夜泣きは病気ではない。治ったところで成績には関係ない」
「マティアス様は離乳食を——」
「一歳児が食事をするのは当たり前だ。報告に値しない」
全部。全部、退けられた。
一滴ずつ積み上げた一年間が。布端授乳の一滴が。百八十夜の約束が。リズムの手拍子が。麦粥の温度調整が。獣脂の灯りが。毛布の壁が。全部——「成績」ではないという理由で、なかったことにされていく。
ヒルデが口を開いた。
「エドワード様。ご提案がございます。来年の学園入学に向けて、今から読み書きと算術の集中教育を開始すべきかと。養育は引き続きこの者に任せるとして、教育の時間を大幅に増やすことを——」
「そうだな。そうしよう」
あっさりと決まった。私の一年間を飛び越えて、来年の入学準備が決まった。
「報告は以上か」
「……はい」
声が震えていた。堪えた。ここで泣いたら、この書斎で私の言葉はすべて「感情的な女の泣き言」に変わる。泣くのは——後だ。
ノートを抱えたまま、一礼して書斎を出た。
---
廊下を歩いた。膝が震えていた。一年前と同じだ。ヒルデに歌を止められたあの日も、エドワード様に「静かにさせろ」と言われたあの日も。膝が震えた。
でも今日は——あの時より深い。
見てもらえなかった。
ノートを、一ページも開いてもらえなかった。三百六十五日の記録を「日記」と呼ばれ、手を振って退けられた。
子供部屋に戻ろうとした。子供たちの前に出る前に、顔を整えなければ。
廊下の曲がり角で——ルーカスが立っていた。
壁に背を預けて、膝を抱えて座っている。あの一年前の虚ろな姿勢。でも目は違う。目だけは一年前と全く違っていた。
こちらを見ている。焦点が合っている。そして——何かを決めた目をしていた。
この子はどこまで聞いていたのだろう。書斎は廊下の突き当たりにある。ここまで声が漏れたとしたら——「声が出ても使い物にならなければ意味がない」を聞いたかもしれない。
「ルーカス様。どうしてここに——」
ルーカスが立ち上がった。
私の前に立った。茶色の瞳が真っ直ぐにこちらを見ている。唇が震えている。喉が動いている。何か——長い言葉を、出そうとしている。
「……せん」
途切れた。喉が詰まった。
でもルーカスは諦めなかった。もう一度。
「……せん、せ——」
もう一度。三度目。目に涙が浮かんでいた。声が出ないのが悔しいのだ。言いたいことがあるのに、喉が邪魔をする。それでも——
「せん……せい」
先生。
ルーカスの手が、私の手を握った。小さな手。でも一年前より大きくなった手。指の力が、震えながら、確かに——私を掴んでいた。
「せんせい」
二回目は、途切れなかった。
先生。この世界にはない言葉。私が一度だけエミリアの前でこぼした、前世の呼び方。それをルーカスが拾っていた。聞いていたのだ。ずっと、この子は——全部聞いていた。
フィオナではなく。養育係でもなく。「先生」と。
この子が自分で選んだ言葉だった。誰にも教わっていない。この世界にない言葉を、自分の意志で、自分の声で、私に贈った。
泣いた。
声を殺すことも、唇を噛むこともできなかった。あの冬の星空の夜のように涙だけを静かに流すこともできなかった。膝から崩れて、ルーカスの前に座り込んで、顔を覆って泣いた。
「泣かない鉄則」が、音を立てて壊れた。
ルーカスが——泣いている私の手を、そっと引いた。顔を覆っていた手を。
顔を上げた。涙で滲んだ視界に、ルーカスの顔があった。泣いてはいなかった。茶色の瞳が、静かに私を見ていた。
「……な、ないて、いいよ」
先生がいつも言っていた言葉を、今度はルーカスが返した。
着任初日の夜。エミリアの夜泣きに寄り添いながら私が言った——「泣いていいよ。泣いて、いいからね」。あの言葉を、この子は覚えていた。
泣くことは表現だ。
大人だって——先生だって、泣いていい。
エミリアが廊下に出てきた。私が泣いているのを見て、駆け寄ってきた。小さな手が膝に触れた。「フィオナ、だいじょうぶ?」
マティアスがエミリアの後ろからよたよたと歩いてきた。何が起きているのか分からないまま、私の膝によじ登ろうとしている。
三人の子供に囲まれて、廊下の石の上で泣いていた。
一年前のあの日、革鞄ひとつで門の前に立った私には——この光景は見えなかった。
---
夜。子供たちが眠った後、ノートの最後のページを開いた。
一年目最終日——総括。
観察記録ノートは、エドワード様に見てもらえなかった。いつか——いつか、このノートが橋渡しをする日が来ると信じている。今日ではなかった。でも、いつか。
ルーカス(八歳):本日、初めて「先生」と呼称。明瞭な二音節×2回。途切れから連続発声への進展。さらに初めての文章「ないていいよ」を発話。一年前の完全無声状態からの劇的な回復。
エミリア(四歳):夜泣きほぼ解消。自立行動の増加。言語表現が豊かになり、他者への共感行動を示す(フィオナの涙に対し「だいじょうぶ?」)。
マティアス(一歳):歩行安定。食事自立。情動表現豊か。他者への贈与行動あり(花を渡す)。
三行では足りなかった。三冊目のノートが必要だった。
エドワード様にとって、これらは「成績」ではない。読み書きゼロ、算術ゼロ。数字で測れば、私の一年間の成果はゼロだ。
でも——この子たちは知っている。自分たちがどれだけ変わったかを。ノートを開かなくても、数字に直さなくても、この子たちの体と心が記録している。
ルーカスが「先生」と呼んだ。
それが、一年目の答えだった。
---
【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第一アーク「書き置きの朝」は、この第12話で幕を閉じます。
「先生」という言葉がルーカスの口から出た瞬間、自分でも予想していなかったほど手が震えました。この言葉は、エピソード6でフィオナがうっかりエミリアの前で口にした一言から来ています。この世界にはない言葉を、ルーカスが拾い、自分の意志で選び、声にした。養育係でも子守でもなく「先生」。それはフィオナの前世と現在を結ぶ、たった二音節の橋だったのだと書き終えて気づきました。
「ないていいよ」がルーカスからフィオナに返ってきた場面は、第3話の「泣いていいよ」をずっと温めていた伏線です。12話かけて、言葉がフィオナからルーカスへ、そしてルーカスからフィオナへ戻ってきた。こういう瞬間のために物語を書いているのだと思います。
第二アーク「見えない五年間」では、2年目から5年目までの長い歳月を描きます。子供たちの成長、婚約、弁論大会——そしてフィオナの養育係としての任期が迫ります。引き続きお付き合いいただけたら幸いです。
☆評価・ブクマ・感想をいただけると次話の励みになります!