第17話 紹介されない婚約者
2時間前
2時間前
婚約披露の夜、私の名前は一度も呼ばれなかった。
広間の燭台が天井の低いところまで橙に染め上げていた。壁際の長い卓には銀器と白い花が並ぶ。私は借りた藤色の絹のドレスを着せられて、広間の奥の柱の陰に立っていた。
立っていたと書くより置かれていたと書く方が、今夜のことは正しい気がした。
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婚約が書面の上で成立して、半年が過ぎた。
エミリアは六歳を越えた。誕生日の朝に私は藤色のリボンを一本あの子の掌に乗せた。三年前の栗色のリボンの色違いだ。あの子は「ふたつで、ちょうちょになるね」と笑って、両方のリボンを枕の下に並べた。
ルーカスは十歳。王都の学園で催される弁論大会が、もう四ヶ月ほど先に迫っていた。貴族子弟が各家の教育の成果を披露する、家庭教師制度のいちばん表の舞台だ。
マティアスは三歳半。星のスプーンは今も毎食、小さな手に握られている。
見えない仕事は毎日同じ高さで続いていた。書面の上の肩書きが一つ増えていた。
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婚約披露の日取りがマルタから告げられたのは二週間前だった。
「イルマ様が、社交界にフィオナ様を正式にご紹介なさりたいと」
マルタの声には、いつもの平静の奥に薄い案じの色があった。
「ただエドワード様は、ご欠席なさらないだけで精一杯のようでございます」
私は膝の上で両手を重ねた。重ねた手の温度を確かめるように。
欠席しないだけ。席に立つだけ。隣には並ばない。
そのくらいのことは書面が届いた朝から分かっていた。書面の中に私への言葉は一行もなかった。形式の文言と紋章と署名だけ。それを半年かけて、私は薄い紙のように折り畳んできた。
折り畳んだものは、広げなければ痛まない。
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広間に入った時、イルマ様は奥の壇の上で椅子に腰掛けておられた。半年前の寝台よりは幾分背筋を伸ばしておられる。脇にはマルタが控え、もう一人老侍女が水差しを持って立っていた。膝に毛布が掛けられている。冬の終わりの広間の冷えに、体がもう堪えられないのだ。
それでも壇の上に出てくださった。私の紹介のために。
「フィオナ」
イルマ様は私を小さく手招かれた。藤色のドレスの裾が赤絨毯の上をほんの少し擦った。壇の下まで進んで、私は深く頭を下げた。
「皆様に、ご紹介いたします」
イルマ様の声は広間の天井にまでは届かなかった。近くの招待客は聞き取れたが、後ろに立つ者は身を屈めて耳を向けなければならなかった。
「わたくしの息子、エドワードの婚約者、メルツ伯爵家ご令嬢、フィオナ・メルツでございます」
メルツという二音節は、三年ぶりに私の耳へ正式な響きで戻ってきた。子供部屋ではこの名で呼ばれたことはほとんどない。「せんせい」と「フィオナ様」の中に埋もれていた二音節だった。
招待客から薄い拍手が起きた。社交の型としての拍手。
エドワード様は壇から三歩離れた柱の脇にいらっしゃった。ご友人の伯爵と小声で何かを話していらっしゃる。私の紹介が進んでいる間、一度も視線がこちらに向かなかった。拍手が起きた瞬間にようやく顔を上げた。形式の微笑みを招待客の誰かに向けられた。私のいる方角ではなかった。
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その後の歓談の時間、エドワード様の姿は広間を右に左に動いた。ハウザー伯爵家のご当主と政治の話。別の公爵家のご子息と軍の話。ほとんどの招待客の元にご自分から近づいていかれた。
だが、柱の陰の私の元には一度もいらっしゃらなかった。
招待客の何人かが気を利かせて私の元に寄り、「おめでとうございます」と短く挨拶をしてくださった。私は膝を折って同じ数の言葉を返した。その間も社交界の視線は私の背後の空間を探していた。婚約者であるはずの公爵嫡男の姿を。彼が隣にいないことを誰もが見ていた。
ある伯爵夫人が扇を広げたまま隣の方に囁いた。
「ご覧になって。柱の、あちらよ」
扇の下で視線だけがこちらに向けられた。
「養育係から、ね。ずいぶん……思い切ったお話ですこと」
声は広間の喧噪の中でほとんど聞こえなかった。でも聞こえた。耳は小さな囁きを、ときに驚くほど選んで拾う。
扇の下の声を拾わない練習を、私は半年かけてきた。ここでも拾わなかった。拾わなかったふりをして別の招待客の方に会釈をした。
聞こえない人の顔を保つ。それが今夜の私の仕事だった。
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広間の隅に、ルーカスが立っていた。
十歳の燕尾服は少しだけ袖丈が長かった。お直しが追いつかないほどの速さでこの子は背が伸びていた。黒い布地の中で顔だけがほの白く燭台の光を弾いていた。
お披露目の夜には、子供たちもイルマ様の孫として一度だけ広間に呼ばれる段取りだった。エミリアとマティアスは別室で待機。ルーカスは招待客の挨拶を受けた後、本来ならすぐに子供部屋に下がる予定だった。
なのに、下がらなかった。
柱と壁の間の狭い隙間。そこに十歳の体が静かに嵌まっていた。壁に背をつけ、両手を体の横に垂らしたまま。目だけを広間の中で動かしていた。
私の立っている場所を時々見た。
エドワード様の立っている場所を時々見た。
二つの場所の間の距離を見ていた。
視線の滞在時間は、いつもエドワード様の方がわずかに長かった。父の動き。父の視線。父の肩の高さ。父の口角の上がり方。その全てが十歳の目の中を通過していた。
最後にルーカスは広間の天井を一度だけ見上げ、燭台の揺れる光を見ていた。それから、ふう、と体の大きさに比べて小さすぎる息を胸から吐いた。
その息の形を、私は遠くから見てしまった。
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歓談の終わりに、イルマ様が立ち上がろうとされた。マルタが片腕を支え、老侍女が反対側の肘を支えた。二人の腕の間で、イルマ様は震えながら腰を伸ばされた。
「皆様、今夜はお運びくださり……ありがとう」
声は、最初の紹介の時よりも細かった。
「我が家の新しい絆を、見守っていただきたく」
「絆」という言葉が広間の赤絨毯の上を低く滑った。
その言葉に、私は柱の陰で下唇を一度だけ噛んだ。絆と呼ぶには、私とエドワード様の間に名前が通っていない。書面と形式と、母の顔を立てるための署名。それだけが二人の間の全部だった。
それでも今夜のイルマ様の「絆」は社交界に向けての盾だった。私を縛り付ける紐ではなく、子供部屋に留めるための盾。その盾のためにこの方は、ご自分の最後の体力を今夜の広間で使ってくださっている。
私の中で「都合のいい女」の輪郭が、もう一度静かになぞられた。それは羞恥ではなく覚悟の再確認だった。
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退場の合図とともに、イルマ様を離れの居室まで運ぶ仕事が残っていた。エドワード様は、まだ広間の中央でハウザー伯爵家の一団と談笑しておられた。ご一団の中にクリスティーナというお名前のご令嬢の姿があったと、耳の端で誰かが囁いていた。
聞こえない人の顔を保ったまま、イルマ様の肘の片方をマルタから引き継いだ。廊下に出た瞬間、石壁の冷気が藤色のドレスの袖越しに腕を撫でた。広間の熱が背中から遠ざかった。
「フィオナ」
イルマ様の声は、廊下の静けさの中では広間よりもよく響いた。
「今夜は、辛いことをさせました」
「いいえ」
「あなたの名前を、あの人は一度も呼ばなかった」
足が、ほんの少し止まりかけた。この方は見ていらした。壇の上からエドワード様の動線を全部追っていらした。病身で壇に腰掛けながらも、息子の冷淡さを一つ残らず数えておられたのだ。
「私は十分でございます。書面の中の名前ではなく、子供部屋の中の名前で呼ばれております」
イルマ様は短く頷かれた。毛布を肩にかけ直す侍女の手を借りながら、廊下を一歩ずつ進まれた。
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子供部屋の廊下で、エミリアが戸の隙間から顔を出していた。白い寝間着のまま、栗色のリボンを髪の横に結んで。
「せんせい。きれい」
藤色のドレスを見て、エミリアは小さく手を叩いた。二年前のリズムの拍手の応用。
「ありがとう。エミリア」
「ねえね、フィオナせんせい、きれい」
戸の奥でマティアスが姉の寝間着の裾を引っ張っていた。三歳半の顔が眠そうに、でも満足そうに薄く笑っていた。
この子たちの前では、今夜のドレスは「藤色のきれい」だった。
広間の中では、今夜のドレスは「養育係から格上げされた、あの女」だった。
同じ一着が、場所を変えると別の輪郭を持つ。
エミリアの頭に軽く手を置いた。マティアスが姉越しに袖口を掴んだ。
「お休みなさい。また朝にね」
エミリアはうなずいて、戸を静かに閉めた。戸の向こう側で、二人の足音が寝台の方へ遠ざかっていった。ルーカスは、まだ戻っていなかった。
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イルマ様を離れに送り届けて、私は広間の方へもう一度戻った。十歳のまま置き去りにはできない。
広間の扉は、もう半分閉じられていた。残った客が数人と、片付けをする侍従たちと、柱の陰のルーカスがいた。エドワード様は、もういらっしゃらなかった。
音を立てないように近づいた。
「ルーカス様」
ルーカスは振り返らなかった。広間の中央の、空になった赤絨毯をまだ見ていた。
「……せんせい。ぼく、全部見ました」
声は、ささやきほどの低さだった。
「ちちうえは、一度もせんせいのとなりに立ちませんでした」
十歳の観察は、広間の全部を見ていた。
私は何も言えなかった。嘘で慰めることは、この子にはできない。「お忙しいのよ」とも「そういうものなのよ」とも言えなかった。この子は「そういうもの」の裏側まで見てしまう目を持っていた。
「ぼく、すこし、おこっています」
ルーカスは、ゆっくり言葉を置いた。吃音が完全に消えたわけではなかった。でも、文の切れ目の選び方が、今夜は大人びていた。
「せんせいに怒っているのではなく、ちちうえに」
「……ありがとう、ルーカス様」
膝を折って、広間の床の高さに目を合わせた。ドレスの裾が絨毯の縁の埃を少しだけ拾った。
「でも、お父様を嫌いにならなくていいのですよ」
「きらい、では、ありません」
ルーカスは、首をゆっくり横に振った。
「……ただ、ぼくは、ちちうえのようにはならない、と思いました」
静かな宣言だった。十歳の、静かな、小さな宣言。
この子の中に、今夜、一本の線が引かれた。その線の色を、私はまだ言葉にできなかった。でも、線が引かれたことは見えた。
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子供部屋の寝台で、ルーカスは目を閉じる前に一言だけ言った。
「せんせい。あした、おねがいが、あります」
「何かしら」
「ぼくの、歌あそび、——つぎの大会に、むけて、すこし、いそぎたいです」
弁論大会という言葉を、この子はまだ自分から口にしていなかった。半年前、ヒルデから「来年の初夏に出す」と告げられてから、時々廊下で遠目に様子を窺っているのは知っていた。だが、自分の口に乗せるのは今夜が初めてだった。
「急ぎたい、というのは」
「ちちうえに、ぼくが話せるということを見せる、のではなく」
ルーカスは、ゆっくりと息を継いだ。
「ぼくが、話したいことが、ある、と思いました。……あの、広間で」
ああ。この子は広間の隅で立ち見をしていたのではない。いつか自分が立つ舞台の下見をしていたのだ。
「……わかりました。明日から準備を始めましょう」
ルーカスはうなずいて、目を閉じた。寝息は、すぐに深くなった。毛布の端をマティアスの方に寄せ、エミリアの枕の角を直した。三人の寝顔が、獣脂灯の細く絞られた灯りの下で均等に並んでいた。
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翌朝、朝食の鐘の前に、ルーカスは子供部屋の片隅で小さな石板を広げていた。細い鉛筆で何本かの線を引いている。上下に三本、左右に二本。
「これは」
「話の、順番です」
ルーカスは小さく答えた。弁論を書き起こす前に、骨組みを先に立てる。誰に教わった方法でもなかった。この子は三年間、私の観察記録ノートを遠目に見てきた。ノートの中で「気づき」と「対応」と「結果」の三つが、いつも同じ順に並んでいるのを知っていた。
「順番から決めるのですね」
「せんせいの、ノートも、じゅんばんが、きまっていますから」
見られていた。やっぱり、見られていた。
「見えない仕事」という言葉が、私の中で少しだけ違う輪郭を持った。誰にも見られていないと思っていた仕事も、十歳の目には毎日見えていた。見えていても声には出さない。そういう目で、この子は私を三年間見ていた。
「では、今日は、まず順番を決めましょう」
ルーカスの隣に膝を折って座った。藤色のドレスは、昨夜のうちにいつものエプロンドレスに戻っていた。石板に鉛筆の先が、もう一本線を書き足した。
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マティアスが寝ぼけた声で呼んだ。
「せんせ……い」
振り返ると、マティアスは両手に星のスプーンを握って、まだ寝台の中からこちらを見ていた。
「あさ、ごはん」
「そうね。もうすぐ朝食の鐘が鳴るわね」
ルーカスが石板から顔を上げて、弟を見た。
「にいにの大会の、じゅんびを、せんせいとしています」
マティアスは意味が半分も分からなかっただろう。でも、「せんせいと」という言葉に青い瞳が一段明るくなった。
「せんせいと」という前置詞が、この家の中でまだ生きている。今日も生きている。それだけで、昨夜の「紹介されない夜」の重さが、子供部屋の朝の中で半分軽くなった。
外の廊下から、ヒルデの読み書き室へ向かう足音が遠くに聞こえた。その足音は、去年の夏マティアスの畑の前で「遊ばせているのですか」と語尾を問いにした後から、何となく以前より、ほんの一拍ゆっくり歩いている気がした。
気のせいかもしれない。でも、三十年の信条の軋みは、一拍の遅さの中にこうして残るのかもしれなかった。
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朝食の鐘が鳴った。ルーカスは石板を小脇に抱えて立ち上がった。
「せんせい。大会の、ひ、——ちちうえは、来られますか」
廊下に踏み出す直前に、ルーカスは私を振り返って問うた。
「……どう、かしら」
正直に答えた。「来られるわ」とも「来られないでしょう」とも断言できなかった。昨夜、一度も隣に立たなかったあの方が壇上の息子を見に来るか、分からなかった。
ルーカスは少し考えた。それから、小さく笑った。
「……来ても来なくても、ぼくは、話します」
廊下に踏み出した背中は、昨夜の広間の隅に立っていた時よりも、ほんの一寸伸びていた。
初夏までの四ヶ月。歌遊びの最後の四ヶ月が、今日から始まる。
星のスプーンの音が朝の食卓の方へ、コトン、と小さく鳴った。
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【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この十七話で書きたかったのは、「紹介されない婚約者」の夜を、辱めの話ではなく覚悟の夜として描くことでした。エドワードはフィオナの隣に立ちません。名前を呼びません。でもフィオナは、それを予期した上で今夜に臨んでいます。折り畳んだ紙は、広げなければ痛まない。この折り畳み方を、人はときに尊厳と呼びます。
一方で、広間の隅には、見ている子供がいました。十歳のルーカスが、父の動線とフィオナの孤立を全部見ていました。この子の中に「ぼくは、ちちうえのようには、ならない」という静かな一本の線が引かれたのが、今夜のもう一つの軸です。弁論大会は、親の評価のためではなく、「自分が話したいことがある」という気づきから始まる。四ヶ月後の舞台に向けた準備が、今日の石板の三本の線から始まりました。
前世で保育士をしていた頃、子供は、大人が思うよりずっと多くを見ています。見ていない振りをしているだけで、家の中の不穏も、親の声の高さの変化も、全部記憶しています。ルーカスの「ちちうえのようには、ならない」は、怒りではなく、静かな選択の始まりでした。
次回、いよいよルーカスの弁論大会の日がやってきます。引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。
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