第16話 六歳の境界線
2時間前
2時間前
夏の終わりの光が台所の白い壁を薄い橙に染めていた。
まな板の上に星型の人参の端切れがいくつか転がっている。昨日の夕餉の残りで作った保存用の塩漬けの、星にならなかった隅の部分だ。
——まだ、この台所に、私は立っている。
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マティアスが三歳の夏を越えてから二か月が経っていた。畑の人参は今年の二度目の収穫を終えた。ルーカスは十歳になっていた。
子供たちの背丈は、私の膝、私の腰、私の肩越し。三人の高さの違いが三年分の時間の厚みだった。
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その朝、マルタが、いつもより早い時間にやってきた。
「フィオナ様。イルマ様が、本日の午前中にと」
午前中、と区切られたのは初めてだった。いつもは「お時間ある時に」「夕方でよろしいそうです」だった。マルタの声は平静だったが、語尾がいつもより一拍だけ短かった。
「——承知いたしました」
子供たちはヒルデの読み書きの時間に出ている。ルーカスは隣の小部屋で、エミリアは大広間に近い小書斎で、マティアスはまだ私と離れて長くは過ごせないが、午前中の一時間だけは子供部屋でマルタが見てくれる。
その一時間に私は呼ばれた。
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離れの居室。
窓の外の桜に似た木は、もう花をつけていない。葉だけが夏の重い光の下で深い緑になっている。二か月前、私はこの椅子でイルマ様に「去る覚悟と残る覚悟」を聞いた。
今日のイルマ様は寝台に半身を起こすことすらしなかった。枕を二つ重ねてその上に頭を預け、毛布の縁を胸の上で握っていた。頬の肉が半年前よりもまた落ちている。骨の輪郭が薄い皮の下に透けて見えていた。
「フィオナ」
声は低かった。が、芯はあった。
「こちらへ、近く」
寝台の横の、いつもの椅子。腰を下ろした。イルマ様の手が毛布の下から覗いた。差し出されはしなかった。今日は握り返す体力も節約しているのだろう。
「エミリアの誕生日が、来月でしたね」
「——はい。来月の、月の中ほどに」
「六歳。ね」
数字を、ゆっくりと置くように仰った。
六歳。——その二文字の輪郭が、寝台の毛布の上に輪を描いて広がるように感じた。
「フィオナ。半年前、わたくしは『去る覚悟と残る覚悟』と申しました。覚えておいでですね」
「はい」
「あの時、急がない、と申しました。ですが——わたくしの体が、急がない時間を、もう持てません」
言葉の終わりに、イルマ様は薄く息を吐いた。空気を惜しむような、慎重な吐き方だった。
「結論から言いましょう。フィオナ——あなたを、エドワードの婚約者に」
胸の奥で、何かが一拍だけ動きを止めた。
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「養育係の任期は規則で六歳まで。エミリアが六歳になれば、表向きはあなたの役目は終わります。延長を続けてきたのはわたくしの権限。そのわたくしが、もう長くは権限を行使できない」
イルマ様の言葉は静かに続いた。
「あなたを邸に残す方法は、もうこれしかありません。婚約者という立場以外には」
「——イルマ様」
声が自分の喉から出る前に、私の中でいくつもの顔が過った。
マティアスの、星型の人参を握りしめた手。
エミリアの、夜の毛布の中に潜り込んできたあの夜の体温。
ルーカスの、「せ……ん、せい」と二音節を繋いだあの春の声。
次に過ったのは、エドワード様の灰色の瞳だった。半年前、書斎で「養育記録は不要だ」と言われたあの目。一度も私の名前を呼んだことのないあの目。
「エドワード様は——ご存知でいらっしゃるのですか」
「形の上では承諾しています。母の顔を立てるため、と」
「形の上で、ですか」
「ええ。あの子の心の中まではわたくしは保証しません。ただ、書面の上ではもう動きが始まっています」
書面。——その単語は、子供部屋からいちばん遠い場所にあった。
「フィオナ。よく聞いてください」
イルマ様の目が、毛布の上で私を捉えた。鋭さが戻っていた。
「これは愛のある婚約ではありません。あなたにわたくしの息子を愛せ、とは申しません。あなたが選ぶのはエドワードではない。——子供たちのそばに残るか、残らないかです」
「……」
「『去る覚悟』を選べば、あなたは伯爵令嬢として紹介状を持ってどこへでも行けます。グリューネヴァルトの教育を志す若者のもとへ——半年前にお話ししたあの場所も、まだ生きています。あなたの未来は、あなたの足で開ける」
イルマ様の指が、毛布の縁をほんの少しだけ動かした。
「『残る覚悟』を選べば——あなたは公爵家の名を背負います。ですが、その名はあなたを愛するためのものではありません。子供たちのそばに残るための口実です。あなたは自分のために生きる時間を、延々と後回しにすることになる」
後回し、という言葉。
その言葉は、私の中のもう一人の私を呼び覚ました。前世の保育士の私。子供たちの帰り際、夜遅くまで連絡帳を書いていたあの私。「自分の」夕食をいつも電子レンジで温め直していたあの私。
「フィオナ。これはあなたの人生に対する取引です。わたくしは強制しません。だから、覚悟と申しました」
イルマ様の目に、一瞬、罪のような色が沈んだ。
「すまない、とも申し添えておきます。本来であればこんな形であなたを縛るべきではないのです。ですが——わたくしの体力では、もう別の手立てを思いつきません」
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離れを出て、廊下を歩いた。
石壁の、夏の終わりの冷たさが肩から背中に染みた。窓の外は雲ひとつなく青かった。子供たちはまだ、それぞれの机に向かっているだろう。
胸の中に二つの覚悟が並んでいた。重さを比べると、両方が同じだけ重かった。
去る覚悟。私は伯爵令嬢として、自分の足で自分の人生を選び直せる。誰の都合でもない自分の時間を持てる。前世で持てなかった「自分の夕食」を温かい鍋から自分の皿によそう日々が、来るかもしれない。
残る覚悟。私は公爵家の名を借りた「都合のいい女」になる。エドワード様の婚約者という肩書きで、子供部屋の天井の下に、五年でも十年でも留まる。あの方の心は届かない。届くのは、子供たちの手の温度だけ。
どちらも重かった。でも、片方の重さの中には子供たちの顔がなかった。それだけで決まってしまうのかもしれない。
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子供部屋に戻ると、読み書きの時間がちょうど終わったところだった。マルタがマティアスを膝に抱いていた。マティアスは、まだ眠そうな目で両手で星のスプーンを握っていた。
「せんせい」
マティアスが両手をこちらに伸ばした。膝を折って、その小さな体を抱き上げた。三歳の重みが両腕にしっとりと収まった。
——毎日、毎時間、この重みを覚えているのは私の腕だけだった。
「フィオナ先生」
ルーカスが隣の小部屋から戻ってきた。手には、書きかけの石板。きょうの読み書きの時間は、何かを書いていたらしい。
「あの、ね、せんせい」
ルーカスが、ためらいながら口を開いた。
「ぼくね、きょう、こくばん、で——」
言葉が繋がっていた。「ね」「せんせい」「きょう」「こくばん」「で」。短い文の繋ぎ目が滑らかだった。
半年前、ルーカスはまだ「ぼく、は、せんせい、の、こと、を、——」と助詞ごとに息継ぎをしていた。今日は息継ぎが減っていた。文と文の間に、間がほとんど無い。
「黒板で、何かを?」
「えと、——あの、ね、ヒルデせんせいに、あてられて、ぼく、こたえた、んです。みんなのまえで」
「答えられたの?」
「うん。三つ、続けて」
「すごい、ね」
ルーカスは、小さく笑った。それから、自分の口元に自分の指で軽く触れた。声が出ていることを確かめるような仕草。三年前、声を出すことが「危ない」と感じていた七歳の癖が、まだ消えきっていない。
でも、確かに声は出ていた。
——この子の三年が、私の三年だった。
覚悟の重心が、もう一段傾いた。
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夕餉の支度の前に、私は台所に降りた。
戸棚を開けた。三本のスプーンが、いつもの場所に並んでいた。星、月、花。柘植の色は最初に彫った日よりも深い飴色になっていた。三年の手の油が木に染み込んだ証だ。
月のスプーンを手に取った。ルーカスのスプーン。柄の先端に、満月の輪を彫ってある。花のスプーンを手に取った。エミリアのスプーン。五枚の花びらの間に、小さな羽の影を二筋刻んである——「ちょうちょのほうがいい」と本人が言ったから。
星のスプーンは、戸棚にはなかった。マティアスがいつも持って歩くから。
もし私が去れば、この戸棚を開ける人はいなくなる。
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夕餉のあと、子供たちを寝かしつけて、私は廊下に出た。
窓の外に、夏の終わりの月が低く出ていた。半月。ルーカスのスプーンの柄と、ちょうど同じ形だった。
廊下の先から足音がした。マルタだった。
「フィオナ様」
声が、いつもより低かった。
「離れに、もう一度お越しいただけますでしょうか。イルマ様が——返事を急がない、とは申されました。ですが、頭の片隅に置いておいてほしい、と」
「——承知しました」
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離れの居室は、もう蝋燭の灯りが落とされていて、寝台の枕元の小さな獣脂灯だけが橙色に揺れていた。
イルマ様は目を閉じておられた。眠っているのか、起きているのか、私には分からなかった。
マルタが、寝台の足元の椅子を私に示した。私はそこに腰を下ろした。
しばらく、何も起きなかった。
獣脂灯の灯りが、イルマ様の頬の薄い皮の上を橙色に撫でていた。二か月前、収穫の人参を持って報告に伺った時よりも、はっきりと後退している。
ご自分の体が待ってくれない、と知っておられるから急がれている。
息を深く吐いた。獣脂灯の橙色がわずかに揺れた。
——子供たちのためなら。
その言葉が、自分の中から声を出さずに立ち上がった。
子供たちのためなら、私は「都合のいい女」でいい。
子供たちのためなら、私は社交界の陰口を聞こえないふりで通せる。
子供たちのためなら、私は前世から続く「自分の夕食を温め直す癖」を、もう少しだけ続けられる。
——「ためなら」と「だから」は違う言葉だ。
「ためなら」は自分を犠牲にする響きを持つ。「だから」は選び取った響きを持つ。
子供たちが、ここにいる。だから、私は残る。
犠牲ではない。これは私が選ぶことだ。
その瞬間、覚悟の重さが、ようやく私の中で釣り合った。
「イルマ様」
寝台の上の、薄い瞼が、ゆっくりと開いた。
「お返事、申し上げます」
灯りの中で、イルマ様の目が、私を見た。
「残ります」
短く、それだけ言った。
イルマ様は、何度か瞼を瞬かせた。それから、毛布の下の手がほんの少し動いた。差し出されはしなかった。私のほうから、その手に自分の手を重ねた。
冷たい手だった。
でも、握り返してくれる力は、まだあった。
「——ありがとう」
声は、ほとんど、息だけだった。
「すまない、とももう一度言わせてください。フィオナ。あなたの人生を、わたくしはこうやって結ぶしかなかった」
「いいえ。私が選びました」
声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「子供たちがいるから、選びました。イルマ様のご都合では、ありません」
イルマ様の目に、薄く光が滲んだ。涙、ではなかった。涙の手前の、何か。
「フィオナ——あなたは強い人ですね」
「いいえ。ただ、子供たちが私を強くしてくれたのです」
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離れを出て、もう一度、廊下を歩いた。
夏の終わりの月は、さっきよりも少しだけ高くなっていた。半月。ルーカスのスプーンの柄。
子供部屋の戸を、そっと開けた。マティアスは、いつものように星のスプーンを握ったまま眠っていた。エミリアは、栗色のリボンを枕の下に押し込んで深く眠っていた。ルーカスは、薄く目を開けてこちらを見た。
——この子は、いつも起きている。私が戻る時間まで。
「ルーカス様。まだ、起きていらしたのですか」
「……だい、じょうぶ、です、か」
半年前と、ほとんど同じ問いだった。一年前、エミリアの代わりにルーカスが私に向けたあの問い。
「大丈夫」
膝を折って、寝台の縁に手を置いた。
「大丈夫よ。私は、しばらくここにいます」
「しばらく」
ルーカスは、その言葉を、静かに繰り返した。
「ずっと、では、ないの、ですか」
この子は、聞いていた。
私が「しばらく」と「ずっと」をどう使い分けているか。私の言葉の輪郭の、ほんの一ミリの違いを、十歳の耳は聞き分けていた。
「……ずっと、いさせてもらうことに、なりました」
ルーカスの目が、灯りの薄明かりの中で、一瞬だけ大きく開いた。それから、ゆっくりと、薄く笑った。
「そう、ですか」
それだけ言って、目を閉じた。
寝息が、すぐに深くなった。
この子は、私の「しばらく」を、ずっと心配していたのだ。
どこか遠い場所にあった緊張が、音もなく緩んだ。
残る覚悟の重さが、もう一度、ほんの少しだけ軽くなった。
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自分の部屋に戻って、ノートを開いた。三冊目の、夏の終わりのページ。
《エミリア六歳目前。任期満了の時期。イルマ様より婚約のご提案。エドワード様、形式上承諾。私、残ることを選択。》
ペンを止めた。「都合のいい女でいい」と書きかけて、やめた。代わりに、こう書いた。
《子供たちが、ここにいる。だから、残る。それが今日の私の選び方。》
ペンを置いた。——これは、誰のための記録だろう。子供たちのための記録、と私は思っていた。でも、今日のこの一行は私自身のための記録だった。
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翌朝、朝食の鐘が鳴る前に、マルタが廊下で私を待っていた。
手には、白い封筒。
「フィオナ様。エドワード様から——婚約に関する書面でございます」
封筒には、紋章の蝋封がしてあった。私の目の前で、マルタは封筒を差し出したが、しばらく手を引かなかった。
「フィオナ様。差し出がましいことを申し上げます」
マルタの声は、低かった。
「この書面の中に、あなた様への言葉は、おそらくないと存じます。形式の文言だけ、と」
マルタは、知っていた。エドワード様が書面に、私個人への一言も添えなかったことを。
「それでも、よろしいのですか」
マルタの目は、三年間子供部屋の隅で私を見続けてきた目だった。
「ええ。子供たちは、毎日、私の名前を呼んでくれます。それで十分です」
封筒を受け取った。マルタは、深く頭を下げて、廊下の先に消えた。
蝋封の冷たさが、薄い布越しに伝わってきた。書面の上で、私は「公爵家の婚約者」になる。でも子供部屋の中では、私は今までどおり「せんせい」のままだ。
窓の外で、夏の終わりの光が、また白い壁を薄い橙に染め始めていた。子供たちが起きてくる時間が近づいていた。
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【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この十六話で書きたかったのは、「取引としての婚約」の重さです。フィオナはイルマに強制されたわけではありません。選ぶ自由を残した上で、それでも子供たちのために残ることを選びました。「ためなら」という犠牲の言葉ではなく、「だから」という選択の言葉で。——犠牲と選択の間には、紙一枚ほどの差しかありません。でも、その紙一枚が、人を救います。
愛のない婚約は、ファンタジー作品では「ヒーローとの出会いを邪魔するもの」として描かれがちです。でも、現実の人間関係には、もっと地味で、もっと長い「都合のいい女」の覚悟があります。前世で保育士をしていた頃、私の周りにも、誰かのために自分の時間を後回しにし続ける同僚がたくさんいました。彼女たちは、犠牲だとは言いませんでした。「だって、この子たちが、いるから」——その言葉だけで、自分を保っていました。
ルーカスが「ずっと、では、ないの、ですか」と、フィオナの言葉の一ミリの違いを聞き分けた場面——あの子は、三年間、ずっとフィオナの言葉を聞いてきました。十歳の耳は、大人が思うよりも、ずっと深く、大人の言葉を理解しています。だからこそ、「ずっと」と返した時の、あの薄い笑みが、フィオナの覚悟を最後にもう一度、軽くしてくれました。
次回、いよいよ婚約披露の場で、エドワードがフィオナを「紹介もしない」場面が来ます。書面の上の婚約者と、子供部屋の中の「せんせい」——二つの顔の間で、フィオナがどう立ち続けるか、引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。
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