第20話 半刻で起き上がる人
2時間前
2時間前
薬湯の匂いは、人より先に部屋に入っている。
離れの廊下の最後の曲がり角を曲がる前に、もう青い草の匂いが鼻先に届いていた。刻んだ薬草と蒸留した林檎酢と微かな鉄の匂い。夏の初めには寝台の近くまで寄ってようやく分かる濃度だった。秋の入り口からの数ヶ月で、匂いの境界線は廊下の曲がり角の手前まで進んできていた。
匂いが病と一緒に部屋の外側へ染み出している。
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弁論大会の初夏から半年近くが過ぎていた。桜に似た木の葉は茶色に縮れ、半分以上が庭の土に降りていた。朝の鐘の時刻には廊下の石が白く霜を含んでいた。ルーカスは十一歳になる少し前。エミリアは七歳の冬の入り口。マティアスは四歳と三ヶ月ほど。四冊目のノートは、もう終わりに近かった。
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離れの戸をマルタが音を立てずに開いた。
「イルマ様。フィオナ様がお越しでございます」
マルタの声は離れの空気の中では、いつもよりさらに細くなった。
寝台の奥の枕の重なりの中に、イルマ様の白髪が浅く沈んでいた。半年前には毛布の縁をご自分の指で握っておられた。今日はその指が毛布の上にただ置かれているだけだった。
「……フィオナ」
声は薬湯の匂いの奥から出てくる音だった。
「お加減は」
寝台の脇の小椅子に音を立てずに腰を下ろした。マルタが暖炉の薪を一本、静かに足した。
「……起き上がるのに、半刻かかりましたの」
冗談の形を借りているが冗談ではなかった。夏の前には半身を起こすのに一拍遅れるだけだった。その一拍が秋の入り口で百拍になり、初冬の今朝、半刻になった。
「でも、あなたの顔を見るのに半刻の価値はありますから」
細い声が語尾に薄い微笑みを乗せた。
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イルマ様は毛布の上の右手を、ほんの少しだけ寝台の縁の方へずらされた。握手ではなかった。ただ「ここにいますよ」という位置の明示だった。
私は自分の右手を毛布の縁に静かに置いた。触れなかった。指先と指先の間に指一本分の空白があった。
「フィオナ」
「はい」
「今日は、お願いがひとつありますの」
イルマ様は息を一度深く継がれた。浅い呼吸が続く病の中で、深い息は贅沢な動きだった。
「わたくしがいなくなった後のことを……考えておいてちょうだい」
薬湯の匂いの中で、その一文の輪郭がくっきりと立ち上がった。
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「そんな」と返すのは礼儀ではなかった。「まだまだお元気で」と返すのも、半刻かけて身を起こされた朝の現実から目を逸らすことになる。
顔を上げてイルマ様の目を見た。
「……考えておりますわ」
意外に、自分の声が平らに出た。
「半年前から考えておりました。イルマ様のお加減が少しずつ重くなられていく中で、考えないことの方が不誠実だと思っておりました」
イルマ様は目を一度だけ閉じられた。
「……あなたはいつもこうですのね。わたくしがやっと切り出した話を、もう半年先に考えていた、と言う」
「申し訳ございません」
「いいえ。——そういう人だから、あなたにお願いしますの」
首をほんの一寸だけ横に動かされた。それが首振りの最大の振り幅だった。
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薪の爆ぜる音が暖炉の奥で、ぱち、と一つ鳴った。
「わたくしがいなくなったら、あの人はあなたを邸に置かないでしょう」
あの人、という四音節は、息子の名前を直接には出されない呼び方だった。
「書面の婚約は、母の顔を立てるためだけの署名でした。母の顔がない日が来たら署名は引っ込められる。引っ込められた後のあなたの身の置きどころを」
「存じております」
「存じております、と、そう簡単に言わないで」
細い声が少しだけ強くなった。半刻かけて起きた人の声量の精一杯だった。
「置きどころは、あなたの側ではなく子供たちの側の問題です。あなたが去った後にあの子たちがどうなるかを、わたくしは見たくない。でも見ずに死ぬのでしょう。だからせめて……置き土産を用意しておきますから」
置き土産。その単語の選び方に、私は顔を上げられなくなった。
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「イルマ様。……置き土産の中身は、伺わない方がよろしいですわね」
「ええ。知らない方が、あなたがその日に驚けるから」
唇の端が薄く持ち上がった。半年前の壇上の微笑みよりは細い。でも今日は、少しいたずらっぽい光が混じっていた。
五十八歳の病の床の上で、この方は息子を驚かせる算段を静かに笑っておられた。
毛布の縁の指先を空白の真ん中まで進めた。進めただけで止めた。イルマ様の指先は動かなかった。でも、目がそこに落ちた。
その目の光の中に、三年分私を守ってきた方の最後の気力が細く灯っていた。
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「マルタ」
イルマ様は寝台の反対側に控えるマルタを目だけで呼ばれた。
「フィオナを子供部屋までお送りなさい。帰り際に一言だけ申し付けることがあります」
「承知いたしました」
マルタの返事の短さの中に、何かを既に受け取っている響きがあった。
「フィオナ。今日は長くはお引き止めしません。……また近いうちに」
「はい。また近いうちに」
小椅子から音を立てずに腰を上げた。毛布の縁の指先をそっと引いた。指一本分の空白は、そのまま寝台の縁に残った。
戸を出る前に、イルマ様はもう一言付け加えられた。
「……あの子たちに、わたくしの代わりに冬の挨拶をしておいてちょうだい」
冬の挨拶。その四文字の中に、孫たちの三つの顔の輪郭がひとまとめに包まれていた。
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離れの廊下を、マルタと二人で歩いた。マルタは、いつもの半歩後ろではなく私の真横を歩いていた。
「マルタ様。……イルマ様は、あとどのくらい」
言葉を途中で止めた。途中で止めることが今日の礼儀だった。
マルタは答えの代わりに足音を一拍遅くした。
「医師団は、年を越えられるかどうか、と」
返事は廊下の天井に吸い込まれそうなほど小さかった。ほんの短い、五文字の距離。
「……そうですか」
返した自分の声も廊下の石に吸い込まれた。
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離れと本館の間の渡り廊下の角で、マルタが足を止めた。
「フィオナ様。申し訳ございませんが、少し離れに戻ります。イルマ様のお申し付けの件で」
「どうぞ」
マルタは一度頭を下げて、離れの方に戻っていった。
本館の方へ、一人で足を進めた。——進めた、と書いた自分を少し恥じた。最初の角を曲がる前に、足は柱の陰で止まっていた。止めた、とも言えない。止まった、と書く方が近い。
聞こえないふりをして歩けば、ほんの五歩だった。その五歩を足が進めなかった。
柱の陰の冷えた石の表面に掌を当てた。掌と石の温度の差が、自分の狡さの温度を思い知らせた。それでも離れなかった。
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離れの戸の向こうから、声の粒は漏れなかった。ただ会話が続く長さだけが戸の外に薄く届いた。マルタの「はい」「承知いたしました」という短い相槌が、時折混じった。
ひとつだけ、細い声が少しだけ力を込めた時があった。
「いざという時は……あの記録を、使いなさい」
使いなさい、という短い言葉。「記録」の前の冠詞が「あの」なのか、私の聞き違いなのか分からない。分からないまま、その言葉は柱の陰の空気にぽつりと落ちた。
それ以上の言葉は続かなかった。マルタの「承知いたしました」が、いつもより二拍長く響いた。
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柱の陰から身を離した。今度は足が進んだ。
マルタの足音が追いついてきた時、私は廊下の三歩先を何事もなく歩いていた。マルタは私の斜め後ろの、半歩下がった位置に戻った。
「お待たせいたしました」
「いえ」
子供部屋までの数十歩の間、「いざという時は、あの記録を、使いなさい」という言葉が耳の奥で反響を止めなかった。
あの記録。棚の一段目に四冊並んでいる。茶色、紺、深緑、黒。「あの」の冠詞が私のノートを指しているのか。それとも私の知らない何かの「あの」なのか。
聞いてはならないものを聞いてしまった、という自覚の上に、聞き切れなかった、というもう一つの自覚が重なった。
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子供部屋の戸を開けると、マティアスが真っ先に飛びついてきた。
「せんせい、おそい。おばあさま、げんき?」
両手で星のスプーンを握っていた。四歳三ヶ月の掌の中で、柄の星形がはみ出ていた。
「……少しお疲れになっていらしたわ。でも、冬のご挨拶を預かってきたの。冬が来るから、風邪をひかないようにって」
マティアスは星のスプーンの柄を口元に当てて、「うん」と小さくうなずいた。
寝台の方でエミリアが刺繍枠から顔を上げた。
「せんせい。おばあさま、きょうは、おあいできた?」
「ええ。お話もできたわ」
エミリアは刺繍枠の縁を指でゆっくりとなぞった。それから針を枠の隅にきちんと戻した。
「そう」
短い返事の中に、七歳の、年齢に合わない平静の層があった。
窓辺の机でルーカスが石板の中央に縦の一本を引いていた。
「せんせい。おばあさま、……きょう、起きるのに、どのくらいかかりましたか」
十一歳の落ち着いた目がこちらを見ていた。
「半刻、よ」
半分の情報を渡すのは、この子に失礼だった。
「……そうですか」
ルーカスは縦の線の横に短い横の線を足した。縦と横が直角に、静かに交わった。
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その夜、エミリアが私の袖口を離さなかった。
読み聞かせが終わり、マティアスの寝息が深くなった頃、エミリアの小さな指は、私の左袖口の縁を二つ折りにしたまま爪で引っ掛けていた。
「せんせい」
「なあに」
「もうすこし、……ここに、いて」
寝台の縁に座り直した。
「せんせい」
「ええ」
「……せんせいが、いなくなったら、どうしよう」
小さな声だった。でも、言葉の粒ははっきりしていた。
七歳の冬の入り口の子の、昼間の「平静の層」の下にあったものが、夜の寝台の上で薄い膜を破った。
「……どうして、そう思ったの」
「おばあさま、きょう、おはなしできたって、せんせい、いったけれど」
エミリアは袖口を握る指に、ほんの少しだけ力を加えた。
「おばあさまも、いつか、いなくなるのでしょう。……おばあさまがいなくなったら、つぎは、せんせいがいなくなるの?」
七歳の論理の、まっすぐな一本の糸だった。引っ張れば当たった。
「いなくならないわ」と、四歳のマティアスになら言えた。七歳のエミリアには同じ言葉を返せなかった。この子は嘘の輪郭を、もう見分けてしまう。
「……エミリア」
「うん」
「先生はね、今はここにいるのよ」
「うん」
「今、ここにいることを、まず覚えておいて。いつかのことは、いつかになった日に、一緒に考えましょう」
エミリアはすぐには答えなかった。暖炉の火が、ぱち、と小さく爆ぜた。
「……うん」
短く返された「うん」は、納得の形ではなかった。保留の形だった。
それでも、袖口を握る指の力はほんの少しだけ抜けた。抜けただけで、離れなかった。
「せんせい。せんせいの、そでぐち、ずっと、にぎっていて、いい?」
「いいわよ」
エミリアの目が閉じた。袖口の縁の爪の引っ掛かりは、そのまま寝息に追いついていった。
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寝息が深くなってから、寝台の脇にルーカスが立っていた。石板は手にしていない。寝間着の袖口で、両手は真っ直ぐ垂れていた。昼間の、壇上の所作。
「せんせい。……エミリアにいったこと、ぼくにも、おしえてください」
昼間の言葉を、この子は壁越しに聞いていた。
「今、ここにいることを、まず覚えておいて。いつかのことは、いつかになった日に、一緒に考えましょう」
ルーカスに同じ一文を、もう一度、静かに言った。
「せんせい。……いつかになった日に、ぼくも、一緒に考えて、いいですか」
「もちろん、よ」
「はい」
ルーカスは自分の枕の上に頭を置く前に、一度、エミリアの方を見た。エミリアの小さな指が私の袖口の縁を掴んだまま眠っていた。十一歳の目が、その指先を数秒見ていた。それから、その目は閉じた。
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眠っている七歳の耳に、私は小さく囁いた。
「……ここに、いますからね」
答えは返ってこない。袖口の縁の小さな指が微かに一拍動いた。寝息は乱れなかった。
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翌朝、朝の鐘の前に、マルタが戸を薄く叩いた。両手の前に、空の茶色い表紙のノートを持っていた。
「新しいノートを、お求めかと。机の引き出しの最後の一冊が、もう残り少ないとお見受けしましたので」
「……ありがとう、マルタ様」
マルタはノートの下から、薄い布の包みを取り出した。包みの中身は、布越しに角のある平たい何かだった。
「それから、イルマ様からお預かりものが、もう一つございます。中をお確かめにならず、しばらく机の奥の方にお置きくださいませ。『いざという時』にお使いください、とのことで」
いざという時。
昨日の柱の陰で聞こえたはずのないその言葉が、今朝、マルタの口から正面の言葉として、私の前に置かれた。
私は何も言わなかった。聞いた、と言うつもりもなかった。ただ両手で包みを受け取った。
マルタは一度だけ、私の目をまっすぐに見た。三年前、子供部屋の敷居で革鞄を受け取ってくださった時と同じ目だった。言葉は要らない、と、その目は言っていた。
「……承知いたしました」
マルタは頭を下げて、廊下の奥へ戻っていった。足音は、いつもの半歩の距離を取り戻していた。
包みを、机の一番下の引き出しの奥に置いた。引き出しの底の木の匂いが、包みの布の匂いに重なった。
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五冊目の空のノートを、机の上に開いた。最初のページは白かった。鉛筆を取った。
《エミリア、七歳の冬の入り口。夜、初めて「せんせいが、いなくなったら、どうしよう」と言葉にできた。袖口の縁を爪で掴んで眠った。朝、握りは自分で緩めているだろう。言葉にできたことは残る。握ったことは残らない。残らないことの方が、この子の中で長く生き続ける》
書き終えて、ページをそのまま開いたままにしておいた。
机の一番下の引き出しの奥には、開かれないままの包みが静かに置かれていた。
廊下の遠くで朝食の鐘が鳴った。星のスプーンの音が、寝台の方から、コトン、と小さく鳴った。
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【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この二十話で書きたかったのは、「守ってくれた人の衰え」を、いよいよ近い距離で受け取る日の、受け取り方でした。イルマ様は、半刻かけて身を起こされます。その半刻は、三年間フィオナを邸に留める盾だった方の、最後の気力の使い方でもあります。「わたくしがいなくなった後のことを」と切り出された時、フィオナは「そんな」でも「まだまだお元気で」でもなく、「半年前から考えておりました」と返します。現実から目を逸らさないことが、この方へのいちばん誠実な礼だと、フィオナはもう知っていました。
渡り廊下の柱の陰で、フィオナは聞くつもりのない言葉の一端を聞いてしまいます。「いざという時は、あの記録を、使いなさい」。「あの」の冠詞が、自分のノートを指しているのか、まだ分かりません。分からないまま、翌朝マルタから渡された、開かないように言付けられた包み——この包みの中身は、いつか「いざという時」に開かれます。それまで、フィオナも読者も、机の一番下の引き出しの奥を、共有したまま歩くことになります。
一方で、夜の子供部屋では、七歳のエミリアが、袖口の縁を爪で握ったまま眠りました。「せんせいが、いなくなったら、どうしよう」——その一文を七歳が言葉にできてしまう。前世で保育士をしていた頃、分離不安は、「行かないで」と泣く形で来ることもあれば、袖口の縁を掴む形で来ることもありました。言葉にできなかった不安より、言葉にできてしまった不安の方が、その子の中に長く残ります。フィオナの答えは「いなくならない」ではなく、「今、ここにいることを、まず覚えておいて」——嘘ではない一行を、七歳の耳に置いたのでした。
次回、邸の光の中に、社交界のもう一つの名前が、少しずつ輪郭を見せ始めます。クリスティーナ様の扇の動きが、冬の広間で、エミリアの視線と、一度だけ交差します。引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。
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