第21話 扇の内側の、冷たい光
2時間前
2時間前
広間に新しい香りが一つ足されていた。庭の花の匂いではない、もっと人工的で冷たい、絹に焚きしめられた香水の匂い。春がこの邸に、別の名前の春を連れてきていた。
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イルマ様の寝台に一度だけ冬を越えていただいた。年を越えられるかどうかと医師団が見立てた冬を、じりじりと越えた。春先、桜に似た花が咲き始めた頃、イルマ様は三日に一度の起き上がりをもう望まれなくなっていた。
その春、広間には別の動きが始まっていた。ハウザー伯爵家と公爵家の間の社交の往来。書面の上の婚約者の名前を誰も広間に呼ばない形の社交だった。机の一番下の引き出しの奥には冬に預かった包みが開かれないまま静かに置かれていた。五冊目のノートは半分を越え、色は深い赤。
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春のある午後、マルタが子供部屋の戸を薄く叩いた。
「フィオナ様。本日、ハウザー伯爵令嬢様がお茶の席にお越しです。エドワード様より、子供たちをご挨拶に連れてくるようにとのご指示で」
マルタの声の最後の「ご指示」の一語が、他のどの単語よりも一拍だけ硬かった。
「……お三方とも、ですか」
「はい。お三方とも、と」
子供部屋の奥で、ルーカスが石板から顔を上げた。エミリアは刺繍枠を膝から下ろした。マティアスは星のスプーンを両手で握ったまま戸の方を見ていた。
「……承知いたしました」
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広間の入口の前に立った時、私は地味な麻のワンピースの袖口を指で撫でていた。去年の秋からの同じ袖口。エミリアは栗色と藤色のリボンを両方結んでいた。ルーカスは麻の白いシャツ。マティアスは星のスプーンを胸のあたりで握っていた。
戸が開かれた。低い卓の向こうにエドワード様。その斜め前の深い背もたれの椅子にクリスティーナ様がいらっしゃった。初めて広間の光の中で正面からお顔を拝見する距離だった。
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金の髪を高く結い上げ、耳元に細い真珠。絹は春の淡い水色で、袖の縁に銀の糸の刺繍が走り、扇は象牙の地に小さな花。美しいと書くしかない方だった。
碧い目がこちらを向いた。その目は私の顔に留まらず顔の少し上の空間を通り過ぎた。
「あら。……こちらが、ヴェルナー家の可愛い方々ね」
鈴の音のような高い音色。語尾が扇の内側へ甘く下がった。
ルーカスが静かに頭を下げた。
「ヴェルナー家長男、ルーカスでございます」
弁論大会で天井に届いた声が、今日は最小限の礼の形に畳まれていた。
「まあ。利発そうなお子様ですこと」
扇の内側で、言葉の末尾が一度、空中で跳ねた。
エミリアが藤色のリボンの端を指で触れてから、頭を下げた。
「エミリア、でございます」
「まあ、愛らしいこと。……お人形さんのようね」
「お人形さんのよう」の後、クリスティーナ様の視線はもうエミリアの顔に戻ってこなかった。
マティアスが星のスプーンを胸の前で両手で握り直した。
「……ます」
マティアスの「マティアス」という五音の発音は、五歳の口にはまだ少し重い。最後の一音だけを広間に置いて頭を下げた。
クリスティーナ様は扇をほんの僅か閉じた。
「あら。……この坊やのお名前は、マルティン、だったかしらね」
マルティン。父と同じ誤称。
エドワード様は自分の湯呑の縁を指で撫でながら訂正をされなかった。扇の向こうの誤称をそのまま春の午後の卓の上に置き去りにされた。
マティアスは何も言わなかった。星のスプーンの柄の星形を両手でもう一段きつく握っただけだった。
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私の紹介はなかった。クリスティーナ様の目は私の顔を一度も正面から見なかった。「養育係でございますね」の一言の代わりに、扇の端で卓の端を軽く一拍叩かれた。それだけが広間での私の存在の確認の合図だった。
エドワード様は何か小さな冗談を返されて、形式の微笑みだけを口角の分上げられた。養育係の麻のワンピースの輪郭と春の絹の輪郭は、一度も重ならなかった。
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「——マルタ。あの坊やをお連れして、もうよろしくてよ。疲れておいでのようだから」
あの坊や。広間でマティアスの名前は、五歳の二音と「マルティン」の誤称と「あの坊や」の五音で今日収まった。
マルタが一度頭を下げて、マティアスの肩にそっと手を置いた。マティアスは姉と兄の方を一度見上げた。エミリアが小さく頷いた。ルーカスは表情を動かさなかった。マティアスはマルタの手に引かれて広間を出ていった。
星のスプーンの柄の星形の先端が、戸の向こうに一瞬光って消えた。
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広間の大きな窓の前の立ち位置に、私は戻った。私の役目は、エミリアとルーカスが広間の退出の合図を静かに待てるように窓辺で立つことだった。
クリスティーナ様はエドワード様に、また扇の内側から甘い語尾の一言を投げた。
「……ねえ。あなたがご子息にご自分で語りかけられる時間は、この春どのくらい増えましたの?」
「増やすつもりですよ」
「まあ、頼もしいこと」
扇がほんの一寸翻った。「ご子息」は広間の会話の装飾物としてきれいに並べられただけだった。ルーカスの壇上の二百秒の声も、エミリアの長い夜の重みも、マティアスの星型人参の一枚の緑の葉も、クリスティーナ様の扇の内側には今日一粒も触れていない。
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窓辺で、エミリアが私のワンピースの裾の縁を、指先でほんの少しだけ摘んだ。七歳の見えない引っ張り方。私は顔を動かさないまま、エミリアの手の方にほんの僅か体の重心を寄せた。
ルーカスは窓枠の縁に左手の指を音もなく置いていた。広間の卓の向こうの会話を目で見ていない。耳で拾っていた。弁論大会の練習で培われたこの子の聞く訓練が、今は別の方向に使われていた。
クリスティーナ様は一度も窓辺の方には視線を向けられなかった。
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「——さて。今日はお会いできて、本当に嬉しゅうございました」
クリスティーナ様が椅子から静かに立ち上がられた。ルーカスとエミリアがもう一度同じ形で頭を下げた。
「お見送り、ご無用でございますわ。……またの機会に、ゆっくりと」
エドワード様が広間の戸までクリスティーナ様をお送りになった。戸の手前でお二人の声がもう一度薄く重なった。戸が閉じた。扇の香りだけが卓の上の空気に薄く漂っていた。
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エドワード様は椅子に戻られる前に、窓辺の方角に一度だけ目を向けられた。
「ルーカス、エミリア。もう下がってよい」
「はい」
「……養育係」
「はい」
「今日はご苦労だった」
ほぼ一年前、広間の壇上で息子の肩を片腕で抱きながら「さすが我が息子」と朗々と宣言された、あの声と同じ、低く澄んだ響きの声だった。「ご苦労」の四音節の中に、私の名前は今日も含まれていなかった。
「恐れ入ります」
頭を下げて、ルーカスとエミリアの背中を子供部屋の方へ促した。
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廊下の途中、ルーカスは一歩先を黙って歩いていた。角を曲がる前に、振り返らずに言った。
「……ちちうえは、今日も、せんせいのとなりには立たれませんでした」
冬の婚約披露会の翌朝、この子が子供部屋で私に置いたのと同じ形の一文だった。別の春の同じ場面を、同じ語彙でもう一度記録されていた。
「……ええ」
私は、他の言葉を、返さなかった。
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子供部屋の戸を閉めた瞬間、マティアスが、寝台の縁から、ぽんと、飛び降りてきた。
「せんせい、せんせい。あのひと、ぼくのこと、マルティンっていった」
星のスプーンを両手で握ったまま、マティアスは私のワンピースの裾に顔を押し当てた。
「……ええ。聞いていたわ」
「……ぼくは、マティアスです」
五歳の五音の発音が、裾の布に半分吸い込まれた。膝を曲げて、マティアスの高さに目線を下ろした。
「あの方は今日、マティアスのお名前を覚えそびれてしまったの。でも、マティアスのお名前はマティアスのものだから、誰が間違えても変わらないの」
マティアスは口の中で二度「マティアス」と自分の名前を呟いた。一回目は小さく。二回目はもう一段はっきりと。
星のスプーンの柄の星形の先端を、マティアスは自分の胸の前でもう一度握り直した。
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エミリアは寝台の縁に腰を掛けたまま、しばらく刺繍枠を手に取らなかった。藤色のリボンの端を、指先でほんの少しずつねじっていた。
「せんせい」
「ええ」
「……あのひと、こわかった」
「こわかった、というのは、どんなこわさ?」
前世の保育士の問いかけの古い形が、自然に口から出た。「こわい」を言葉の種類で少しだけ分けてあげる問いかけ。
エミリアは少し考えた。
「えっとね。……いたくは、ない。でも」
「でも」
「わらっているのに、……なかが、つめたい」
中が冷たい。七歳の語彙が今日、一つ新しいものを獲得した。
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エミリアは藤色のリボンの端をほどいて、また結び直しながら続けた。
「おばあさまのね、おげんきなころのおはなしで、『ひとには、ふたつのわらいかたがある』って」
いつイルマ様がその話をこの子にされたのか、私は知らない。
「ひとつは、なかからわらっている、わらいかた。もうひとつは、ふたをしめて、うえだけわらっているように、みせる、わらいかた」
「……そうね」
「きょうのあのひとのわらいかたは、ふたをしめていた」
私はエミリアの隣に静かに腰を下ろした。エミリアは私の左の袖口を、指でほんの少しだけ摘んだ。冬の夜のあの爪の引っ掛かりよりは弱い摘み方。でも、同じ指先。
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「せんせい。あのひと、……わらっているのに、めが、こわい」
袖口の摘みの指に、ほんの少しだけ力が入った。
「わたしたちと、おなじめをしているわ」
わたしたちと同じ目。七歳の短い一文が、扇の内側の光の輪郭を一瞬で別の色に塗り替えた。
「……エミリア。同じ目って、どんな目?」
「……『だれも、わたしのなまえをよんでくれない』っておもっているときの、め」
七歳のまっすぐな一本の糸。引っ張れば、マルタに連れていかれるマティアスの背中にも、一年前の私の袖口の一粒の涙にも当たった。もう一本の糸は今日初めて、広間の反対側の絹の方へ伸びていた。碧い目。結い上げた金の髪。象牙の扇。その奥で、もしかしたら昔、名前を呼んでもらえなかった小さな女の子が一人、扇の裏側に立っていたのかもしれない。
悪意の声ではなかった。悪意を持てるほど子供のことを見ておられなかった。見ないで済む育ち方をしてこられた方。エドワード様と同じ連鎖の中の、もう一人の大人。知ってしまった、と私はほんの小さく頷いた。
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「エミリア」
「うん」
「今日、あの方のことを『こわい』と言葉にできて、偉かったわ。こわいものに『こわい』って名前をつけられる人は、こわいものに飲み込まれにくいの」
エミリアは藤色のリボンの端を結び直した。今度はきれいに蝶の形になった。
「せんせい。……あのひと、なかのかお、だれもしらないままおわるのかな」
七歳のもう一本の問い。私はすぐには答えなかった。
「分からないわ。……でも一人、今日、あの方の扇の内側の冷たい光に気づいた子がいる。エミリア、よ」
「……でも、わたし、あのひと、すきじゃない」
「それでいいの。好きになる必要はないの。ただ『こわい』の中を少しだけ見てみたら、あの方も一人の人だったというだけのことよ」
エミリアは頷いた。納得ではなく、保留の頷き。冬の夜の「うん」と同じ種類の保留。
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ルーカスはその間、窓辺の石板で鉛筆を動かしていた。縦の線を三本。横の線を二本。いつもの、気づき・対応・結果の三段の格子。十二歳の観察記録は、もうこの子自身のものだった。
ルーカスは鉛筆を置いて、寝台の方へ歩いてきた。
「せんせい。ぼくも書きます。『クリスティーナ様は、マティアスの名前をまちがえた』と。それから、『ちちうえは、訂正をされなかった』と」
ルーカスの目は静かだった。怒りではなかった。記録の目だった。エミリアは袖口を摘んだまま小さく頷いた。三人の頷きが静かに繋がった。
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夕刻、マルタが、水差しを運んできた。
「フィオナ様。お茶の席の間、マティアスお坊ちゃまを台所の暖炉の前で、蜜の湯を差し上げました。……お名前は台所では、マティアスと私がお呼びしておきました」
マルタは目を伏せたまま短く付け加えた。広間で訂正できなかった名前の一文字を、台所の暖炉の前で静かに回収しておいてくださった方がいた。
「……ありがとう、マルタ」
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その夜、寝息が揃うのを待ってから、私は机に向かった。五冊目のノートを開いた。
《春。ハウザー伯爵令嬢、広間にお見えになる。マティアスの名前を「マルティン」と呼ばれる。父、訂正なし。》
《エミリア、七歳半。「わたしたちと、おなじ目をしている」と言う。扇の内側の光にこの子は今日、一人で気づいた。こわいに名前をつけられた七歳。》
《あの方の扇の内側の冷たい光。敵の光ではない。おそらくあの方もまた、名前を呼んでもらえなかった春を一度通られた方。憐れむつもりはない。ただ敵としてだけ見続けるのは、私の仕事の仕方ではない。》
机の一番下の引き出しの奥には、冬から預かっている薄い布の包みが、変わらず静かに置かれていた。「いざという時」は今日ではなかった。
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朝の鐘の前、マルタが、戸を薄く叩いた。
「フィオナ様。先ほど、厨房の者から聞きました。ハウザー伯爵家から、本日の茶会の御礼状が届いたそうで。宛名はエドワード様お一人で。……書面の上の婚約者のお名前は、ございませんでした」
書面の上の婚約者。すなわち私。
「分かったわ、マルタ。ありがとう」
マルタは頷いて下がった。
引っ込められる署名の日が、また一歩近づいていた。今日の広間の一度の挨拶、扇の内側の一度の甘い語尾、御礼状の一行の宛名。この三つが春の静かな一本の線として繋がっていた。
子供部屋の窓辺で、マティアスが星のスプーンの柄を膝の上で両手で握っていた。「マティアス」の自己確認を、もう一段静かな声で二度、口の中で繰り返していた。エミリアは藤色のリボンをきれいな蝶の形に結び直していた。ルーカスは石板の格子の横に、新しい縦の線を一本引き足していた。
桜に似た木の新しい葉の影が、窓の外で細かく揺れた。扇の香りは、もう消えているはずだった。それでも今朝の子供部屋の空気の中に、昨日の広間の光の冷たい輪郭が薄く残っていた。
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【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この二十一話で書きたかったのは、「新しい敵の、内側の輪郭」を、敵として描き切らずに、連鎖の中のもう一人として、半分だけ差し出すことでした。クリスティーナ様は、広間の光の中で、今日、悪役の形をして登場します。マティアスの名前を「マルティン」と呼び、訂正されず、御礼状の宛名に書面の婚約者の名前は置かれない。この方は、次の春、フィオナから全てを奪う側の、紛れもない一人です。
ですが、七歳のエミリアが夜の子供部屋で囁いた一言——「わらっているのに、めが、こわい。わたしたちと、おなじ目を、しているわ」——は、この方を、ただの敵から、もう一段、別の輪郭に引き寄せてしまいます。扇の内側の冷たい光の奥で、一人の女が、昔、名前を呼んでもらえなかった春を通ってきた、のかもしれない。エドワードと同じ連鎖の、もう一人の形。憐れむつもりも、好きになる必要もない。ただ、敵としてだけ見続けるのは、この物語が選び取らない視線です。
次回、エドワード様の冷淡さは、扇の内側の春から、もう一段、日常に降りてきます。子供たちが、大人の問題に巻き込まれる前の、最後の、柔らかな春の子供部屋の日々が、少しだけ、続きます。引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。
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