第25話 子守係風情
2時間前
2時間前
広間のいちばん高い天井の、燭台の橙の光の下で、私の名前は書面の上から静かに外された。
書面はエドワード様の掌の下の卓に置かれたままだった。けれど書面に並んだ私の名前の文字の上を、エドワード様の視線はもう通らなかった。通らない視線の下で、名前は紙の上に残ったまま、事実としては消えていった。
---
初夏の入り口の午後の広間だった。
朝に窓辺から見送った二頭立ての馬車の、石畳の水の筋が乾ききった頃。私は葡萄色のドレスの袖口を指で一度撫でた。弁論大会の日と同じ袖口の布だった。
マルタが子供部屋の戸を薄く叩いた。
「フィオナ様。……広間へ、お越しください。エドワード様からの、ご指示です」
マルタの声はいつもの平静の奥に、冬の廊下の声と同じ種類の水分を含んでいた。目の縁は乾いたまま、水分は声の低い層の方に集められていた。
「……ご指示の内容は」
「書面の、お話で、ございます」
書面、という一語をマルタは句切った。句切った隙間に、私は半歩遅れて立ち上がった。
子供部屋の奥でマティアス様が、星のスプーンを両手で握ったまま、木彫りの人形と静かに会話をしていた。
「……承知いたしました」
戸を閉める前に、三人の方を振り返らなかった。
---
広間の扉が開いた。
奥の長い卓の正面にエドワード様。斜め前の深い背もたれの椅子にクリスティーナ様。卓の端には黒い執事服の書記の方が、羽根ペンを紙の横に置いていた。
私は卓の正面からは半歩ずれた位置に立った。招かれた者の立つ位置としては曖昧な、中途半端な、半歩後退した位置だった。
エドワード様の灰色の瞳は私の顔の少し上の空間を一度通り過ぎた。冬の朝の廊下と同じ通り方だった。通り過ぎた瞳は卓の上の書面の一点に戻った。
---
「——婚約の書面だ」
エドワード様の声は広間のいちばん高い層の空気を、一度薄く切った。
「春の終わりまでに書き換えると通達してあった。今日の午後の書き換えを、これより執り行う」
書記の方が羽根ペンを指の腹で持ち上げた。羽根の先が卓の上の光の中で細く震えた。
クリスティーナ様の扇は、今日は薄い水色の絹張りに変わっていた。扇の動きは、冬の広間でエミリア様が「おなじ目」と囁いた時と同じ一定の速度で往復していた。目は私の方を向かなかった。香水の匂いだけが卓の端から届いた。
「異議はないな」
エドワード様の短い問い。
問いの形を取っていたが、答えを求める問い方ではなかった。問いの底には、すでに書き終わった書面の紙の厚みが据えられていた。
私は両手をドレスの前で重ねた。
「……異議は、ございません」
返事を広間の空気に置いた。置いた返事は行き場を見つけずに、卓の書面の方へ斜めに降りていった。
---
エドワード様が書記の方に顎で合図を送られた。
羽根ペンが書面の上を走った。私の名前の上に細い横線が一本引かれた。引かれた線は画数のいちばん上の端だけを、薄く撫でるように通った。名前は消えたのでも消されたのでもなく、「見なかったもの」として線の下にしまい込まれた。
横線の右隣に、クリスティーナ様のお名前が新しいまっすぐの字で置かれた。
「——これで公爵家の、書面の上の婚約者は、ハウザー伯爵家ご令嬢、クリスティーナ嬢となる」
エドワード様の声は卓の端の書記の方と、卓の斜め前のクリスティーナ様と、広間の空気だけに向けられていた。私の方には向けられていなかった。
---
静けさが一拍長く続いた。
長く続いた静けさの最後のところで、エドワード様は初めて私の顔の方に視線を置かれた。
置かれた視線は顔の少し上ではなかった。目と目のちょうど同じ高さの位置に置かれた。置かれた瞳の中には、冬の朝の廊下で通り過ぎていく時の無関心の色とは別の、もう一段暖かみを削り落とした色が据えられていた。
「——所詮、子守係にすぎない女だった」
声の高さは、広間の燭台の橙の光のいちばん上の層を一度薄く切って、そのまま卓の書面の上を通り過ぎてクリスティーナ様の扇の内側へ滑り落ちた。
私は袖口の布を握らなかった。握りそうになった指の第一関節のところで止めた。止めた指の先で、袖口の布は弁論大会の日の涙の跡の上を静かに通った。
口は開かなかった。
開かない口の内側で、私は一度だけ、子供部屋の棚の一段目にある深い赤のノートの最後の余白の、点の打たれていない一行の空白を思い出した。
「どこに、行っても、自分の、力で、歩いていける」
——その空白は、今日のこの広間の燭台の下の一言と、ひとつの大きな呼吸を挟んで繋がっていた。
---
エドワード様が半歩卓から退かれた。退かれた先で、もう一度私の方へ視線を置き直された。
「——子守係風情が、婚約者面をするな」
今度の声は卓の書面にもクリスティーナ様の扇にも向けられていなかった。まっすぐに私の袖口の、葡萄色の布の一点に向けられていた。
声の背中には五年分の何かの重さが据えられていた。——子供の世話をしろ。それだけだ。着任初日の子供部屋の戸口で告げられたあの短い命令の続きが、五年越しに今この広間の卓の上まで運ばれてきて、一言にまとまったという感触だった。
クリスティーナ様の扇が一度高く上がった。扇の内側で、くぐもった笑い声の最初の息が半分だけ漏れて、すぐに隠された。
---
私はドレスの前で重ねた両手を、深く息と一緒に下ろした。
下ろしてから頭を深く下げた。下げる角度は、朝の廊下で五年間毎朝エドワード様に返してきた半歩の会釈の、二倍の深さだった。
頭を上げた時、袖口の縁はまだ乾いたままだった。目の縁も乾いたままだった。頬の内側のいちばん奥の粘膜の層のところで、熱が一度揺れた。揺れた熱は喉の方へは上がらなかった。胸の古い筋肉の方へ戻って、静かに座り直した。
——泣かない。
子供のいる場所でもいない場所でも鉄則は同じだと、着任初日にマティアス様の布端の一滴目を唇の上に乗せた朝、私は自分の指に言い聞かせていた。
あの朝の言い聞かせに、五年越しに従った。
---
エドワード様の視線はもう私の顔を向いていなかった。書記の方の羽根ペンの先が、書面の別の行の細かい文言の確認に移っていた。クリスティーナ様の扇は卓の斜め前で、また一定の速度の往復に戻っていた。
「——下がってよい」
今度の声は、冬の間に消えた「ご苦労」の書き換えられた版のように響いた。「下がってよい」の「よい」の末尾の音だけが、私への今日の最後の言葉として、広間の空気の上に残された。
「——失礼、いたします」
私はもう一度深く頭を下げた。下げた先で、広間の扉の方へ半歩ずつ退いた。扉の閉まる直前のところで、クリスティーナ様の鈴の音のような笑い声の最初の一拍だけが、卓の向こうから滑ってきた。「まあ、あなた様ったら」の最初の「まあ」の形が、扉の蝶番の細い隙間に挟まった。
扉が閉まった。
蝶番の細い隙間の切れ端は、廊下の石の床の上に一度落ちて、そのまま誰にも拾われないまま残された。
---
廊下を子供部屋の方へ歩き始めた。
自分の歩幅はいつもと同じだった。頬の内側の粘膜の熱は、もう喉の方へは上がってこなかった。胸の古い筋肉の奥の方で、熱は座り直したまま動かなかった。
——泣かなかった。
指先に置いた。置いた言葉の下で、古い筋肉のいちばん深い層のところが軋んだ。軋みは音にはならないまま、次の一歩の靴底の当たり方の方へ吸い込まれた。
廊下の曲がり角の手前で、マルタが壁際に立っていた。目が合った。マルタの目の縁は乾いていた。乾いたまま、黒目のいちばん奥の層のところに、水分の予備が一粒分だけ備えてあった。備えの一粒は落ちなかった。落ちる代わりにマルタの喉の方へ飲み込まれた。
「……イルマ様が、お呼びでございます」
マルタの告げ方は、広間のエドワード様の問いとは別の種類の水分の含み方をしていた。
「……はい」
私は短く返した。返した先で、マルタの右手がエプロンの縁の、冬の廊下の日と同じ場所に静かに預けられた。
---
離れの奥のイルマ様の寝室。
獣脂灯の細い明かりが、寝台の毛布の上のイルマ様の指の先の、いちばん薄い皮膚の輪郭を一筋撫でていた。
毛布の上の指は、もう縁を握り返せなかった。握り返せない指の第二関節のところに、私は自分の指をそっと添えた。
「フィオナ……」
イルマ様の声は、空気を惜しむ深い呼吸の一番浅い層の上にだけ浮かんでいた。
「……書面の、こと、は」
「……はい。今日の午後に、書き換えられました」
イルマ様の銀色の睫毛が深く下りた。下りた睫毛の内側で、瞳は獣脂灯の小さな橙の光を一粒、鏡の裏側のように映していた。
「……あの子の視線は、今日、あなたの顔のどのあたりに」
質問の長さが、イルマ様の今日の呼吸の、いちばん深い肺活量の限界だった。
「……目の高さに。一度だけ」
「……そう。……なら、あの子は少しは、あなたの顔を見たのね」
「見た」という言葉の下に、イルマ様は長い長い息を継がれた。継いだ息の、肺のいちばん下の層の方へ「ならなかった」という言葉が沈んで、浮かんでこなかった。
私は毛布の縁の指の上に添えた自分の指の力を、ほんのわずか弱めた。弱めた先で、イルマ様の指の第二関節の皮膚の下の細い骨の輪郭が、私の指の腹に五年分の一番軽い重さとして預けられた。
---
「……マルタ」
イルマ様の声が、寝室の獣脂灯の明かりのいちばん遠い隅の、壁際のマルタの方へ届いた。
マルタは一歩寝台の近くへ進んだ。進んだ先で、両膝を絨毯の上にそっと折った。
「……あの、記録を……」
イルマ様の声の、いちばん底の層からの一言だった。切れ目の息継ぎは、残りの肺活量のもう最後の予備を使っていた。
「……いつか、の時に……」
その先は言葉にならなかった。ならない代わりに、イルマ様の銀色の睫毛がもう一度深く下りた。下りた睫毛の下で、瞳は獣脂灯の小さな橙を、もう映さなかった。
マルタの右手が、エプロンの縁のいつもの位置に深く預けられた。預けた指の第三関節のところで、マルタの喉の奥で、深く頷いた息の形が一度立った。
「……承知、いたしました、奥様」
マルタの返事は、イルマ様の密命を、エプロンの布のいちばん奥の縫い代の内側に静かに収めた。
---
寝室を下がる時、イルマ様はもう目を開けられなかった。
扉を静かに閉めた。閉める直前の隙間のところで、イルマ様の閉じた瞼のいちばん端から獣脂灯の光の粒が一つ、薄い涙の膜の上を滑って落ちた。
——涙を流したのは、イルマ様の方だった。
私の指先は、私自身の頬の縁の方へは上がっていかなかった。上がらないまま、ドレスの前で両手が重ねられた。
廊下を子供部屋の方へ戻り始めた。マルタは寝室の扉の手前に残った。
---
子供部屋の扉を薄く開けた時。
奥の寝台でマティアス様が、星のスプーンを胸の上に握ったまま、午睡からそろそろ起きようとしていた。エミリア様は隣室で、藤色のリボンの結び目の羽の長さを指の腹で測っていた。ルーカス様は離れの書斎から、まだ戻っていなかった。
三人の誰も、広間の書面の横線の下のことを知らなかった。
——よかった。
指先に置いた。置いた「よかった」は、胸の古い筋肉の座り直した熱のいちばん上の層に、薄い一枚の布のように掛かった。布の下で熱は静かに、居場所を一つもらった。
マティアス様が目を擦った。
「……せんせい」
寝起きの細い声。
「……はい。ここに、おります」
私は寝台の縁に膝を折って屈んだ。屈んだ膝の高さは五年前と同じだった。子供たちの目の高さに、ちょうど合う高さ。
---
夜。子供たちが三人とも寝静まった後。
子供部屋の奥の棚の一段目の前に、もう一度絨毯の上に膝を折った。
五冊の背表紙に左から順に掌の腹を当てた。茶色、紺、深緑、黒、深い赤。ただ深い赤の革の手の記憶の薄い層のところに、今日の午後の広間の燭台の橙の光の、一粒分の重みが静かに足されていた。
五冊目を棚から抜いて、膝の上で開いた。
最後のページの余白の、点のない一行の空白。「どこに、行っても、自分の、力で、歩いていける」。
書き足すなら、こう書けた。——「書面の上の名前、書き換え済み。指先、乾いたまま」。
書き足さないまま、私はページを閉じた。四冊目の黒の指一本分の右隣に戻した。五冊の背表紙の高さが、また揃った。五冊目の右側の指一本分の空きは、もうなかった。
五冊はこれ以上、増える場所を持たなかった。
立ち上がろうとした膝の先の、机のいちばん下の引き出しの奥に、冬から預かっている薄い布の包みが今日も指一本分の塵の下にあった。指は引き出しには伸びなかった。
---
窓辺に立った。
庭の馬車回しの石畳は、夜の底の冷えた色に沈んでいた。
葡萄色のドレスの袖口の縁を指で一度撫でた。袖口の布は乾いたままだった。弁論大会の日の一粒の水分の跡は、もう布の上から消えていた。
——泣かなかった。
指先にもう一度置いた。置いた先で、胸の古い筋肉の「よかった」の層のすぐ下のところが、今日初めてほんの少しだけ、小さく細く震えた。震えは音にならないまま、私の指の第二関節のあたりまで上がってきて止まった。
止まった震えを、窓辺の硝子に手を当てて、夜の冷たさの方へ静かに移した。硝子の上に掌の形のうすい曇りが、一拍残って消えた。
——明日の朝が来る。
子供たちにどの順番で何を告げるか。告げるより先に何を残すか。残す前に、どの子のどの掌の温度をもう一度受け取るか。
今夜は一つも答えは出なかった。出ないまま、私は窓辺から寝台の方へ戻った。戻る途中、廊下のいちばん奥の方から、マルタの足音が離れの方へ通り過ぎる気配がした。届かない足音の先で、イルマ様の密命がエプロンの縁の縫い代の内側を静かに運ばれていく夜の動きがあった。
その動きの輪郭を、私は今夜はまだ見届けることができなかった。
---
【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第三アーク「子守係風情」、開幕の一話目でした。
あらすじに置いた「所詮、子守係にすぎない女だった」「子守係風情が、婚約者面をするな」——作品タイトルの「僕たちはフィオナ先生を選びます」の真逆の言葉が、ここで公式の場の空気に落とされます。五年分の布端の一滴、百八十夜の寝息、星型人参の葉、壇上の一つの声、不揃いのちょうの短い羽。それら全部の手順を、二つの短い声が一度に書面の上の横線の下へしまい込んでしまう——この一話を書くのに、私はどうしてもフィオナが「泣かない」ことをきちんと守りたいと思っていました。
フィオナの鉄則は、前世の保育士だった頃に自分の指に置いた言葉です。——子供の前では泣かない。けれど今日、広間には子供たちはいません。いないからこそ、逆に鉄則は重くなります。子供のいない場所でも鉄則を守る——そのことの意味は、フィオナ自身の口からは説明されません。頬の内側の熱の位置と、袖口の布の乾き方だけで、五年分の言わない決意を残すつもりでした。
離れの寝室のイルマ様の一言——「あの、記録を……」。この一言は、第四アークで、ある一夜の誰かの掌の中に運ばれていく伏線です。五冊の棚の右隣の空きが、もうないこと。机のいちばん下の引き出しの薄い布の包みが、まだ開かれていないこと。——それら全部の「閉じない」ものが、この第三アークで一つずつ居場所を変えていきます。
次話「最後の夜」では、子供部屋にもう一度戻ります。マティアス様の靴紐。エミリア様の子守歌。ルーカス様への声の渡し方。——五年分の手順の、いちばん最後の一夜分の順序を、ゆっくり書いていくつもりです。
☆評価・ブクマ・感想をいただけると次話の励みになります!