第29話 救えなかった子
2時間前
2時間前
グリューネヴァルトの朝は、杉の梢の濡れた葉先の銀色から始まった。
軒下の藁の束の隙間に差し込んだ光の筋が、革鞄の紐の温度を、王都の石畳の冷気から森の湿り気へと静かに置き換えていった。
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学び舎の横に長い庇の下で、レオン様が白墨を削っていた。
削っているというより、削る手が途中で止まっているという方が近かった。削り屑の白い粉の山が、板の縁で朝風に細く流された。
「おはようございます」
私の声に、亜麻色の襟の位置が半拍跳ねた。
「あっ、——お、おはようございます」
「朝は、どう過ごされるのですか」
「子供たちの来る前に、教材の整理を。あと、昨夜の文字の稽古の直しを」
「直しなさるのですか」
「ええ。夜に書いた字は、朝見ると下手で間抜けで、見られたものではないのです」
笑った目の外側の層に、昨日の夕方と同じ朝日のような明るい驚きが、半粒生まれた。その下の層には、街道の三日分の疲労の薄い色がまだ残っていた。
——この方の朝は、静かだ。
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昨夕のハンナ様の釜から、粥を三杯、椀によそった。
私の分とレオン様の分と、子供たちが来た時のための一杯。湯気は麦の匂いのいちばん奥の層に、干した木の実の甘い粒を一つ忍ばせていた。
「今日は、子供が来るかどうかわからないのです」
椀を手渡しながら、レオン様が言った。
「トビアスが昨日あんなことをしたので。他の親たちが『危ないから』と家に留めるかもしれない」
「——そうですか」
「それでも僕は、毎朝ここにいます。来なかった日も、板書を書き直して待つのです」
「待つ」の音のいちばん下の層に、ある冬の重さが静かに置かれた。昨日の夕方、深い緑の瞳のいちばん奥でほんの半拍通ったあの悲しみのひと擦れと、同じ温度だった。
「……もう一つ、伺ってもよろしいですか」
レオン様の白墨の手が、板の上で一度止まった。
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「昨日、教室で、深い緑の瞳のいちばん奥を、一瞬別の色が通りました」
「——気づかれましたか」
レオン様は、白墨を板に置いた。
「——僕は昔、一人、子供を救えなかったのです」
声は低かった。井戸の方から、朝の水汲みの桶の紐の音が、遠くで跳ねた。
「名前はヨナ。八歳でした。僕がここに着任した最初の冬、もう四年前」
四年前の「年」の音で、指の腹の粉の付き方が、いつもより薄く見えた。
「病と貧困が重なりました。家に薪がなくなった。僕は自分の分の薪を運びました。ですが、届く前に」
「——」
「冬のいちばん深い夜の朝でした。僕の運んだ薪は、その子の土間の隅に半束、置かれたままでした」
深い緑の瞳は、床板の木目のいちばん暗い節の方を見ていた。
「それからです。『全ての子供に学ぶ喜びを』と口にするようになったのは」
「……」
「僕はあの冬、自分に誓いました。ここに残って、次の子供の冬を一つ減らすと。——けれど、トビアスの椅子は投げられ続けた。ドロテアの声は二年、戻らない」
「……ありがとうございます」
「何のお礼ですか」
「話してくださったこと。ヨナ様のお名前を、ここに置いてくださったこと」
レオン様は半拍黙った。黙った先の瞳の内側の深い層で、小さな明るい水分の粒が一つ生まれた。粒は瞼の縁には上がらなかった。上がる代わりに、亜麻色のつむじの辺りがほんの半寸傾いた。
——この方は、「救えなかった」を「教えられた」の隣に置く人だ。
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午前は、扉が半分閉じたままだった。子供は一人も来なかった。
代わりに、坂の下の家々の窓の縁に、老いた影が浮かんでは消えた。集落の目が扉の奥をうかがっていた。
「怒らないことを、どう説明すればいいのでしょう」
白墨の先が一度折れた。粉は、右の薬指の爪の縁に斜めに流れた。
「怒らない、と、叱らないは、少し違うのですわ」
「——違うのですか」
「叱るは、必要な時は致します。ただ、怒るという、大人の感情のぶつけ方では叱りません」
「うん、——もう一度言っていただけますか」
深い緑の瞳の外側の層に、初めて「学ぶ」の形の、素直な光の一粒が生まれた。
「大人が『腹が立つ』と感じた、その熱さを子供の背中に押しつけるのが、怒る。子供の行動の中で『次はここを気をつけよう』と一緒に見つけるのが、叱る」
「……子供は、それを区別するのですか」
「いたしますわ。身体のいちばん深い層で、二つの触れ方の違いを受け取るのです」
「僕は多分、トビアスに『怒って』いた。——叱ったつもりで、熱を背中にぶつけていた」
「誰にでもありますわ」
「僕は、教師なのに」
「教師だからこそですわ。子供の数だけの温度差の調律を、毎朝、指先で測り直すお仕事ですもの」
「……調律」
「ええ。楽器の弦の張り具合を、毎朝、ひと撫でで測るように」
折れた白墨の先が、板のいちばん右の空いた一角に、短い二文字を書いた。
——調律、と読めた。
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午後、西日の傾きが、杉の梢の先端を一段赤く染め始めた頃。
扉の半分の隙間に、二つ分の赤い影が斜めに差した。
トビアスと、ドロテア様だった。
トビアスの右手には、今日は椅子はなかった。代わりに、左手の指の第二関節の内側に、昨日の粘着の絆創膏の縁が、ひと巻き分新しく足されていた。
「……来たぞ」
声は低かった。昨日の、変声の手前の硬い層の、もう半音下の響きだった。
「いらっしゃい」
膝を折った。高さは、ドロテア様の灰緑の瞳の位置に合わせた。
トビアスは、扉の内側の板の端に背中を預けた。妹の指の二本分の挟み込みを、昨日と同じ場所で、今日も受け入れた形だった。
「先生、何するんだよ」
「今日は、お歌を一つ置いてみようと思うの」
「歌って」
「覚えなくていいの。歌詞も言わなくていいの。ただ、ここに一節置かせてもらうだけ」
「——意味わかんねえ」
レオン様は、教卓の向こう側に一歩下がった。下がった先で、深い緑の瞳が、私の横顔の少し斜め後ろの位置に静かに立った。
——立ち会うという距離。邪魔をしないという距離。
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ルーカス様の時、私が置いたのは拍子だった。声を拒む七歳の心の壁の外側から、膝の掌の音だけを夜ごとに運んだ。指先が毛布の上で応えるまで、百五十夜。
ドロテア様は、違う。
この子は声を拒んでいない。ただ、「ここでは話さない」と決めている子。二年前、父の失踪と母の病が重なった夜に、気道の弁のような場所を自分の指先で閉めた子。
拍子では、ない。
——歌の低い一節を、そのまま置く。
ただし、正面からではなく、斜め半身で。中心の視線を外しながら、耳の側面の柔らかい産毛の層に届く角度から。
ごく低い音程で、短い子守歌の冒頭の三小節だけを置いた。
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「おやすみ、おやすみ、藁の寝床に、白い夢をおいて……」
旋律は、王都の子守歌ではなかった。前世の古い保育園の裏庭、砂場の端の柔らかい風の中で何百回も繰り返した、三拍子の優しい音域の古い一節。
喉のいちばん下の層から、声の角を削り落とし、音のいちばん低い丸い粒だけを、空気に落とした。
三小節目の最後の「おいて」の、「て」の音の高さの半分のところで、一度止めた。
——続きは、歌わない。
途切れた空気の中で、軒下の藁の束の光の粒が、ふわりと一度傾いた。
ドロテア様の灰緑の瞳の睫毛の内側の層で、ごく小さく二度、震えた。
一度目は、音程が落ち始めた最初の「おやすみ」の二音目。二度目は、「藁の」の「の」の上がり際の半拍。
睫毛の震えは、瞼の外側までは届かなかった。内側のいちばん深い水分の層で、光がひらりと二つ分、予備の粒になった。
灰緑の瞳の中心の光が、ほんの指の第一関節分、私の喉の声の出た場所の方へ向けられた。
——聴いている。
唇は閉じていた。けれど、唇の縁の産毛の右の一本が半拍震えた。震えた先で、息の小さな一筋が、いつもより指一本分深く外側へ流れた。
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トビアスが、扉の板から背中を離した。
「——おい、ドロテアが聞いてる」
声は小さかった。昨日の椅子の鋭い音の下の層の、もう一段下の柔らかい層から押し出された声だった。
「……メルツ。こいつ、二年、歌なんか聞いて動かなかったんだぞ」
「ええ」
「……なんで聞くんだよ」
「ただ、ドロテア様の耳の横の柔らかい層に、お歌のいちばん低いところが届く角度があったの。正面からではなく、斜め半身で」
トビアスは、首を一度斜めに傾けた。傾けた先で、西日の赤い一筋が、ぼさぼさの前髪のいちばん右の先をひらりと擦った。
「……変な先生」
「よく言われますわ」
右の頬の表情筋の薄い層の下に、微かな笑いの予備が半拍置かれた。笑いはすぐに、奥歯の食いしばりで噛み消された。けれど、消された跡の喉のいちばん下の層に、昨日の「飲み込んだ」硬さとは少し違う温度のものが残った。
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ドロテア様の、シャツの裾を挟んだ指の第二関節の白さが、半拍緩んだ。
緩んだ先で、小さな掌の親指の腹が、布の皺のいちばん深い谷の上で二度、軽く叩いた。
トン、トン。
拍子では、なかった。歌の三小節目の「おいて」の、「お」と「い」のはねと、同じ軽さだった。
——届いた。
前世の砂場の端の、三十日分の小さな背中の記憶が、喉の下の層で潤んだ。潤みは瞼の縁までは上がらなかった。上がる前に、鉄則の外側の層で抑えた。
子供の前では、泣かない。
代わりに、歌の三小節目をもう一度、同じ低い声で同じ角度で置き直した。
親指の腹の二度の軽い叩きが、同じ谷の上で、もう一度繰り返された。
トン、トン。
唇の縁の産毛の一本の震えは、今度は半拍、長かった。
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レオン様が、斜め後ろで半歩動いた。革靴の爪先の音は、床板のいちばん深い溝の底には届かなかった。
——この方は、見る方を知っておられる。
「……メルツ」
「はい」
「——君の教え方は、僕が知っているどの方法とも違う」
声は低かった。ヨナ様の名前を置いた朝の声と、同じ温度だった。
「王都で学んだどの教授の、どの教本にも書かれていないのです。正面からではなく、斜め半身で。声の角を削って、低い粒だけ。続きを歌わずに途切らせる。——こんな教え方は、一度も見たことがなかった」
「三千日分の、子供たちの耳の角度を測ってきただけですわ」
「……三千日」
深い緑の瞳が、杉の梢のいちばん高い先端の方へ向けられた。向けられた先で、朝日のような明るい驚きが三粒分生まれた。
折れた白墨が、「調律」の文字の下の行に、短い一行を書き加えた。
——「斜め半身で」と読めた。
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ドロテア様が、指の二本の挟み込みをほんの半寸緩めたまま、兄のシャツの裾から手を離した。
離した先の四本指が、空中で一瞬戸惑った。戸惑いは、兄の左手が静かに下りてきて受け止めた。
「……帰るか?」
トビアスは、妹の掌を、自分の節だらけの日焼けの掌で上から包んだ。
ドロテア様は、頷かなかった。
代わりに、灰緑の瞳をもう一度、私の翡翠色の瞳の外側の層のいちばん上の境界にほんの半拍合わせた。合わせた先で、小さな唇の産毛の右の一本が三度目の震えを置いた。
震えは、声にはならなかった。けれど、震えのいちばん下の層で、「また」と「来る」の二音分の空気の形が、ごく微かに耳の側面の柔らかい産毛の層に届いた。
——この子は、まだ、ここでは話さないと決めている。
けれど、一節の歌の届く角度だけは、今日、一つ見つかった。
「……また明日、お待ちしていますわ」
膝を立てた。立つ速さは、睫毛の瞬きの半拍の速さに合わせた。
扉の半分の隙間を、二つ分の赤い影が斜めに抜けていった。坂の下の井戸の方へ、兄の半歩の歩幅と妹の小さな足の一歩の歩幅が、同じ速さで遠ざかっていく。
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扉が、静かに閉まった。
教室の空気が、低く落ちた。西日の赤い一筋が、板書の「調律」の二文字と「斜め半身で」の五文字の白い粉の縁の上に、柔らかい斜めの輪郭を描いた。
レオン様が、こちら側へ半歩戻った。靴の爪先の音は、今度は床板のいちばん深い溝の底にも届いた。
「メルツ」
「はい」
「学び舎を、一緒に作りませんか」
「学び舎は、もうありますわ」
「——板も教卓もあります。名簿に六人の名前も。でも、今日僕が見たのは、板でも名簿でもない、何かです。『学び舎』の前に、もう一つ言葉を足さないといけない気がしています」
白墨の折れた先が、庇の下の、白い粉の擦れた「みんなの、学びや」の手前の空いた空間の想像の位置に、一行の輪郭をゆっくりと空中に描いた。
——「斜め半身で入ってくる子の、ための」
「……長すぎるのですわ」
「はい」
「でも、この軒下の藁の光が、この一行を短く削ってくれる気がしますわ」
「僕も、そんな気がします」
二人の目線が、庇の下の「みんなの、学びや」の、最後の「や」の右下のはねの消えかけた角の上で、一度、静かに重なった。
重なった先で、明日の朝の粥の三杯目の行き先が、トビアスの日焼けの掌の上へ決まった。
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西日が、杉の梢のいちばん高い一本の赤い色を、一段さらに深くした。
——ヨナ様の冬の、半束の薪の位置に、今日の歌の三小節目の「おいて」の「て」の途切れた音が、そっと隣に置かれた。
救えなかった子の名前の隣に、救えるかもしれない子の睫毛の内側の震えの二度分が、届いた。
王都の公爵邸の最上階の隅の子供部屋、五冊のノートの棚の一段目、深い赤の右端の指一本分の空きがもうない夜の、誰かの足音の一つがひらりと想像の外側を掠った。
掠った足音は、ここでは掴まない。
掴むのは、明日のドロテア様の産毛の四度目の震え、と決めた。
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【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第二十九話「救えなかった子」は、第三アーク「承」の二話目、辺境グリューネヴァルトでの朝から午後までを書きました。
レオン様の「ヨナ様」の名前は、長く口にさせませんでした。四年前の冬、土間の隅に置かれた「半束の薪」の届かなかった距離を、白墨の折れた先の斜めの破片の位置で、一度だけ現在の軒下に重ねています。「救えなかった」を「教えられた」の隣に置ける方だから、フィオナはこの軒下に、前世の三千日分のいちばん古い引き出しの音を、置かせてもらえると判断しました。
ドロテア様は、ルーカス様の時のように拍子では届かない子と考えました。この子は声を拒んでいるのではなく、「ここでは話さない」と自分で決めている子。だから、正面からの拍子ではなく、斜め半身で、声の角を削った子守歌の低い三小節を途中で途切れさせる——耳の側面の柔らかい産毛の層に斜めに落ちる角度で、初めて届きました。睫毛の内側の二度の震え。親指の腹の、布の谷の上の二度の軽い叩き。産毛の一本の、三度目の震え。今日はそこまで、と決めて書きました。
レオン様の「君の教え方は、僕が知っているどの方法とも違う」の一行は、この方が「わからない」を「学ぶ」の隣に置ける人だから、初めて発せられた一行です。板書の「調律」「斜め半身で」の白墨の粉が、次話の学び舎開校の、最初の一行目の下書きになります。
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