第30話 怒らない先生
2時間前
2時間前
学び舎の開く朝だった。軒下の白墨の「みんなの学びや」の擦れた「や」のはねの上に、ハンナ様の編んだ細い藁の輪が一つ掛けられていた。
井戸の縁の女が昨夕、何も言わずに革鞄の紐の脇へ置いていった輪だった。子供の指の二本分ほどの太さがあった。
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「……魔除け、ですか」
軒下の柱の脇で、レオン様が白墨の指を輪の縁に軽く添えた。
「いいえ。『今日からここが開きます』の印ですわ」
深い緑の瞳が輪の影の二本の薄い線を辿った。亜麻色の襟の白墨の筋の上に、朝日の反射の粒が生まれた。
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粥の椀は五つに増やした。ハンナ様が夜のうちに麦の小袋を柱の脇へ置いていってくださっていた。
「……五つ、ですか」
「四人と、あと一つは来なかった日の明日の朝のため。残しておけば扉は半分開いたまま夜を越えられます」
深い緑の瞳の外側に、昨夕の「学ぶ」の形の素直な光の粒が、もう一粒足された。
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最初の足音は坂の下から聞こえた。
扉の半分の隙間に、赤い影と灰緑の瞳の二つ分が斜めに差した。トビアスとドロテア様だった。
トビアスの右手には今日も椅子はなかった。代わりに左手の掌で、握りつぶされた麦の穂の五粒分が、湿った汗の上に潰れていた。妹のシャツの裾を四本指で挟んだまま、扉の板の縁を爪先で一度軽く蹴った。
「……入って、いいのか。あそこ座ってもいいか」
顎の先で、いちばん奥の列の端の二つを指した。
「どこでもいいの。トビアスの楽な場所で」
「ふん」
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次の足音は井戸の方から聞こえた。
六歳くらいの男の子と四歳くらいの女の子が、母親のエプロンの裾に指を二本ずつ預けていた。母親は私と目が合った瞬間、半歩後ろへ引いた。
「……あの、メルツ先生、ですか。ハンナさんから聞いて……うちのヤン。あとリーゼル。今朝だけ置いて帰っても、いいですか」
「ええ。お昼の鐘の前にお迎えに来てくださいませ」
ヤン君とリーゼル様、と名前を声に出して二度繰り返した。母親の指の白さがふと緩んだ。
「ハンナ様の麦の粥が、柱に五つございます」
「五つも……」
目尻の皺がひと筋、深く寄った。その先で指の二本が、ゆっくりと子供たちの肩に置き直された。
——「行ってきなさい」ではなく、「行っていいよ」の形の置き直しだった。
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四人。トビアスとドロテア様、ヤン君とリーゼル様。名簿の空の二行は、今朝も空のまま残した。
膝を折った。高さは、リーゼル様の瞳の瞬きの位置に合わせた。
「今日は藁を編んでみましょうか。軒下の輪と同じ編み方で、指二本分の太さの輪を一つずつ、お作りいただきます」
「……何になるんだ、それ」
「自分の机の右上の節目に置く印に。明日、自分の机がすぐわかります」
ヤン君が、ふと目を丸くした。
「……お、おれの印?」
「ええ。ヤン君の印は、ヤン君だけの編み方になります。同じ藁でも、指の皮の当たり方が違うので」
リーゼル様の小さな指が、机の上にひらりと置かれた。
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藁の束を四つに分けた。
ヤン君が手のひらの湿った汗の上で、藁の一本をひらりと滑らせた。リーゼル様は、母親の指の二本の置き直しの形を、机の上でそっと再現した。
ドロテア様は藁を握らなかった。代わりに灰緑の瞳が、ヤン君の藁の巻き方の最初の半周の角度を二度追った。
追う目線の外側の層で、唇の縁の産毛の一本が、ほんの半拍震えた。
——昨日の「て」の途切れた音と、同じ半拍。
今日の藁の擦れの音の下の層に、昨日の歌の「おいて」の「て」の、途切れた空気の輪郭が薄く重なった。
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トビアスは藁を握らなかった。
代わりに机の右上の節目に、握りつぶされた麦の穂の五粒分を、ひらりと置いた。
「これ、印。藁いらねえ」
「もちろん。トビアスの印は、トビアスが決めていいの」
「ふん」
トビアスはしばらく自分の印の位置を見た。その目線の下の層に、昨日の「飲み込んだ」硬さとは別の温度のものが、半粒分残った。
——「決めていい」と言われたのは、初めてなのかもしれない。
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扉の外の井戸の方から、女の声が聞こえた。
「——遊ばせてるだけじゃないか」
長くはなかった。低くはあった。日に焼けた太い腕の、筋の奥から押し出された声だった。
扉の半分の隙間の外、坂の縁の、井戸の方を覗かない位置に、目深の手ぬぐいの内側が、こちらを長く見ていた。
目の底の層に、否定の音が半分。残り半分には、まだよく見えない別の温度のものが、ひと粒含まれていた。
ヤン君の藁の半周の巻き方が止まった。リーゼル様の四本指が、机の上で半寸、後ろへ引かれた。
「……気にしないでいいの。よそのお母さんの目。子供を見てる目だから、怖くはないの」
ヤン君は外の手ぬぐいの内側を見た。その先で藁の半周を、もう半周進めた。
扉の外の手ぬぐいの内側は、しばらく動かなかった。やがて井戸の桶の紐の音が、水面の縁をひらりと跳ねた。跳ねた先で、手ぬぐいの内側は半歩、井戸の縁の内側にずれた。
——立ち去るのと、立っているのとの間の、半歩だった。
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その時、机の奥の列で、椅子の脚の鋭い音が鳴った。
トビアスが、座っていた椅子を半寸、後ろへ押し倒した。倒れた椅子の左後ろの脚が、床板のいちばん深い溝の底にひっかかった。
「——おい先生。ヤンの藁、変だ」
ヤン君の藁の半周の、角度の三度分のずれを、トビアスは奥の列から見抜いていた。
「変、と言ったら、ヤン君が悲しむかしら」
「悲しんだら何だよ」
「悲しむと、変な藁ができあがるの。指の皮の当たり方が、半拍ずれるから」
「——意味わかんねえ」
「だから、変ではなく、別の巻き方ですね、と言ってくださると嬉しいの」
「……んだよ、それ」
トビアスはしばらく黙った。それから椅子のひっかかった脚を、爪先で半寸、横へずらした。脚の床への当たり方は、今度は半拍揃った。擦れの音は鳴らなかった。
「……別の、巻き方、ですね」
ヤン君の藁の半周の、角度の三度分のずれが、半拍戻った。
ドロテア様の灰緑の瞳の外側の層に、ほんの半拍、明るい色のひと粒が置かれた。唇の縁の産毛の一本が、もう一度震えた。
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扉の外の手ぬぐいの内側は、もう半歩、井戸の縁の内側に残った。
桶の紐の音は、もう跳ねなかった。
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昼前の鐘が、坂の上の教会の塔から二つ分流れた。
ヤン君とリーゼル様の母親が迎えに来た。指の白さは行きの時より緩んでいた。リーゼル様の机の節目に、藁の輪が一つ置かれていた。輪のいちばん深い谷の縁に、麦の穂の一粒分がしれっと添えられていた。
ヤン君が自分の輪の隣にそれを置いた。トビアスの五粒分の印の、すぐ隣だった。
「これ、リーゼルの印。それ、トビアスの印。明日も来るか」
ヤン君の声の下の層に、昨日までなかった種類の息の軽さが、半粒混じった。
「……知らねえよ」
「知らねえって、何だよ」
「……来るかもしれねえ」
扉の半分の隙間を、母親の指の二本が、二つ分の足音で抜けていった。
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残ったのは、トビアスとドロテア様だった。軒下の柱の脇に、五つ目の椀がまだ湯気を保っていた。
「トビアス、お椀、温かいうちにいかが」
「……いらねえ」
「ドロテア様は、お粥、お好き?」
ドロテア様は頷かなかった。代わりに灰緑の瞳が、トビアスの五粒分の印の方を見た。
「……食え。兄ちゃんいらねえから、お前の分、ある」
ドロテア様の四本指の白さが、半拍緩んだ。それから椀を両手で持ち上げた。湯気が灰緑の瞳の睫毛の内側に、ふわりとひと粒分上がった。
小さな唇が椀の縁に半分触れた。麦の、干した木の実の甘い粒のひとかけらが、四歳の舌の谷の上に、ひらりと落ちた。
咀嚼の音の下の層に、「おいしい」の「お」の、息の形だけが、ふわりと空気に置かれた。
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トビアスが椅子から立ち上がった。立った先で、麦の穂の五粒分の印のいちばん右の一粒を爪の先でつまんだ。つまんだそれを、妹の椀の縁の湯気の上にひらりと落とした。
「……星じゃねえけど。俺の印の、いちばんいいやつだ」
ドロテア様の咀嚼の音が止まった。灰緑の瞳が初めて、兄の赤毛の右の前髪の先端を、まっすぐに見た。
唇の縁の産毛の、五度目の震えが置かれた。震えの下の層で、「にい」の空気の形が、ごく微かに、軒下の藁の輪の縁の影の上に届いた。
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「——なんで、怒んねえんだよ」
ふと、トビアスが私の方を見た。
目線は、私の翡翠色の瞳の外側の層に、半拍預けられた。
「椅子、半分倒した。藁いらねえって言った。お前のこと、変だって言いそうになった」
「ええ」
「先生、なんで怒んねえんだよ」
声の下の層に、昨日の椅子の鋭い音の下の層と同じ温度の震えが、半粒分入った。
「……怒る必要がないから」
「椅子、倒したぞ」
「ええ。だから次は、倒さないように半寸、椅子を引いて」
「藁、握らなかったぞ」
「ええ。だから麦の穂を印に選んだ」
「変だって言いそうになったぞ」
「ええ。だから別の巻き方、と言い直した」
三つの言葉の往復。三拍目の終わりに、八歳のぼさぼさの前髪の下の眉の内側の付け根へ、ルーカス様の虚ろな瞳の外側の薄い膜と同じ質の、水分の予備のひと粒が生まれた。粒は瞼の縁には上がらなかった。
半歩、膝の高さを下げた。八歳の褐色の瞳の、いちばん下の境界に目線を合わせた。
「トビアス。あなたは、悪い子じゃない」
「……」
「『悪い』のは、どれかの行いの置き場所が半寸ずれた、その半寸のずれだけ。トビアスのいちばん深いところには、悪いものは一つも入っていないわ」
水分の予備のひと粒が、半拍揺れた。揺れた先で、トビアスは口をぎゅっと噛んだ。喉の下の層から、昨日と同じ小さな水分の音がした。
——飲み込んだ。
軒下の藁の輪の、いちばん下の縁の影の上。昨日の街道の轍の底に置いた私の嘘の欠片の隣に、トビアスの飲み込んだもののひと粒が静かに置かれた。
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扉の外の井戸の方に、もう一度、目深の手ぬぐいの内側の視線が戻ってきていた。位置はさらに半寸内側へずれて、ドロテア様の椀の湯気の方を見やすい角度になっていた。
目の底の層の否定の音は、午前の最初の頃から、もう半粒分薄くなっていた。
残り半分の別の温度のものは、ほんの半粒分増えていた。
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「——カタリナさん、と、言われます」
レオン様が、教卓の向こうから半歩、私の方へ戻ってきた。
「三年前にご主人を落石で亡くされた。お子さんが三人。いちばん上がトビアスと同い年の八歳。『遊ばせてるだけじゃないか』は、彼女の口癖です。読み書きだけ覚えておくれ、と、いつも」
「あの方の目の、いちばん底の層に、否定の音は半分しかないのですわ」
「……半分」
「もう半分は、たぶん『うちの子も、星型の人参を食べる日が来るのだろうか』の種類の温度ですわ」
「——なぜ、わかるのですか」
「井戸の縁から半歩内側にずれる人は、お子さんのお椀の湯気の方を見ておられる人ですから」
深い緑の瞳の外側の層に、朝日のような明るい驚きが生まれた。折れた白墨が、教卓の空いた一角に、短い四文字を書き加えた。
——「半分の否定」と読めた。
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昼の二つ目の鐘が流れた。
扉の外の手ぬぐいの内側は、ようやく井戸の縁から半歩、外側に戻った。戻った先で、桶の紐の湿った擦れの音が、水面の縁をひらりと跳ねた。
跳ねた先で、手ぬぐいの内側は坂の下の方へ歩き始めた。肩のいちばん細い線の下の層に、男の薪の半束分の重さは、もう三年と少し置かれていないようだった。
代わりに、背負われた麻の袋のふくらみの輪郭の中に、子供の八歳分の麦の俵の握りの形が、ひと粒分見えた。
——あの方の背中の握りの形は、毎晩、家の薄い壁の内側で寝かしつけられている、子供のものだ。
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残ったトビアスとドロテア様の、二人分の靴の音は、坂の東側の、藁葺きのいちばん端の家の方へ向かって歩き始めた。扉が、静かに閉まった。
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「メルツ。四人、来ましたね」
「ええ。明日、何人来るかはわかりませんわ」
「明日も、五つ椀を」
「ええ。来なかった一つ分は、明日の朝のため」
「『扉が半分開いたまま夜を越えられる』は、僕の教本には書かれていない教え方です」
「教え方ではないのですわ。粥の椀の、五つ目の置き場所ですわ」
「同じですよ」
深い緑の瞳のいちばん奥の層で、ヨナ様の土間の隅の半束の薪の、届かなかった距離の輪郭が、ふと半寸薄くなった気がした。
その半寸の薄さは、私の勝手な見立てに過ぎないかもしれない。けれど四年前の冬の半束の薪の隣に、今朝の五つ目の椀の湯気のひと粒分が、軒下の藁の輪の影の上へふわりと置かれたのは確かだった。
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集落の方を、半拍見やった。
カタリナ様の後ろ姿は、もう東側の藁葺きのいちばん端の家の影の中に消えていた。消えた先の薪小屋の半開きの戸の隙間に、薪の半束分の影が横一列に立てかけられていた。
——あの方の毎朝の半束の薪は、レオン様の四年前の半束の薪の隣に、ひと粒置けるかもしれない。
今日のところは私の勝手な見立て。明日の朝、桶の紐の跳ねを数え直す、それだけが、今日いちばん近い仕事。
遠くの公爵邸の最上階。五冊のノートの深い赤の右端、指一本分の空きがもうない夜の、誰かの足音の一つが、また想像の外側をひらりと掠った。
掠った足音は、ここでは掴まない。掴むのは、明日の扉の半分の隙間に差す足音の数と、井戸の縁の手ぬぐいの半歩分の、内側のずれの深さだ。
藁の輪は、明日の朝もう一度、編み直そう。
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【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第三十話「怒らない先生」は、学び舎の開校の朝から昼までを書きました。集まったのは四人——トビアス、ドロテア様、ヤン君、リーゼル様です。名簿の二行を敢えて空のまま残し、扉の半分を夜まで開けておく選択を、藁の輪と五つ目の粥の椀に託しました。
「怒らない教育」の核は、「怒る必要がないから」「あなたは悪い子じゃない」の二行です。前話のレオン様への説明(怒る/叱るの区別)を実践する場面でもあります。椅子を半寸倒し、藁を握らず、ヤン君を「変」と言いそうになった——その三つの行いを一つずつ、置き場所の半寸のずれだけ置き直す試みでした。
カタリナ様には、扉の中までは入らず、覗かない覗いているその境の半歩分にだけ立っていただきました。「遊ばせてるだけじゃないか」の声の否定の音は半分です。残り半分は、お子さんの椀の湯気の方を半歩内側へ見にいらしていた。Arc 4で迎える「星型の人参の日」への、最初の半歩です。
ドロテアとトビアスの並列ケアは、麦の穂のいちばん右の一粒が妹の椀の湯気の上に落ちた、そのひと粒の温度に集約しました。「にい」の空気の形が声にはならないまま届く——これが今日の、いちばん深い達成です。
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