第37話 せんせいのごはん
2時間前
2時間前
辺境の朝。
板張りの小部屋の戸口の縁に、冬の終わりの薄い紅の光が半寸ほど届いた。届いた先では竃の朱い炎の手前で、小鍋の麦の粥のひと回り目の湯気がゆっくり昇りはじめていた。
星型の人参の薄い輪切りが五つ。鍋の手前の朱の縁でひと粒ずつ温められていた。
——今朝、畑はまだ遠い。
杉の森の雪の残りの下の土は、種を受け取るにはまだ半月早い。今日の粥の人参は、ゆうべレオンが集落の井戸の脇の地下の板の箱の底から取り出してきた、去年の秋でいちばん形の整った一本だ。
三年前の公爵邸の庭の一角の小さな畝の黒土の粒の温度は、この一本の朱の断面のいちばん内側に、まだ残っていた。
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寝台の方で、小さな寝返りの音がした。
板張りの壁のいちばん低いところから、五歳の浅い均等な寝息が一拍だけ短く区切られた。金髪のつむじのいちばん外側の一筋が、毛布の縁の薄い陰の上を半寸動いた。
マティアス様の青い瞳が、いちばん上の層からゆっくり開いた。
開いた先で、鼻先の奥に、竃の麦の粥の湯気の蜂蜜色の下から朱のいちばん細い匂いが届いた。
「……せん、せい」
ひと月と少し、公爵邸の朝食の席の銀のお椀の冷たい縁へは届かなかった声——その底にずっと溜まっていた「いい」の二音が、今朝、五歳の熱の引いた頬の内側で静かに解かれた。
「はい、マティアス様。おはようございます」
膝を同じ高さに折った。五年前から同じ高さ。子供の目のちょうど合う位置だ。辺境の板張りの小部屋の木の床の薄い軋みの一筋の上でも、この高さだけは何も変わっていなかった。
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木の椀を四つ並べた。それぞれのいちばん手前の縁に、星型の人参の薄い輪切りを一つずつ浮かべた。
四つの椀の右側の板の縁に、もう一つ小さな木の椀が置かれていた。中身は空のままだった。
——五つ目の椀。
学び舎の教卓の空いた一角に、レオンが白墨で「五つ目」と書き足したのは、ふた月前の開校の日の朝だった。——「来なかった日の、明日の朝のため」。「扉が半分開いたまま、夜を越えられる」。
公爵邸の子供部屋で四人分の椀のいちばん右端に私が五年間置き続けた、「今日の欠席の子のため」の五つ目の椀——その延長線が今朝、この板の卓のいちばん低いところに届いていた。届いた先の空の椀の縁には、カタリナ様のいちばん上のお子様の名前の遠い一筋の温度が今朝も薄く留まっていた。
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エミリア様が目を覚まされた。
栗色の巻き毛のいちばん外側の一筋の先が、枕の縁の薄い陰の上で半寸揺れた。灰色の瞳のいちばん深いところには、三日分の街道の朝霧の粒がまだ遠く沈んでいた。
「……おはようございます、せんせい」
「はい、エミリア様。おはようございます」
八歳の背筋は、昨夜の眠りの深いところで半寸ほどけていた。ほどけたまま、エミリア様は毛布の折り返しの縁を指の第三関節で小さく握られた。
「……せんせい」
「はい」
「……夜、起きなかったです」
八歳の声のいちばん細い縁に、小さな、けれども明確な一拍の驚きが乗っていた。——自分の驚きを自分で言語にする、初めての朝だ。
私は頷いた。
「……ええ」
言葉は控えめに置いた。置いた先で、エミリア様は頷かれなかった。頷く代わりに、握った毛布の折り返しの縁のいちばん深い一段を半寸だけ下へ深くされた。
——八歳の、保留の「うん」。
あの夜の袖口の縁の、爪の引っ掛けの「うん」と同じ温度だった。同じ温度のまま、今朝はその下に「起きなかった」の六文字が置かれていた。
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ルーカス様が、戸口の影の薄い縁に静かに立たれていた。
十二歳の茶色の瞳が、卓の上の三人分の椀の並びを、いちばん奥の一粒まで静かに測った。測った先で、首のうしろの、昨夜からひとつ分ほどけた筋の張りがもう半寸下りた。
「……おはようございます、先生」
「はい、ルーカス様。おはようございます」
マティアス様が、毛布の折り返しの縁から小さな足を下ろされた。掌には星型のスプーンが握られていた。——三年前の夏の台所の蜂蜜色の午後の光のいちばん内側の一筋が、五歳の小さな指の薄い皮膚の下で、三日分の街道を越えてまだ保たれていた。昨夜の眠りの深い一拍の上でも、握りの形は半寸もゆるまなかった。
私は、マティアス様の小さな椅子を、卓のいちばん手前の縁の前に膝の高さで合わせた。
「……せんせい」
マティアス様の青い瞳は、椀の湯気の蜂蜜色の下の朱の輪切りにまっすぐ置かれた。置かれた先で、五歳の喉のいちばん深いところから、三日分の街道の乾いた土の粒の最後の一粒がゆっくり手放された。
「……フィオナせんせいの、ごはん」
十二文字。
この言葉の下に、三年前の夏の台所の星型の人参の葉の「ぼくの、にんじんの、はだから」のいちばん遠い一粒の温度が、もう一度届いた。届いた先で、三日分の街道の朝霧の粒のいちばん上と、公爵邸の朝食の席の銀のお椀の冷たい縁と、ヘルガさんの厨房の麦の粥の湯気の三匙目とが、一度に薄く重なった。
柘植の星型のスプーンの五つの角のいちばん外の一つが、五歳の小さな指の薄い皮膚の下で半寸持ち上がった。——握りの角度は、三歳の夏の台所の最初の一匙のあの角度と同じだった。
持ち上がった先で、朱の薄い輪切りの五つの角のうちいちばん外の一つが、五歳の口の内側の奥までゆっくり運ばれた。
五歳の熱の引いた頬の内側の薄い皮膚の下で、朱の一粒の甘みのいちばん深い層が、ひと呼吸かけて静かにほどけた。
「……おいしい」
四文字。
その下に、もう乾いた埃の層は一粒も残っていなかった。
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エミリア様は、自分の椀のいちばん手前の縁に、両手の指の第三関節をそっと添えられた。添えた先で、柘植の小さな丸いスプーンの薄い一段を、右手の細い指の腹で静かに持ち上げられた。
「……いただきます」
ひと匙。ふた匙。み匙。
三匙目の朱の薄い輪切りのいちばん内側の一粒を口の内側の奥まで運ばれたときに、エミリア様の灰色の瞳のいちばん奥に沈んでいた三日分の朝霧の粒の、最後の一粒が——ゆっくり手放された。
手放された先で、八歳の栗色のまつげの薄い層に、ひと粒の小さな水分の光が昇った。昇った一粒は頬の外側までは下りなかった。下りない代わりに、瞼の内側の深い層の方へゆっくり吸い込まれていった。
——この子も、まだ頬の外側では泣かない。
そのことを見た。見たことは、口には出さなかった。
ルーカス様は、戸口の影の縁から半歩、卓の方へ進まれていた。
「……いただきます」
十二歳の五音節の下の深いところで、三日分の街道の乾いた土の粒のいちばん深い底の静かな筋肉の波が、その最後の一拍までようやく均された。
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レオンが、戸口の板の縁の外に立っていた。
亜麻色の乱れた短い髪の、寝起きの一筋の跳ねの下で、深い緑の瞳は、卓の四人のいちばん奥——マティアス様の頬の内側の朱の薄い輪切りのいちばん遠い一粒に留まった。
右手は、戸口の板の縁で迷いの癖の半寸の寄りを、今朝はもう残さなかった。残さない代わりに、自分の分の椀を教卓の「五つ目」の白墨の字の下へ静かに持っていかれた。——公爵家の子供たちの最初の朝の椀は、フィオナさんの竃の端で。声にはしない、ひと言の温度だった。
置かれた先で、四年前の冬の土間の隅の半束の薪の届かなかった距離の温度が、今朝の朱い炎のいちばん手前のひと粒の上でもう半寸薄くなった。
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昼過ぎ。
三人の椀は、四つとも空になった。マティアス様の椀のいちばん手前の縁に、柘植の星型のスプーンが、握りの形のいちばん薄い皮膚の一段下の温度を半寸残して置かれていた。
ルーカス様が、戸口の板の縁で半歩、外の方へ進まれた。進んだ先で、冬の終わりの薄い紅の午後の光が、十二歳の外套の煤の層の、昨日半寸湿った縁の上に一筋落ちた。
「……先生。外、見に行っても、いいですか」
「……ええ、ルーカス様。学び舎の庇の下までなら」
「……はい」
——外の空気は、この子の三日分の街道の、いちばん最後の一粒の重さを、もう半寸軽くするかもしれない。
小さな頷きを、ひとつ置いた。
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私は、学び舎のいちばん奥の窓の薄い硝子の半寸曇った層越しに、庇の下へ出ていくルーカス様の背中の輪郭を目で追っていた。レオンは、井戸の縁の三歩手前で竃の薪を抱えたまま、同じ方向の庇の柱のいちばん外側の縁を一度見上げた。——声は掛けなかった。掛けない代わりに、薪の一束のいちばん下を、もう半寸腕の内側に引き寄せた。
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庇の下の板の敷石のいちばん手前の一粒のところで、ルーカス様の靴の底の薄い皮の縁の音が半寸止まった。
止まった先の、庇の柱のいちばん外側の縁に——赤毛の少年が立っていた。
八歳。日に焼けた小さな肩の上で、ぼさぼさの赤毛が一束、午後の風の遠い一筋の方へ傾いていた。左の頬に乾いた土の粒が一つ小さく付いていた。膝には、紙の縁の黄色い粘着の端が半寸捲れた絆創膏が一つ薄く貼られていた。
八歳の褐色の瞳のいちばん外側の縁が、ルーカス様の茶色の瞳のいちばん真ん中に——まっすぐ届いた。届いた先で、八歳の眉の外側の角が半寸上がった。
「……どこの坊ちゃんだ」
たった八文字。
けれどもその下に、辺境の冬の井戸の凍った縁の温度と、母の寝床の薄い熱の匂いと、父の王都への出稼ぎの街道の半年分の風とが、一度に薄く重なっていた。
——「様」をつけられることを、極度に嫌がる子。
——「椅子を投げることは、助けて、の、いちばん大きな言葉」——レオンの白墨の、半月前の記録だ。
十二歳のルーカス様の首のうしろの筋の、昨夜ようやく半寸下りた張りが——今、もう一度半寸戻ろうとした。戻ろうとした先で、右手の指の細い関節の二段目が小さく畳まれた。石板の升目の右下の一粒を指の腹でそっと押さえるときの、あの形とよく似ていた。
ルーカス様は、何も言われなかった。
言わない代わりに、茶色の瞳のいちばん真ん中を八歳の褐色の瞳の外側の縁に静かに合わせ直された。
「……ルーカス。ヴェルナーです」
名字の「ヴェルナー」の、公爵家の三文字の重さは飾られなかった。——「です」の二文字が、十二歳の端正な一語のいちばん外側の縁で半寸震えていた。
弁論大会の壇上の、二百秒の声のいちばん終わりの縁の、あの温度の遠い延長線の上にある半寸の震えだった。
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八歳の褐色の瞳のいちばん外側の縁が、もう半寸上がった。
「ルーカス……?」
口の内側の奥で、四音節が一度転がった。転がった先で、「坊ちゃん」の四文字の下に、初めての人の名前の四音節が置かれた。——置かれた四音節は、すぐには八歳の喉の深いところまで下りなかった。
「……関係ねえだろ」
六文字。
トビアス様の右手の指の第一関節が小さく畳まれた。
ルーカス様の右手は、下ろされたままだった。下ろされた先の、板の敷石のいちばん手前の一粒の半寸横に、左手の指の第三関節が静かに添えられた。添えられた先で、十二歳の口の内側の奥から——昨夜の竃の端の「全部、覚えています。だから、もう、忘れません」の、最後の一拍の延長線の上にひとつ、新しい一拍が置かれた。
「……関係、ないかもしれません」
十三文字。残った半寸の震えの縁のまま、茶色の瞳の真ん中は、褐色の瞳の外側の縁から——逸らされなかった。
八歳の眉の外側の角がもう半寸上がった。上がった先で、褐色の瞳のいちばん奥に——小さな、けれども明確な一粒の戸惑いの温度が半寸昇った。
——怒り返される返り方を予想して投げた六文字。その予想の縁の半寸外側に、ルーカス様が返された十三文字が落ちた。
「……なんだよ、それ」
トビアス様は、もう一度言われた。けれども、二度目に投げられた七文字の下には、最初に投げられた六文字の乾いた土の粒のいちばん深い底の温度が半寸薄くなっていた。
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庇の柱のいちばん外側の縁のところで——もう一つ、小さな影が立っていた。
ドロテア様。
四歳。トビアス様のシャツの裾のいちばん下の折り返しの縁を左手の指三本分で握っていた。握っていない側の右手の小さな掌は、自分の前掛けのいちばん下の縫い目の縁に静かに置かれていた。
灰緑の瞳が——私の方へゆっくり上げられた。唇の縁の薄い産毛のところが半寸震えた。——先日の、斜め半身の低い三小節の途切れさせた子守歌の翌日の、午後の学び舎の戸口の、あの震え方と同じ形だった。
膝を同じ高さに折った。折った先で、四歳の瞳のいちばん内側の明るい一粒に翡翠色の瞳のいちばん深い層を静かに置いた。
ドロテア様の右手の小さな掌が、前掛けの縫い目の縁で——半寸持ち上がった。
持ち上がった先で、ルーカス様の下ろされたままの右手の指の第三関節に——ドロテア様の灰緑の瞳のいちばん深い明るい一粒がひと呼吸留まった。
留まった先で、十二歳のルーカス様の口の内側の奥に——五年前の公爵邸の子供部屋の隅の「ち、ち……」の朝の二音節の、遠い一筋の温度がもう一度静かに昇った。昇った一筋は声の縁までは下りなかった。下りない代わりに、茶色の瞳の真ん中が——半寸細まった。
——この子も、声を持っていなかった時期がある。
十二歳の静かな気づきの半寸が、ルーカス様の右手の指の第三関節から、ドロテア様の明るい一粒へ、声にはしないまま——静かに届いた。
トビアス様の眉の外側の角が——ひと呼吸止まった。
止まった先で、八歳の褐色の瞳が、妹の小さな掌の縫い目の縁の、半寸持ち上がった形に一度落ちた。落ちた先で、八歳の右手の指の第一関節の畳まれた形が半寸ゆるんだ。ゆるんだ形の下には——「妹には、手を、出すな」のいちばん古い一筋の温度が残っていた。残ったまま、トビアス様は半歩——下がらなかった。
「……行くぞ、ドロテア」
八文字。
赤毛の一束の、午後の風の遠い一筋の方へ傾いていた角度が半寸、杉の森の方へ戻った。戻った先で、八歳の褐色の瞳のいちばん外側の縁が——ルーカス様の茶色の瞳の真ん中にもう一度短く置かれた。
「……明日、来るかもしれねえ」
十一文字。
その下に、ふた月前の開校の日の、トビアス様のヤン君への「来るかもしれねえ」の、八文字のいちばん遠い延長線が静かに重なった。
ルーカス様は、頷かれなかった。頷かない代わりに、右手の指の第三関節に、もう半寸静かな一拍を置かれた。
赤毛の兄妹の二つの小さな影は、庇の柱の縁から半歩、杉の森の方へ移った。移り際、ドロテア様は——ルーカス様の方へ一度振り返られた。振り返った先で、唇の縁の薄い産毛のところが、もう一度半寸震えた。
——四度目の、震え方。
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庇の下の板の敷石の、いちばん手前の一粒のところで、ルーカス様はゆっくり息を継がれた。
継いだ息のいちばん深いところから、三日分の街道のいちばん奥の静かな筋肉の波の最後の一拍は、もう昇ってこなかった。
「……先生」
「はい、ルーカス様」
「……あの子——名前を、聞き損ねました」
十二歳の声の細い縁に、半寸の震えはもう残っていなかった。残っていない代わりに、茶色の瞳の真ん中に——昨日までの三日分の街道の乾いた土の粒の、いちばん深い底とは違う、新しい薄い一粒の戸惑いの温度が昇っていた。
ルーカス様の左の肩の、外套の煤の層の、昨日半寸湿った縁の上に、右手の指の第三関節をそっと置いた。
「……明日、学び舎でお会いになれますわ。トビアス様のお名前は、きっと明日の朝の五つ目の椀の、いちばん手前の縁のところでお知りになれます」
「……はい」
短い頷き。
——水と、油。
混ざらないまま、冬の終わりの薄い紅の午後の光の下で、八歳と十二歳の、最初に投げられた六文字と返された十三文字の交換の温度が、庇の下の板の敷石のいちばん手前の一粒の上に、静かに残された。
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夜。
竃の朱い炎のいちばん奥の赤い残り火の一粒が、薄い橙の層を保っていた。板張りの小部屋のいちばん奥の寝台の方から、三人の寝息が、板張りの壁のいちばん低いところでひとつに均されていた。
エミリア様の頬は——私の膝の横の敷布の上にそっと預けられていた。
八歳の栗色のまつげの薄い層の下で、灰色の瞳は完全に閉じていた。藤色と栗色の二本のリボンの羽は、私の左の掌の薄い皮膚の下に、小さな結びの形で握られていた。
——ひと月と少し、辺境の風の遠い低い一筋に混じって届いていた、八歳の夜泣きの薄い一粒が。
——今夜、初めて出なかった。
声にはしなかった。しない代わりに、膝の上の四冊目の観察記録ノートのいちばん新しいページに、鉛筆の最初の一筆の薄い音で、四つの文字を静かに置いた。
「ひとつしず」。
——「静か」の「か」の一画は、翌朝に持ち越された。
ルーカス様は、戸口の側の自分の寝場所で、毛布の折り返しの縁を首のうしろの方まで引き上げられていた。十二歳の茶色の瞳のいちばん深いところに——昼過ぎの庇の下の、八歳の褐色の瞳の六文字の温度が、まだ薄く残っていた。
残ったまま、十二歳の眉のいちばん外側の縁が——半寸寄っていた。
——明日、学び舎で。
声にはしなかった。しない音の下で、右手の指の第三関節が毛布の内側に小さく畳まれていた。畳まれた形の下には、トビアス様の「明日、来るかもしれねえ」の十一文字と、ドロテア様の四度目の震えの半寸の縁の温度が——ひっそりと並んでいた。
マティアス様は、いちばん奥の壁の側で、星型のスプーンを胸の前に深く抱え込まれていた。握りの形は、今夜も半寸もゆるまなかった。
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竃の赤い残り火のいちばん奥の一粒の薄い橙の層のところに——膝の上のノートの四文字の先の、書かれなかった一画の空白が、静かに浮かんでいた。
明日の朝の五つ目の椀の湯気の、いちばん手前の縁のところに、トビアス様の「関係ねえだろ」の六文字と、ルーカス様の「関係、ないかもしれません」の十三文字とが——もう一度、同じ高さの板の敷石の上に置かれるかもしれない。
水と油は、まだ混ざらない。
——子守では、ありませんでした。
——育てて、いたのです。
昨夜、声にはしなかったこの二語の延長線の上に、今夜、もう一つ薄い一筋が静かに昇った。
——そして、明日からは、育てていきます。
声にはしなかった。しない代わりに、指の腹の薄い皮膚の下に、明日の朝の五つ目の椀の湯気の、いちばん手前の縁の、まだ誰のものでもない温度が——半寸預けられた。