第36話 だから僕たちは歩いてきました
2時間前
2時間前
翌日の夜。
マティアス様の額の淡い紅の層は、昼過ぎからもう指の腹に熱の粒を返さなくなっていた。夕食には星型の人参が浮いた粥を一杯。柘植のスプーンの五つの角のいちばん外の一つを口の内側の奥の層までゆっくりと運ばれた。
「……せんせい、おいしい」
五歳の、寝起きではない普通の声だった。三日分の街道の乾いた埃の層は、もう頬の外側のどこにも残っていなかった。
---
夜は、深くなった。
板張りの小部屋の奥の寝台に、三人を一列に寝かせた。いちばん奥の壁の側にマティアス様。真ん中にエミリア様。手前の戸口の側にルーカス様。十二歳の兄は、いちばん戸口に近い方を自分の寝場所として選ばれた。——何かあったら、最初に起き上がるのは僕だ。
寝息が均された頃、私は竃の端の椅子に静かに腰を下ろしていた。竃の薪の三本目のいちばん奥の赤い残り火の一粒は、昨日の朝にレオンが右側の縁のところまでまっすぐ届かせたあの一本の残りだった。
戸口の影の薄い縁から、ルーカス様が歩いてこられた。毛布の端を左手で軽く押さえたまま私の隣の小さな椅子に膝を寄せて座られた。
「……先生」
「はい、ルーカス様」
十二歳の茶色の瞳のいちばん深い層のところに、昨夜、言葉にしないまま喉の下に預けていたひと粒の重さが、半分だけ浮かび上がっていた。
「……全部、話します」
七文字。
昨日の木戸の前の「来ました、先生」の七文字の延長線の上に、この夜、ふたつ目の七文字が静かに置かれた。
——昨日の木戸からこの夜の竃まで、この子の十二歳の喉の下の層のところにずっと預かられていたのだ。
「……ええ。聞きます、ルーカス様」
---
「最初に気づいたのは、父上のご朝食の席でした。……父上はマティアスの名前を三度続けて『マルティン』と呼ばれました。クリスティーナ様は訂正されませんでした。クラウス先生も。誰もされませんでした」
三度。
その三度の数字の下のところに私が見ていない公爵邸の朝食の長い梁の遠い影の形が薄く浮かんだ。マルタからの二通目の手紙の冒頭の「マティアス」の横の細い筆跡の「マルティン」の五文字の記憶がもう一度昇った。
「……クリスティーナ様は子供部屋の廊下の二つ目の分かれ角の手前まで足音を運ばれました。……中には一度も入られませんでした。……父上も、退場のあと一度も」
——退場のあとも。
その「も」の一音の中に、五年前の着任初日の零歳一ヶ月の朝の父上の足音の届かなかった冬の記憶が薄く反射していた。
「エミリアの頬のいちばん丸い所の淡い紅は、ひと月のうちに半分薄くなりました。マティアスのお椀の半分の戻りも半分戻らなくなりました」
竃の赤い残り火のいちばん手前のところで、私の指の組みの内側の温度が一度ゆっくりと下に沈んだ。沈んだ先で、マルタからの二通目の手紙を読んだあの夕刻の低い寒気の層の温度がもう一度胸のいちばん下の層へ返ってきた。
——気づいてはいた。けれども、十二歳の石板の升目の右下の三つ目の縦線の長く細く育ったひと月半の温度までは、辺境の私の指先には届いていなかった。
---
「……ある夜、机の端の石板を開いたまま、棚の一段目の方を見ました」
ルーカス様の右手の人差し指が、膝の上の空の横の一筋の上を左から右へゆっくりと引かれた。引かれた先で、五本の小さな凹凸の温度の遠い再現が十二歳の薄い皮膚の層の上に半寸戻ってきた。
「……茶色の《ルーカス》。紺の《ルーカス》。深緑の《エミリア》。黒の《ルーカス、エミリア》。深い赤の《マティアス》」
五つの名前の音節が、竃の赤い残り火のいちばん手前の薄い橙の層のところで一つずつ置かれていった。置かれた先で、私の胸のいちばん下の層に退場前夜の柘植の小刀の丸くなった刃の先の浅い線の温度がもう一度せり上がってきた。
「……先生。……あれは、点の打たれなかった名前でしたね」
「……ええ。点は打ちませんでした」
「打つと、閉じてしまうから」
「……はい」
十二歳の指の小さな緊張が半寸ゆるむのを、私は自分の右手の指の先で、静かに受け取った。
---
「一冊目を開きました。——《着任初日。マティアス、零歳一ヶ月。布端授乳、成功》。……弟は、一滴で生き直したんですね」
五年前の春の子供部屋の暖炉の灰と酸えたミルクの匂いのいちばん遠い一粒が板張りの小部屋の竃の赤い残り火の手前まで届いた。届いた先で、十二歳の声の深い層のところに一拍の短い湿りの粒が昇った。頬までは下りなかった。
「……『ち、ち……』の朝の『届いた』の下の鉛筆も。……エミリアの七夜目の『ここ』も。……マティアスの星型の人参の葉の『ぼくの、にんじんの、はだから』も」
七歳の初夏の夜の声帯の半寸のほどけと三歳の夏の最初の所有の一粒の温度が、十二歳の今夜の竃の端の椅子の上で遅い延長線の上に重なった。
「——弟の『フィオナせんせいの、ごはんが、いい』は、あの夏の一粒の延長線の上にあったんですね」
「……ええ。そうですわ」
---
竃の薪のいちばん奥の赤い残り火の一粒が、半寸弱くなった。
ルーカス様は、竃の方へ自分の小さな上体をゆっくりと半寸だけ傾けられた。
「……五冊目の、深い赤の、最後のページに——」
声のいちばん細い縁の層のところで、十二歳の三日分の街道のいちばん深い底の静かな筋肉の波が、一度低く動いた。
「……『この子たちは、もう、大丈夫。どこに行っても、自分の力で歩いていける』——点は打たれていませんでした」
「……はい、ルーカス様。点は打てなかったのです」
「打つと、閉じてしまうから」
「……ええ」
深い息を一度継がれた。継いだ息の下でルーカス様は茶色の瞳のいちばん深い層を私の翡翠色の瞳のいちばん深い層のところにまっすぐ置かれた。
「先生の記録に書いてありました。——『この子たちは、もう、大丈夫。どこに行っても、自分の力で歩いていける』、って」
「……はい」
「——だから、僕たちは、歩いてきました」
たった、一行。
点を打たないままで私が棚に戻した、あの夜の深い赤のいちばん最後の一行の「る」の縦の画の先の、鉛筆の止まった地点のところから、この子は五日後の朝に三つの小さな影を、街道の三日分の乾いた土の粒の上へ一歩ずつ歩かせた。歩かせた先のいちばん最後の一粒を今、竃の赤い残り火のいちばん手前のところへ静かに預けた。
——「大丈夫」の先は、この子の胸のいちばん深い層の静かな筋肉のところで、ずっと続いていたのだ。
続き方のいちばん最初の低い一拍が昨日、木戸の前の踏み石の上へ届いた。届いた一拍の次の一拍が、今夜この板張りの小部屋の竃の端の椅子の上にこの子自身の口の言葉の形で届けられた。
---
私の指の組みの内側の温度が、もう堪えきれなかった。
昨日、三人の外套の内側で一度崩した五年分の紙のいちばん最後の半枚分の折り目が、今夜は竃の赤い残り火のいちばん手前でゆっくりほどけ始めた。
ルーカス様の十二歳の小さな肩の骨の輪郭の上に、私は右の掌をそっと置いた。兄の首のうしろの筋の、昨日から少しずつほどけてきた張りがもう一段半寸下りた。下りた先で、兄の茶色の瞳のいちばん深い層の一粒の湿りが今夜は瞼の内側に吸い込まれず頬の外側の薄い皮膚の層の上へひと筋下りた。
「……先生。……ぼくは、『ぼくは、こわくない。けれど、手をさげる』と決めていたんです。——今夜は、さげません。……先生の膝の横のところに、……ここに置いておきます」
ルーカス様の右手は、私の膝の横の椅子の端の縁のところに小さく置かれた。昨夜のヘルガさんの「H」の紙切れの温度と五冊の背表紙の凹凸の温度とマルタの戸の敷居半歩手前の止まった擦れの温度が、三つ重なってその指の下に置かれていた。
私は、自分の左の掌をゆっくりと重ねた。重ねた先で、私の五年分の「泣かない」鉄則のいちばん最後の半枚分の紙が、今夜静かにほどけた。
涙は、頬の外側を一粒下りた。下りた粒はルーカス様の右手の甲の薄い皮膚の層の上に落ちた。冬の終わりの板張りの小部屋の低い温度の中で、ゆっくりと薄い層に広がった。
——子供の目のちょうど高さのところで、下ろしてしまった。
前世の鉄則のいちばん古い一枚は、昨日、三人の外套の内側でほどけた。今夜ほどけたのは鉄則の紙ではなかった。紙の下に五年間置かれていた、私自身のいちばん深い層の名前のついていなかった一粒の温度だった。
ルーカス様は動かれなかった。動かない右手の甲の薄い皮膚の上で私の一粒をひと呼吸受け止めてから、ゆっくりと自分の左手の指の腹の先をその湿った一筋のいちばん外側の縁のところへ短く運ばれた。頬までは運ばれなかった。兄の右手の甲の上で半寸留まった。
---
しばらくの沈黙の後、ルーカス様はもう一度口を開かれた。
「……マルタは、戸を開けませんでした。——知っていて止まっている温度でした。知っていて戸を開けない温度でした。……知っていて止めない温度でした」
マルタのエプロンの裾の細い擦れの音が、五年分の廊下の角のいちばん遠い一筋のところから、今、辺境の板張りの小部屋の竃の端の椅子の私の耳のいちばん深い層のところに静かに届いた。届いた先で、マルタが退場の朝に門の下から二段目の影のところで小さな布の包みと「H」「M」「Y」の紙切れをルーカス様の手に預けた、あの半拍の間の伏せた瞼の端のひと粒の水分の温度が、もう一度重なった。
「……マルタに助けてもらったのですね」
「……はい。半月前から街道の方角と宿場町の屋号を聞き出していました。……『H』の右端が、他の二文字より半寸太い紙切れでした」
「……ヘルガさんのところの」
「……はい。……二日目のマティアスの額の熱に、冷たく絞った麻の布を置いてくださいました。エミリアの足の裏の血豆の紅の層に目の粗い布を二度三度巻いてくださいました」
「……そうでしたのね」
「——その先生は、よほどの方なんだろうね。……こんな小さな子が三日も歩くんだから——」
ヘルガさんの、街道の方の空を見上げたあの半寸低い声の遠い端の温度が、今夜、竃の赤い残り火のいちばん手前のところにもう一度届いた。届いた先で、ヘルガさんの十年前の一人息子のつむじの遠い温度が五歳の金髪のつむじのいちばん外側の一筋のところに一拍だけ触れた、あの朝の日に焼けた手の爪の薄い一段の温度が静かに重なった。
「……ヘルガさんにお会いしたいですわ。春になったら、一緒に」
「……はい、先生」
---
戸口の、板の縁のところで、小さな、軽い擦れの音が、した。
竃に薪を一本静かに足されたのは、レオンだった。亜麻色の乱れた短い髪の寝起きの一筋の跳ねの下で、深い緑の瞳は竃の赤い残り火のいちばん奥の一粒のところを一度静かに測った。声にはしなかった。けれどもレオンの右手は、戸口の板の縁では迷いの出る癖の三日分の半寸の寄りを今夜はもう残さなかった。薪の三本目の右側の縁のところまで、まっすぐに届いた。
届いた先で、深い緑の瞳は私とルーカス様の膝の真ん中の位置のところで半寸細まった。レオンは戸口の板の縁の方へ半歩戻られ、小部屋の戸を音を立てずにそっと閉めた。閉めた先の戸の板の裏のいちばん低い層のところで、レオンのひと呼吸の静かな迎えの温度が私の肩のいちばん高いところまで薄く届いた。
——迎える用意が、もう始まっている。
---
「……先生」
「はい、ルーカス様」
「……ぼくは、全部、覚えています」
十二歳の声のいちばん細い縁の層のところに、五年分の冬の夜の獣脂灯の橙の芯の光のいちばん細い層の温度と、棚の一段目の五冊の背表紙の五本の名前の凹凸の温度と、三日分の街道の乾いた土の粒の温度と、ヘルガさんの紙切れの「H」の半寸太かった一画の温度と、マルタのエプロンの裾の戸の敷居の半歩手前の止まった温度の五つの層が、一度に薄く重なった。
「——だから、もう、忘れません」
私は頷いた。頷いた先で、私の膝の横のところに置かれたルーカス様の右手の甲の湿った一筋のいちばん外側の縁の温度を自分の左の掌のいちばん薄い皮膚の一段の下のところで静かに受け取り直した。
「……ルーカス様」
「……はい」
「……忘れなくても、いいのです。けれども、この街道の三日分の重さは……もう、この子の十二歳の小さな肩の骨の薄い輪郭の上に、一人で積んでおかなくていいのですよ」
「……はい、先生」
「レオンがいます。マルタの紙切れも、もうこの小部屋の奥の引き出しにございます。……ヘルガさんの宿も、春になったら、一緒に」
「……はい」
「——これからは、ひとり分ずつ軽くしていきましょう。……五年分の手順を、この子たちの指と喉と掌に預けた、あの夜の静けさのいちばん奥の延長線のところで」
ルーカス様は、半寸浅く頷かれた。頷いた先で、十二歳の喉の下の深い層の三日分の街道のいちばん深い底の静かな筋肉の低い波の最後の一拍が音を立てずにひとつ均された。
---
寝台の方から、エミリア様の小さな寝返りの音がひとつ届いた。マティアス様の浅い、でも均等な寝息は板張りの壁のいちばん低い層のところで変わらずに続いていた。
ルーカス様は、椅子からゆっくりと立たれた。立った先で、私の膝の横に置いていた右手の湿った一筋を自分の外套の内側の胸のポケットの方へ半寸運ばれた。昨夜の毛布の下の「H」の紙切れの温度と今夜の私の一粒の湿りの温度が、十二歳の外套の内側のいちばん深いところで、静かに並んだ。
「……おやすみなさい、先生」
「……おやすみなさい、ルーカス様」
「先生。……先生も、もう、……泣いても、いいんですよ。……ぼくたちの、前で」
竃の赤い残り火のいちばん手前の薄い橙の一筋の温度のところで、十二歳の声のいちばん細い縁の層が、半寸湿った。
——五年分の鉄則の最後の半枚分の紙は、もう今夜要らなくなった。
私は、小さく頷いた。
「……はい、ルーカス様。……ありがとう、ございます」
ルーカス様は、半寸浅くうなずかれた。うなずいた先で、戸口の側の自分の寝場所の方へ静かに歩かれた。板張りの小部屋の木の床の薄い軋みの音の一筋が、マティアス様の浅い寝息の次の一拍の上にひっそりと添えられた。添えられた一筋は寝息を乱さなかった。乱さないまま、兄は毛布の縁を自分の首のうしろの方まで引き上げられた。引き上げた先で、三日分の街道のいちばん最後の一粒の重さが毛布の折り返しの厚さのところに静かに預けられた。
---
竃の赤い残り火のいちばん奥の一粒は、まだ薄い橙の層を保っていた。
私は、竃の端の椅子にもう少しだけ座り続けた。膝の上の両手の指の組みの内側の温度のいちばん深い層のところに、「——だから、僕たちは、歩いてきました」の一行のいちばん最後の静かな一拍の波の温度を、もう一度受け取り直した。
——子守では、ありませんでした。
前世の連絡帳の鉛筆の最初の一筆の薄い音の記憶のいちばん遠い延長線の上に、五年分の観察記録の五冊の静かな線が続いてきた。続いてきた線のいちばん最後の点の打たれなかった一行が、今夜、この子自身の口の言葉の形で確かに届けられた。
——育てて、いたのです。
声にはしなかった。けれども胸のいちばん下の層のところで、この一語は竃の赤い残り火のいちばん奥の一粒の温度と釣り合った。釣り合った先で、五年分の私の「見えない仕事」のいちばん遠い一筋が、今夜、辺境の板張りの小部屋の竃の端の椅子の私の膝の上のところで、ようやくひとつの静かな形に閉じた。
閉じた先で、胸のいちばん下の層のところに別の遠い朝のひと粒の予感が静かに昇った。明日の朝の薄い紅の層のいちばん最初の一粒の温度が、トビアス様とドロテア様とカタリナ様の遠い足音のいちばん外側の縁のところにもう半寸近づいていた。
私は、自分の膝の上の両手の指の組みの内側の温度を静かに深くした。深くした先で、竃の赤い残り火のいちばん奥の一粒はまだ朝までの薄い橙の一筋を保っていた。
---
【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第三十六話「だから僕たちは歩いてきました」は、第三アーク「結」の二話目、アーク全体のフィナーレです。
この話は、第三十三話・第三十四話の「後にルーカス様から聞いた話」の「いつ語られたか」を明かす一話でもありました。家出前夜のノート発見の夜も、三日間の街道の旅路も、フィオナがいちばん最初に耳で受け取ったのは——この夜の板張りの小部屋の竃の端の椅子の、ルーカス様の隣のところだったのです。回想再話の構造が、この夜、静かに閉じます。
「先生の記録に書いてありました。『この子たちは、もう、大丈夫。……』って。——だから、僕たちは、歩いてきました」——この一行は、本作のいちばん奥のところでずっと置き場所を待っていた一行でした。点を打たずに棚に戻した、誰にも読まれないまま閉じていいと覚悟した一行が、五年越しに、いちばん届いてほしかった子の口からフィオナのところに帰ってきました。
ルーカス様の「先生も、もう、泣いても、いいんですよ。ぼくたちの、前で」——この一言が、「泣かない」鉄則の五年分の最後の許しとして置かれました。タイトル「僕たちはフィオナ先生を選びます」の、「選ばれた」側の語りが、この三十六話でようやく完成します。
次話「せんせいのごはん」から、第四アーク「育てていたのです」が始まります。辺境での新しい朝、ルーカス様とトビアス様の出会いへと、物語は静かに動き始めます。引き続き、お付き合いいただけたら嬉しいです。
☆評価・ブクマ・感想をいただけると次話の励みになります!