よしこ、叱る
2026年2月22日
2026年2月22日
◆よしこ視点
ヴェルちゃんが息を切らして来た。
「魔王様。——大司教グレイヴスが門前に」
食堂が凍った。ガルくんが鍋を置いた。レオンくんが立ち上がった。シオンくんの灰色の目が——凍った。
「——わてが出る。一人で」
ヴェルちゃんの金色の目が細くなった。
「理由を、お聞かせ願えますか」
「あの人と話さなあかん。保育士として」
一拍。二拍。
「……かしこまりました。——ただし、門の内側に待機します」
レオンくんが言った。
「俺も——」
「レオンくん。ここにおり」
強い声が出た。自分でもびっくりするくらい。
「この話は、大人同士の話や。子どもが出る幕やないよ」
レオンくんが唇を噛んだ。でも——座った。
「……わかった」
エプロンを外した。いつもはつけたままやけど——今日は外す。
門に向かう廊下を歩いた。足音が石の床に響く。いつもより硬い。
「怒る」と「叱る」は違う。
怒るのは自分のためや。叱るのは相手のためや。
相手を見て、目を合わせて、「あんたは間違ってる」と言う。
怒りは爆発する。叱りは——届ける。
40年で何百回も叱ってきた。
でも今日、叱るのは子どもやない。同じ側の——大人や。
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◆グレイヴス視点
魔王城。
想像していたものと違った。禍々しい城壁を予想していた。瘴気に満ちた門を。
——門の脇にマリーゴールドが咲いている。洗濯物が干してある。
「……これが、魔王城か」
私は杖を持っていない。今日は置いてきた。
増援部隊の報告書。「魔王に食事を振る舞われた」。「兵士の一名が『シチューが美味しかった』と述べた」。
——馬鹿げている。しかし三十名が全員、同じことを報告している。
門が開いた。
一人の女が出てきた。
長身。漆黒の髪。深紅の目。魔王のローブ。
——しかし、歩き方が違う。戦いに来た歩き方ではない。何かに似ている。思い出せない。
「あんた、グレイヴスさんやな」
関西弁。魔王が——関西弁を。
「魔王ヴォルグラーナ。——私は聖教会大司教グレイヴスだ。貴様に——」
「グレイヴスさん。一つ聞いてええ?」
「あんた、朝ごはん食べた?」
護衛の四人が固まっている。私も——固まった。
「……何を言っている」
「見たらわかる。食べてへん。顔の色でわかるわ」
「戯言を——」
「戯言やない。それは置いとく。本題に入る」
女の深紅の目が変わった。温かさの奥に——覚悟が灯った。
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◆よしこ視点
この人の顔を見た。
58歳。鉄色の目。痩せた頬。
——ごはん食べてへん人の顔をしてる。ずっと。何十年も。
保育園にもおった。自分のごはん抜いてる保護者。あの人たちと——同じ顔をしてる。
でも今日は、それを言いに来たんやない。
「グレイヴスさん」
「……何だ」
「あんた——子どもを送り出したやろ」
鉄色の目が動いた。微かに。でも動いた。
「何を——」
「47人。全員帰ってこぉへんかった。知ってるんやろ」
グレイヴスの肩が——ほんの一瞬、強張った。
すぐに戻した。鎧や。この人の「鎧」。長い年月かけて作り上げた、表情を動かさないための鎧。
「……秩序のためだ。魔王を討伐することは——」
「秩序やない」
遮った。大司教の言葉を。
わては保育士や。保護者の言い訳を40年聞いてきた。全部——見抜いてきた。
「あんたがやってることは、秩序やない。子どもを使い捨ててるだけや」
「——っ」
グレイヴスの目が見開いた。一瞬だけ。すぐに鉄の目に戻した。でも——一瞬、見えた。
「……そのようなことは——」
「ある。あるやろ。予算ゼロ。帰還計画なし。最初から帰ってくることを想定してへん。リーゼちゃんが全部読んだ。数字は嘘つかへんよ」
グレイヴスが一歩、退いた。
退いたことに——本人は気づいていない。
「あんた、孤児院出身やろ」
鉄色の目が——揺れた。
今度は一瞬やない。長く揺れた。
「……なぜ、それを」
「わかるよ。保育園に40年おったら、わかる。温かいごはんの記憶がない人は、目の色が違うねん」
「あんたも勇者候補やったんやろ。選ばれへんかった。——送り出す側になった」
「……やめろ」
声が低い。震えていない。まだ震えていない。鎧が厚い。58年分の鎧は、簡単には崩れへん。
「やめへん」
一歩、近づいた。
「わてはな、保育士やねん。保育士は——子どもに関わる大人を、放っておかれへんねん」
グレイヴスの鉄色の目がわてを見た。その奥に——怯えがある。
「間違っていた」と認めたら、58年が崩れるから。
「あんたも子どもを守る側の人間やろ」
わての声。保育園の廊下に響く、あの声。
「なんで——なんで送り出すんよ」
体の奥から、何かが込み上げてきた。
怒りやない。怒りはもう過ぎた。あれは王都で終わった。
今のこれは——悲しみや。
47人の子ども。全員帰ってこぉへんかった。
この人が送り出した。この人の手で。
この人の——震えてた手で。
「帰ってくるの、待ってたんやろ」
グレイヴスの顔が——凍った。
鎧の下で、何かが軋んだ。音がした気がした。
「待ってへんかった言うなや。あんたの目、そんな目してへんわ」
「——黙れ」
「黙らへん。わてはな、あんたを怒りに来たんやない」
一歩。また一歩。
「叱りに来たんや」
——ぶわっ、と。
体から何か溢れた。
魔力。いつもの暴発。でも——いつもと違う。
怒りの暴発は熱い。心配の暴発は温かい。
今回の暴発は——重い。
地面が軋んだ。空気が震えた。護衛の四人が膝をついた。グレイヴスの白い大司教服が風に煽られた。
深紅の目が光っている。自分の目が光ってるのが、影でわかる。
でも——攻撃やない。
「この人の話を聞きなさい」。
40年間、教室で騒いでる子を一瞬で止めてきた——あの空気。それが魔力になっただけや。
「あんたは間違ってる」
声は静かだった。怒鳴ってへん。声を荒らげてへん。
ただ——届けてる。
「子どもを送り出して、帰ってこぉへんのを『秩序や』って言うのは——間違いや」
「……っ……」
「あんたは知ってるはずや。知ってるから——鎧着てるんやろ。認めたら壊れるから。認めたら、送り出した子らに顔向けできひんから」
グレイヴスの足が——震えた。
膝が。ほんの一瞬、折れかけた。でも——踏みとどまった。
「——私は……秩序を……」
声が途切れた。初めて。この人の声が途切れるのを見た。
「秩序やない。あんたはな——怖いんや」
「間違ってたって認めるのが怖いんや。あの子らに——ごめんって言わなあかんのが怖いんや」
「…………」
「わかるよ。わてもな、保育園で失敗したことある。子どもの変化に気づけへんかったことある。もっと早く声かけてたら、って思うことがいっぱいある」
卒園式の日に泣いてた子の顔が浮かんだ。「先生、もっと遊びたかった」って泣いた子。
「でもな。間違いに気づいたなら——そこからやり直せるんよ」
声が震えた。わての声が。
あかん。保育士が泣いたらあかん。でも——声だけは、届ける。
「あんたも、ごはん食べてなかったんやろ」
グレイヴスの目が——見開いた。大きく。鉄色の瞳孔が広がった。
鎧が——軋んだ。
58年間。冷たいパン。ぬるいスープ。窓のない食堂。——全部、この人の顔に書いてある。
「温かいもん、食べたことないんやろ」
「——やめ、ろ……」
声が、掠れた。
初めて——この人の声が掠れた。
「やめへん。わては保育士やから。子どもに関わる大人が——自分のこと後回しにしてるの、黙って見てられへんねん」
魔力がまだ溢れている。過去最大。地面にひび割れが走っている。
でも——誰も傷つけていない。圧だけ。
「グレイヴスさん」
名前を呼んだ。
「あんたは——悪い人やない」
グレイヴスの目が揺れた。大きく。鉄色が——水面のように揺れた。
「悪い人やないのに、悪いことをしてしまった。それは——つらいことやと思う」
「…………」
「でもな。つらいのを『秩序』って言葉で蓋したらあかんのよ。蓋したら——あんたも、あの子らも、ずっと苦しいままや」
魔力が静かになった。
ゆっくりと。波が引くように。
空気が戻った。護衛の四人が息をついた。
グレイヴスが——立っている。
膝は折れていない。倒れていない。まだ立っている。
でも——目が、違う。
鉄の目に——ひび割れがある。
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◆グレイヴス視点
立っていた。
足が震えている。膝が笑っている。58年間、一度も折れなかった膝が。
「あんたも、ごはん食べてなかったんやろ」。
なぜ——知っている。孤児院のことを。冷たいパンのことを。
会ったこともない。今日が初めてだ。それなのに——全部、見透かされた。
いや。この女は——「見た」のだ。顔を見て、わかったのだ。
40年。何千人の子どもの顔を見てきた人間が——私を見た。
子どもを見る目で——私を見た。
言葉が出ない。
「秩序のために」と言おうとした。言えなかった。
あの魔力の圧。聖魔法では防げなかった。だが——あれは攻撃ではなかった。
「聞きなさい」という力だった。教師の——力だった。
「——私は、」
声が出た。
自分の声だと気づくのに——時間がかかった。
「——私は、」
何を言おうとしている。
「間違っていない」と言うつもりだった。「秩序のためだ」と。「人類を守るためだ」と。
58年間言い続けてきた言葉を——今、もう一度。
言えなかった。
この女の目が——。
深紅の目が——こちらを見ている。
責めていない。怒っていない。
ただ——悲しんでいる。
私のために。
47人の子どものために。
そして——私が食べなかった温かいごはんのために。
悲しんでいる。
「……っ……」
目頭が——熱い。
泣かない。泣いてはいけない。58年間、一度も泣いたことがない。
泣かなかった。
だが——鎧に、ひびが入った。自分にしか聞こえない音がした。
「……撤退する」
声を絞り出した。震えていないはずだ。震えては——いなかったと思う。
「護衛。引け」
背を向けた。
背を向けることが——これほど難しいと思ったことはなかった。
一歩。足が重い。二歩。膝が笑う。三歩。
「グレイヴスさん」
背後から——声が聞こえた。あの女の声。関西弁の、温かい声。
「いつでも——ごはん食べにおいで」
足が止まった。
振り返らなかった。振り返ったら——何かが決壊する。
「…………」
歩いた。魔王城の門を出た。マリーゴールドの横を通った。花の匂いがした。
大聖堂には——花がない。
カインが言った「食卓」の意味が——今、少しだけわかった。わかりたくなかった。
護衛の四人が後ろを歩いている。誰も口を開かない。
空が赤い。あの女の目と同じ色だ。
「——私は、」
呟いた。誰にも聞こえない声で。
その先の言葉は——出なかった。
今は。
まだ——今は。
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【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第43話「よしこ、叱る」。この作品で、たった一度きりの「叱り」です。
「怒る」と「叱る」は違います。怒りは自分の感情の爆発です。叱りは相手のための行為です。相手を見て、目を合わせて、「あんたは間違ってる」と正面から言う。よしこは保育士歴40年。何百回と子どもを叱ってきたプロです。でも今日叱ったのは子どもではなく——同じ「子どもに関わる大人」でした。
よしこは(^^)を使いませんでした。この作品を43話書いてきて、よしこが笑わなかった話は初めてです。それだけこの場面は重い。よしこが笑顔を封印してまで、素のまま向き合った相手がグレイヴスです。
グレイヴスは泣きませんでした。58年分の鎧は、一度の叱りでは壊れません。でもひびは入りました。「——私は、」と言いかけて止まった。その先の言葉は、最終章まで温存します。
「あんたも、ごはん食べてなかったんやろ」。よしこのこの一言が、グレイヴスの全てを貫いた瞬間を書きたくて、この話を書きました。孤児院の冷たいパン。ぬるいスープ。温かい食事の記憶がない人。よしこはそれを顔を見ただけで見抜いた。40年の保育士が見る目は、どんな魔法よりも鋭い。
次回、第44話「卒園式の約束」。聖教会撤退。シオン・ミーナ・トールが魔王城に残る。そして——全員の食卓。この作品で一番大きなテーブルの、一番温かいごはんです。
ブックマーク・評価をいただけると、グレイヴスの鎧のひびから、ほんの少しだけ温かい風が入ります。感想もお待ちしています。