七号
2026年2月22日
2026年2月22日
◆ティア視点
朝。
いつもの朝。
廊下を歩く。バケツと雑巾を持って。左の角を曲がる。三つ目の柱を過ぎたら、窓を開ける。風を通す。
120年——同じことをしている。
この城の廊下は、全部で147本ある。どの窓が朝日に当たるか。どの石畳が欠けているか。どの扉が軋むか。全部知っている。
城の誰よりも——わたしが、この城を知っている。
でも。
この城の誰も——わたしを知らなかった。
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思い出す。時々、思い出してしまう。
先代魔王の時代。
侍女は——番号だった。
「七号。大広間の燭台を磨け」
「七号。廊下の泥を拭け」
「七号。客間の準備をせよ」
七号。わたしの呼び名。七番目に配属された侍女。
六号がいて、八号がいた。五号は辞めた。九号は逃げた。わたしは——残った。残ったから七号のまま。
先代魔王は——わたしたちを見なかった。
怒らなかった。褒めなかった。叱りもしなかった。
ただ——見なかった。
廊下を歩く時、侍女が目の前に立っていても、避けもしなかった。見えていないのだ。石畳と同じ。柱と同じ。城の一部。それがわたしたち。
ヴェルザ様は——命令をくれた。
「七号、あの部屋を掃除しろ」。命令は——ありがたかった。命令があるということは、存在を認識されているということだから。
名前を聞かれたことは——一度もない。
120年。
一度も。
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◆ティア視点(回想)
あの日。
先代が亡くなって、城が騒然としていた。魔力が消えた。玉座が光った。新しい魔王が——現れた。
わたしは廊下にいた。いつも通り。バケツと雑巾を持って。七号として。
混乱の中でも床は汚れる。誰かが拭かなくてはいけない。
廊下の向こうから——足音がした。
新しい魔王。長身。漆黒の髪。深紅の目。小さな角。
——威圧的な、美しい人。
わたしは壁に張り付いた。尻尾がピーンと立った。視線を下げた。
先代と同じだろう。通り過ぎるだろう。石畳と同じように——
「あら」
——止まった。
足音が、止まった。
「侍女さんおるやん」
「あんた、名前は?」
顔を上げた。
深紅の目が——わたしを見ていた。
見ていた。
120年——誰にも見られなかった場所から、わたしを引っ張り出すように。
「な、な、名前……」
声が震えた。尻尾が震えた。バケツの水が波打った。
名前。名前? わたしの名前。
——ある。名前はある。母がつけてくれた。120年前に。それ以来、一度も——
「テ、ティア……と、申します……」
声が、かすれた。自分の名前を口にしたのが——いつ以来か、わからなかった。
「ティアちゃん? ええ名前やん(^^)」
——笑った。
新しい魔王が——笑った。
威圧的な外見なのに、笑うと——おばちゃんの笑顔。
「ティアちゃん、よろしくな(^^) わて——えっと、魔王です(^^)」
わて?
魔王が「わて」?
混乱した。頭が真っ白になった。尻尾がパタパタ揺れた。止められない。止めたいのに——止まらない。
名前を呼ばれた。
120年で——初めて。
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◆ティア視点(回想・翌朝)
翌朝。
わたしはヴェルザ様に呼ばれた。
「七号——いや。ティア」
ヴェルザ様も——名前で呼んだ。初めて。
「魔王様の身の回りの世話を担当せよ。食事の準備、居室の清掃、衣服の管理——全て任せる」
「は、はい……!」
尻尾がピーンと立った。身の回りの世話。魔王の。わたしが。
——怖い。失敗したらどうしよう。先代は侍女を見なかったけれど、見られる方が怖い。見られたら——粗が見える。
でも。
命令だから。ヴェルザ様の命令だから。行かなくてはいけない。
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魔王様の——よしこ様の居室に行った。
朝食を運んだ。お盆に載せた。パンと、スープと、果物。
扉を叩いた。
「し、失礼いたします……朝食をお持ちしました……」
「おはよう、ティアちゃん(^^)」
——覚えていた。名前を。昨日一度聞いただけで。
「お、おはようございます……魔王様……」
お盆をテーブルに置いた。一礼して、下がろうとした。
侍女の仕事はここまで。食事を運び、下がり、食べ終わった頃に片付けに来る。先代の時代から、ずっとそう。
「ティアちゃん」
「は、はい……!」
「ティアちゃんのぶんは?」
——ぶん?
「え……」
「朝ごはん。ティアちゃんの朝ごはんのぶん」
「わ、わたしは……侍女ですので……後で、台所で……」
「何言うてんの(^^) 一緒に食べよ」
固まった。
体が——動かなかった。
一緒に食べる。
魔王と。侍女が。
——そんなことは、ない。120年、一度もない。侍女は台所の隅で、冷めた残り物を食べる。それが決まりで——
「ティアちゃん?」
「で、ですが……わたしは……」
「ええから座り(^^) パン、もう一個持ってきて。ティアちゃんのぶん」
「は……はぁ……」
足が動いた。台所に行った。パンをもう一個持ってきた。自分の分を。
——何をしているんだろう。侍女が魔王と同じテーブルで。
座った。
向かい合って。
パンが目の前にある。スープが湯気を立てている。
「いただきます(^^)」
よしこ様がパンをちぎった。スープに浸した。口に入れた。
「うん、美味しい(^^) ティアちゃんも食べ(^^)」
手が震えた。パンを持った。
かじった。
……温かい。焼きたてのパン。
いつもは冷めたパンを台所の隅で食べていた。焼きたてを食べたのは——いつ以来だろう。
「美味しい?」
「……お、美味しい、です……」
尻尾がパタパタ揺れた。止められなかった。恥ずかしかった。
「ティアちゃんの尻尾、正直やなぁ(^^)」
「も、申し訳ございません……! 尻尾が、勝手に……」
「謝ることちゃうやん(^^) 嬉しい時は嬉しいでええねん」
スープを一口飲んだ。ニンジンが入っている。甘い。
——温かい。体の中が、温かくなる。
向かい側で、よしこ様がにこにこしながらパンを食べている。
魔王が。
わたしと同じテーブルで。同じパンを食べている。
これは——何だろう。
朝食。ただの朝食。
でもわたしにとっては——初めての朝食。
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◆ティア視点(現在)
バケツを置いた。窓を開けた。朝の風が入ってくる。
中庭が見えた。よしこ様が洗濯物を干している。ヴェルザ様が手伝っている。
あの日から——毎朝、一緒に食べている。
最初は二人だけだった。やがてヴェルザ様が来た。ドルガ様が来た。レオン様たちが来た。食卓がどんどん大きくなった。
今は——13人分の椅子がある。
わたしの椅子も、ある。
「ティアー!」
廊下の向こうから声がした。ピプ様が飛んできた。
「ティアー、よしこがー、朝ごはんできたってー!」
「は、はい……! 今行きます……!」
バケツを片付けた。雑巾を絞った。手を洗った。
食堂に向かった。早足で。
——走ってはいけない。廊下は走らない。よしこ様がいつも言っている。
食堂の扉を開けた。
テーブルに——13人分の皿が並んでいる。湯気が立っている。焼きたてのパンの匂い。ガルド様が焼いたパン。
「おはよう、ティアちゃん(^^)」
「お、おはようございます……よしこ様」
自分の席に座った。よしこ様の隣の席。
いつの間にか——ここがわたしの席になっていた。
「ティアちゃん、今日のパン、ガルくんが新しいの焼いたらしいで(^^) チーズ入りやって」
「チーズ……!」
尻尾がパタパタ揺れた。
——また。恥ずかしい。でも——止まらない。
「いただきます(^^)」
よしこ様の声で、全員が手を合わせた。
「「「いただきます」」」
パンをかじった。チーズが溶けて、のびた。美味しい。
隣で、よしこ様が同じパンをかじっている。
「うん、ガルくん上達したなぁ(^^)」
レオン様がスープをおかわりしている。ガルド様が嬉しそうにパンを配っている。リーゼ様が黙って食べている。シオン様が姿勢よく座っている。ドルガ様が「フン。悪くない」と言いながら三個目のパンに手を伸ばしている。
——ああ。
わたしは、七号じゃない。
ティア。わたしの名前は——ティア。
「よしこ様」
「ん?」
「……あの」
「どしたん(^^)?」
言おうかどうか迷って——言った。
「わたし……名前で呼ばれたのは、よしこ様が初めてです」
よしこ様が——パンを持ったまま、こちらを見た。
「ほんま?」
「はい……先代魔王の時代は……侍女は番号でした。わたしは——七号、でした」
「七号」
「七番目の侍女……という意味です。名前は……聞かれたことが、ありませんでした」
よしこ様が——パンを置いた。
「120年?」
「……はい。120年間、七号でした」
食堂が——少し、静かになった。
ヴェルザ様が目を伏せた。知っていたはずだ。先代の時代を。侍女が番号だったことを。
「……ティアちゃんはティアちゃんやろ。番号ちゃうわ(^^)」
——よしこ様の声が、柔らかかった。怒っているのでも、同情しているのでもない。ただ——当たり前のことを言うように。
「ティアちゃんはティアちゃんや。ずっとそうやったし、これからもそうや(^^)」
尻尾がパタパタ揺れた。
パタパタ、パタパタ。
止まらない。止められない。
目が——熱くなった。
だめだ。食堂で泣いたら——みんなに見られる。侍女が泣くなんて——
「泣いてもええよ(^^)」
よしこ様が——わたしの頭に手を置いた。温かい手。大きな手。
「泣きたい時は泣いたらええねん。ティアちゃんは——ようがんばったな。120年も(^^)」
——崩れた。
涙が。止まらなくなった。
「う……ぅ……よ、よしこ様……っ」
両手で顔を覆った。涙が指の隙間から零れた。尻尾がパタパタ揺れたまま止まらない。嬉しいのか悲しいのかわからない。120年分の——何かが、溢れた。
「ティアちゃん。ええ名前やで(^^)」
よしこ様の手が、頭を撫でた。優しく。
120年——誰にも撫でてもらえなかった頭を。
パンが冷めた。スープが冷めた。
でも——よしこ様は急かさなかった。
みんな——待っていた。わたしが泣き止むまで。
「……も、申し訳ございません……朝食の途中に……」
「謝ることちゃうやん(^^) ほら、スープ温め直したるわ。ガルくん、パンもう一個焼いて(^^)」
「はいっ!」
ガルド様がすぐに立ち上がった。台所に走っていった。
——廊下は走らない。でも、よしこ様は何も言わなかった。
温め直したスープが来た。焼きたてのパンが来た。
涙で腫れた目で——食べた。
美味しかった。
120年で一番——美味しかった。
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【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第65話「七号」。Arc7「みんなの名前」の1話目です。
ティアの過去——先代魔王の時代、侍女には名前がありませんでした。「七号」。七番目に配属された侍女。それがティアの120年間の呼び名です。先代は侍女を「見なかった」。怒りもしない、褒めもしない。ただ存在を認識しない。石畳や柱と同じ。それがどれほど残酷なことか。
よしこが「名前は?」と聞いた。たったそれだけのことで、ティアの世界が変わりました。「一緒に食べよ」。それだけで、120年の孤独が溶け始めた。
よしこは特別なことを何もしていません。名前を聞いて、一緒にごはんを食べただけ。でも、それが誰にもしてもらえなかったことだった——というのが、この話の核です。
Arc7は「名前で呼ばれること=居場所があること」がテーマです。ティアの「七号」から始まり、シオンの一人称、聖剣に刻まれるレオンの名前——一人ひとりが「自分の名前」を取り戻していきます。
次回、第66話「ピプの空」。ピプがレオンたちを空に連れていきます。
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