リーゼの料理
2026年2月22日
2026年2月22日
◆リーゼ視点
早朝。まだ誰も起きていない。
厨房に入った。
かまどの前に立つ。火は落ちている。灰が白い。昨夜のうちにガルドが片付けた後だ。薪の匂いが微かに残っている。
——やると決めたのは、昨日の夜。
ベッドの中で、天井を見ながら考えていた。
明日——よしこに、料理を作ろう。
自分でも、馬鹿みたいだと思った。
私は料理をしたことがない。八歳で路上に放り出されてから、「食べる」こと自体をやめていた人間だ。
それが——料理を作る。
馬鹿みたい。
でも——やりたい。
---
火を起こす。
マッチを擦った。手が震えた。三回目で火がついた。
薪をかまどに入れる。小さな炎が赤く揺れた。
——ガルドに教わった手順を思い出す。
三日前。ガルドが厨房で野菜スープを仕込んでいた。私はたまたま通りかかった——と、自分では思っている。
本当は、匂いに誘われた。
ガルドの作るスープの匂いは「素直」だ。ごまかしがない。よしこの料理と似ている。
「あ、リーゼさん」
「……通りかかっただけ」
「えっと、今スープ作ってて……見ます?」
「……別に」
見た。
ガルドは嬉しそうに——本人は気づいていないだろうが、声が弾んでいた——工程を説明してくれた。
野菜の切り方。水の量。塩の加減。火の強さ。
「コツはね、弱火でじっくり煮ることなんです。野菜が柔らかくなるまで。焦らないで」
「……焦らない」
「はい。焦ると焦げます。……僕も最初、焦がしました。えへへ」
あの「えへへ」を聞いた時——私は。
自分でも作れるかもしれない、と。少しだけ思った。
---
鍋を出した。
棚から。重い。両手で持ち上げた。ガルドは片手で持っていたのに。
水を入れた。鍋に。量は——このくらいだったはず。
二人分。よしこと、私の分。
野菜を出す。
ニンジン。ジャガイモ。玉ねぎ。玉ねぎの皮が乾いてぱりぱり鳴った。
昨夜のうちに、食料庫からこっそり取っておいた。ティアに見つかったら「何にお使いですか」と聞かれる。説明する自信がなかった。
まな板の上にニンジンを置いた。
包丁を握った。
剣は持てる。杖も振れる。分析魔法の詠唱で指先がブレたことはない。
なのに——包丁を握ると、手が震える。
馬鹿みたい。
切った。
斜めに入った。ニンジンが転がった。もう一度。今度は厚く切りすぎた。三度目。薄すぎた。
四度目で——やっと、それなりの厚さになった。
ガルドは均一に切っていた。同じ厚さ、同じ大きさ。あの大きな手で、器用に。
私の切った野菜は——不揃いだ。大きいのと小さいのが混ざっている。
「……いい。味は同じ」
自分に言い聞かせた。
よしこの口癖が頭をよぎる。「不格好でもええんやで。味は一緒や(^^)」
——あれはパンの話だった。スープにも適用されるかどうかは知らない。
ジャガイモの皮を剥いた。
厚く剥きすぎた。可食部がずいぶん小さくなった。もったいない。
玉ねぎを切った。
涙が出た。
——料理で泣くとは思わなかった。玉ねぎのせいだ。それ以外の理由はない。
---
鍋に野菜を入れた。
水が跳ねた。熱い。
慌てて手を引いた。——ガルドは平気な顔で入れていたのに。あの子の手は、もう火に慣れているのだろう。厚い手。パンを焼く手。
塩を入れた。
どのくらいだったか——ひとつまみ。ガルドが「最初は控えめに」と言っていた。後から足せる。引くのは難しい。
料理の、最初のルール。
胡椒を少し。月桂樹の葉を一枚。
ガルドが「香りが変わるから」と教えてくれた。
蓋をした。弱火にした。
焦らない。野菜が柔らかくなるまで。
——待つ。
かまどの前に座った。鍋の蓋の隙間から、湯気が漏れている。ぐつぐつ、ことこと。水が沸く音。
静かだ。
早朝の厨房。誰もいない。湯気と、火の音だけ。
ここは——よしこの場所だ。
よしこが毎朝立つ場所。ガルドが毎日パンを焼く場所。ティアが皿を並べる場所。トールが三杯おかわりする場所。
私は——この場所で何もしたことがなかった。
食べるだけだった。出されたものを。作ってもらったものを。受け取るだけ。
——それが嫌だった、と。気づいたのは最近だ。
---
蓋を開けた。
湯気が顔にかかった。温かい。
ニンジンに竹串を刺した。ガルドが「すっと通ったら火が通った合図」と言っていた。
——すっと、通った。
味見をする。
スプーンで掬った。ふうふう、と息を吹きかけた。
口に入れた。
「…………」
——味がする。
ニンジンの甘さ。ジャガイモのほくほくした食感。玉ねぎのとろけた旨味。塩はちょうどいい。月桂樹の香りが——ほんのり。
美味しい。
「……美味しい」
声に出した。
厨房に、自分の声が響いた。
誰も聞いていない。
でも——自分の耳に届いた。
私が作ったスープ。
私の手で切った、不揃いな野菜のスープ。
美味しい。
あの日を思い出す。
よしこのお粥を食べた日。「美味しい」と言えなかった。言ったら——生きたいと認めることになるから。
言えなかった。長い時間がかかった。少しずつ食べられるようになって、少しずつ「美味しい」と思えるようになって。
今——自分で作ったスープに、自分で「美味しい」と言えた。
目の奥が、熱い。
玉ねぎのせいだ。
---
◆よしこ視点
朝。
目が覚めた。
いつもの時間。窓の外が白み始めとる。
——匂い。
厨房から、何か匂いがする。
スープの匂い。野菜と塩と、月桂樹。
ガルくんかな。今日は早いなぁ。
起き上がって、廊下に出た。
厨房の前で——足が止まった。
扉の隙間から、細い背中が見えた。
銀色のショートボブ。使い古しのローブ。小柄な——
「……リーゼちゃん?」
リーゼちゃんが——振り返った。
エプロンをしている。サイズが合ってへん。紐が長すぎて、二回巻いている。ガルくんのエプロンを借りたんやろか。大きすぎる。
手が——赤い。包丁を使った跡。慣れない手つきで野菜を切ったんやな。
かまどに火が入っている。鍋が乗っている。湯気が出ている。
「……おはよう」
リーゼちゃんが、いつもの無表情で言った。
でも——声が少し上擦っている。
「おは——」
待って。
この子。料理——しとるん?
「リーゼちゃん、あんた……」
「……スープ」
リーゼちゃんがまな板の上を見た。
ニンジンの皮。ジャガイモの皮。玉ねぎの端っこ。——散らかっとる。慣れてへん切り方の痕跡。皮が厚い。端が不揃い。
「作った。——スープを」
声が小さかった。
「……ガルドに教わった。野菜スープ。同じように……やった、つもり」
リーゼちゃんが——鍋の方を見た。
「具が不揃い。ニンジンが大きすぎるのと小さすぎるのがある。ジャガイモは皮を剥きすぎた。玉ねぎは——」
「リーゼちゃん」
「……たぶん、見た目はよくない。ガルドのようには——」
止めた。
この子、自分のスープの欠点を並べ始めとる。
いつもの癖や。分析して、客観的に。自分に点数をつけて。
「リーゼちゃん」
「……なに」
鍋の蓋を開けた。
湯気が立った。
中を見た。
——ニンジンが大きいのも小さいのも、ジャガイモもしっかり煮えとる。火の通りが均一やないかもしれん。けど、野菜の甘い匂いがしとる。塩加減は——嗅いだだけでわかる。ちょうどええ。
「あんた、味見した?」
「……した」
「どうやった?」
リーゼちゃんが——ほんの一瞬、口元が動いた。
「……美味しかった」
自分から——言うた。
「美味しい」って。
あの子が。
お粥を食べても「美味しい」と言えなかった、あの子が。
「美味しいって言ったら生きたいって認めることになる」って——目を伏せていた、あの子が。
自分で作った料理を、自分で「美味しい」と言えた。
——あかん。
泣きそうやけど、まだ泣いたらあかん。ここで泣いたらこの子が驚く。
「……そっか(^^) 美味しいんやな」
「……うん」
---
リーゼちゃんが器を出した。
棚から。二つ。
スープを注いだ。慎重に、こぼさないように。おたまの使い方がぎこちない。少しだけ器の縁に垂れた。
布で拭いた。丁寧に。
一つを——テーブルに置いた。
湯気が立っている。
ニンジンの橙色。ジャガイモの白。玉ねぎの透明な黄色。
不揃いな具。大きいのも小さいのも。同じ鍋で煮えた野菜。
綺麗ではない。
でも——温かい匂いがする。
リーゼちゃんが——テーブルの向こうに立っていた。
薄い青の瞳が、まっすぐこちらを見ている。
いつもの無表情。
でも——手が。膝の横で握られた手が、小さく震えている。
「…………」
口が開いた。
唇が動いた。
「……食べて」
——。
三文字。
食べない子だった。
食事を抜く癖がある子だった。
「食べなくても動ける」と言い続けた子だった。
八歳から、空腹を感じにくい体になった子。
食べることは生きたいということだと——知らなかった子。
「美味しい」と言えなかった子。
その子が。
自分で朝早く起きて。
ガルくんに教わった手順で。
震える手で野菜を切って。
一人で火を起こして。
鍋の前で座って待って。
味見をして、「美味しい」と自分で言えて。
器に注いで。
わての前に置いて。
——「食べて」。
スプーンを持った。
震えとった。——わての手が。
掬った。
口に入れた。
「…………」
——。
あったかい。
野菜の甘さ。塩がちょうどええ。ニンジンが大きいのは、噛み応えがある。小さいのは柔らかくて、口の中で溶ける。ジャガイモがほくほくしとる。玉ねぎがとろけて甘い。
月桂樹の香りが——ほんのり。
ガルくんのスープと同じ味。でも、ちょっとだけ違う。ガルくんのより塩が控えめで、野菜が大きくて、火の入り方がばらばらで。
不格好で。
世界で一番——
「…………」
目から——涙が出た。
止められへん。
「リーゼちゃん……」
声が震えた。
スプーンを持つ手が震えた。涙がスープの中に落ちた。
「これ——」
「…………」
「めちゃくちゃ美味しいわ……」
こぼれた。
涙が。声が。全部。
「リーゼちゃん、これ……うまいわ……あんた、こんな美味しいスープ……」
泣いとる。わてが。
保育士40年やってきて、子どもの前で泣くことなんかほとんどなかった。泣いたら子どもが不安になるから。いつも笑顔。いつも「大丈夫やで(^^)」。
でも——あかん。今日は無理。
「すごいな……リーゼちゃん……すごいなぁ……」
涙が止まらへん。
この子が——料理を作った。
食べへんかった子が。
食べることを避けていた子が。
「生きたい」と思うのが怖かった子が。
料理を作って。味見をして。「美味しい」と言って。
わてに——「食べて」と。
食べなさいって言ったのは、わてやった。
「ちゃんと食べなさい」って。あの日、お粥を出して。
その子が——わてに「食べて」と言ってくれた。
「……泣かないで」
リーゼちゃんの声が——震えていた。
「……泣かないで、よしこ」
名前で——呼んだ。
あの子が。「魔王」でも「あなた」でもなく。
「泣くのは——」
リーゼちゃんの薄い青の瞳に——光が溜まっていた。
溢れた。
頬を伝った。
「……泣くのは、わたしの——」
最後まで言えなかった。
リーゼちゃんが——両手で顔を覆った。
肩が震えていた。
泣いとる。
この子が。感情を出さないこの子が。泣かないこの子が。
立ち上がった。テーブルを回った。
リーゼちゃんの隣に座った。
肩に手を置いた。——細い肩。まだ痩せすぎ。もっと食べなあかん。
「リーゼちゃん」
「……っ」
「えらいな」
リーゼちゃんの肩が——大きく震えた。
「よう頑張ったな。えらいえらい」
「……やめて……泣くから……」
「泣いてええんやで(^^)」
リーゼちゃんが——顔を上げた。涙で目が赤い。前髪が濡れている。
「……美味しかった?」
「めちゃくちゃ美味しいわ(^^)」
「……本当に?」
「嘘なんかつかへんよ。保育士は嘘つかへんの」
リーゼちゃんが——口元を歪めた。泣きながら。笑おうとしている。
「……不格好なスープ」
「不格好でもええんやで。味は一緒——いや、味も最高やわ」
「……塩、控えめすぎない?」
「ちょうどええ。野菜の味がわかるから(^^)」
「……ニンジン大きすぎた」
「噛み応えがあってええやん」
「……」
「……」
「……おかわり、ある?」
——。
あの日と同じ言葉。
お粥を食べ終わった後。リーゼちゃんが初めて言った言葉。
「おかわり、ある?」
今度は——自分で作ったスープの、おかわり。
「あるで(^^) 鍋にいっぱいあるやん。あんたが作ったやつ」
リーゼちゃんが——立ち上がった。
鍋のところに行った。おたまを持った。自分の器に注いだ。
それから——わての器にも。
「……もう一杯」
「ありがとう(^^)」
二杯目のスープ。
同じ味。同じ温かさ。
二人で食べた。
早朝の厨房で。まだ誰も起きていない時間。湯気と涙の匂いの中で。
---
◆リーゼ視点
食べ終わった。
器が二つ。空っぽ。
よしこが——目を拭いていた。まだ少し赤い。この人がこんなに泣くのを、初めて見た。いつも笑っている人。いつも(^^)の人。
その人を——泣かせた。
私のスープで。
「……ごめん。泣かせた」
「何言うてんの(^^) 嬉し泣きやで。嬉し泣きはノーカウント」
「……そんなルールはない」
「あるの(^^) 保育士のルール」
「……」
嘘だ。そんなルール。
でも——まぁ、いい。
立ち上がった。器を二つ持った。
「洗うの、手伝おうか」
「……いい。私が洗う」
「ほんなら——」
「私が作った。だから、片付けも私がやる」
よしこが——また目を潤ませた。
「あかん。また泣きそうやわ」
「……泣かないで」
「泣いてへん泣いてへん(^^)」
泣いている。
器を洗った。水が冷たい。スープの油がなかなか落ちない。ガルドはこれを毎日やっているのか。大変だ。
鍋も洗った。重い。両手で持って、水をかけた。
まな板を拭いた。包丁を棚に戻した。
——厨房が、元に戻った。
足元に、ニンジンの皮が一切れ落ちていた。拾った。
よしこが隣に立っていた。
「リーゼちゃん」
「……なに」
「また作ってな」
「…………」
「今度はガルくんと一緒に作ったら(^^) あの子喜ぶで」
「……考えておく」
考えておく——は、私の「やる」だ。
よしこは、もう知っている。
「ほな、朝ごはんの準備しよか(^^) そろそろみんな起きてくるわ」
「……うん」
厨房の扉が開いた。
朝の光が差し込んだ。廊下が白い。
遠くで——足音がする。ガルドだ。あの重い足音。厨房に向かっている。毎朝一番にパンを焼きに来る。
「あ、リーゼさん! おはようございます! ……あれ、今日早いですね?」
「……早朝の散歩」
「へ? 厨房で散歩……?」
「……別に」
ガルドが首を傾げた。
よしこが笑っていた。
ガルドのエプロンを外して、元の場所に掛けた。
——黙って借りたのは、後で謝ろう。いや、聞かれなければ言わなくていい。
廊下に出た。
かまどの火はまだ赤い。私が起こした火。ガルドがこれからパンを焼くのに使うだろう。
——私の火が、ガルドのパンを焼く。
なんだか——変な気持ちだ。
食堂に向かった。
テーブルに——もうすぐみんなが座る。レオンが文句を言いながらパンを食べる。ドルガが黙ってスープを飲む。ピプが「おやつまだー?」と叫ぶ。ティアが皿を並べる。ヴェルザが溜息をつく。
いつもの朝。
でも今日は——いつもより少しだけ、この席に座る意味がわかる。
食べるだけじゃない。
作ることもできる。
「食べて」と、言うことができる。
窓の外。煙突から——白い煙が上がっていた。
私の起こした火から始まった、朝の煙。
---
【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第77話「リーゼの料理」。この話の核心は、たった三文字です。「食べて」。
第7話を覚えていますか。リーゼは食べない子でした。「食べなくても動ける」と言い続けた子でした。よしこはお粥を作り、「食べるのは、生きたいってことやで」と語りかけました。リーゼは「美味しい」と言えなかった。「美味しいって言ったら——生きたいって認めることになる」から。
70話が経ちました。
リーゼは自分で朝早く起きて、ガルドに教わった手順で、震える手で野菜を切って、一人でスープを作りました。味見をして、「美味しい」と自分で言えました。そしてよしこに「食べて」と差し出した。
「食べなさい」と言った人に、「食べて」と返した。
よしこが泣いたのは、スープが美味しかったからだけではありません。「この子が、ここまで来た」という70話分の道のりが、あの一杯に詰まっていたからです。よしこは普段泣きません。保育士は子どもの前で泣かない——それがプロです。でも今日は無理でした。
不揃いな具。大きすぎるニンジン。皮を剥きすぎたジャガイモ。でも味はちゃんとする。ガルドが教えてくれたから。「不格好でもええんやで」——よしこの言葉が、リーゼの手を通って、スープになって帰ってきた。
次回、第78話「パン屋とお弁当屋」。ガルドが夢を宣言します。
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