ヴェルちゃん
2026年2月22日
2026年2月22日
◆ヴェルザ視点
花が——咲いていた。
中庭の花壇。石の縁取り。ドルガが等間隔に並べた石の内側に、赤と白と青の花が——咲いている。
いつの間に。
昨日の朝はまだ蕾だった。固く閉じた、小さな蕾。色はわかっていたが、形はまだ見えなかった。
一晩で——開いた。
赤い花は手のひらほどの大きさで、花弁が五枚。白い花はそれより小さく、うつむくように咲いている。青い花が一番背が高く、風に揺れている。
どれも——この世界の花だ。名前は知っている。だが、城に咲いているのを見るのは初めてだ。
300年で——初めて。
---
◆ヴェルザ視点
先代は、この花を見たかったのだろう。
遺書に書いてあった。「城に花を植えたかった」と。
種を買いに行く場所がわからなかったから、やめた。「花がほしい」と——言えなかった。300年の魔王が、たった一言が言えなかった。
そして今——花が咲いている。
先代が植えたかった花が。先代が見たかった色が。灰色だった中庭に。
魔王様が種を選び、勇者が種を撒き、私が土を掘り、ドルガが石を並べた。
ティアが水を運び、ガルドがビスケットを出し、レオンが不器用な手で一粒ずつ撒いた。
先代にはいなかった人たちが、先代の願いを叶えた。
——300年遅れた。
だが魔王様は言った。「間に合うやろ(^^)」と。
間に合った。
花は咲いた。
---
じょうろを取りに行った。
厨房の裏にある。大きなじょうろ。ティアがいつも使っているものだ。
水を汲んだ。中庭に戻った。
花壇の前に——魔王様がいた。
「おはよう、ヴェルちゃん(^^)」
「……おはようございます。——ヴェルザです」
魔王様が中庭のベンチに座っている。黒と紫のローブ。朝の光を浴びて、深紅の瞳が柔らかく細められている。
「花、咲いたなぁ(^^)」
「はい。一晩で」
「ほんまに強い花やなぁ。ティアちゃんの言う通りや」
魔王様が花壇を見ている。目が優しい。この方の目だけは、いつも優しい。外見は歴代魔王の中でも随一の威圧感だが——目だけが、どうしようもなくおばちゃんなのだ。
「ヴェルちゃん、水やりするん?」
「はい。朝の水やりが——花の成長に」
「わても手伝う(^^)」
「……恐れながら、魔王様にじょうろを持たせるのは」
「持つわ(^^)」
魔王様がもう一つのじょうろを持ってきた。——いつの間に用意したのだろう。中庭の隅に置いてあった。水も入っている。
最初から二人で水やりをするつもりだったのか。
「ほな、いこか(^^)」
「…………」
二人で——花壇に水をやった。
---
◆よしこ視点
水が花びらの上を流れる。
赤い花がぷるんと揺れた。白い花がうつむいたまま、雫を一滴落とした。青い花は背が高いから、水をかけると全身で揺れる。
——きれいやなぁ。
花壇の向こう側で、ヴェルちゃんが水をやっている。銀白色のオールバック。軍服の袖を少しだけまくっている。じょうろの持ち方が——丁寧。水の勢いを抑えて、花に直接当てず、根元に注いでいる。
あの人、ほんまに丁寧やなぁ。何でも丁寧にやる人。300年、先代の部屋を守ってきた人。
「ヴェルちゃん、上手やね。水やり」
「……園芸の経験はございませんが、基本は灌漑と同じかと」
「灌漑て(^^) 花壇やで」
「規模が異なるだけでございます」
真面目な顔で言う。
この人の「冗談」は、本人が冗談のつもりがないところが一番おかしい。
水やりが終わった。
花壇が——みずみずしく光っている。朝日が水滴に当たって、小さな虹が花びらの上に浮いている。
「きれい……」
「はい」
「先代さんにも見せたかったなぁ」
「…………」
ヴェルちゃんが——少しだけ、目を伏せた。
300年の重み。わてには量れへんけど、この人の横顔を見たらわかる。今、あの人のことを思い出しとる。
---
◆ヴェルザ視点
魔王様がベンチに座った。
「お茶にしよ(^^)」と言った。
ベンチの脇に——盆が置いてあった。保温布で包まれている。いつの間に。
この方は、いつもこうだ。自然に準備されている。子どもを育ててきた者のカンか、世話焼きの習性か——とにかく、段取りが良い。
布を開くと——茶器が三つ。
温かい茶が入ったポット。カップが三つ。
三つ。
「二人なのに——三つ、ございますが」
「うん(^^) 先代の分」
「…………」
魔王様がカップにお茶を注いだ。一杯目。二杯目。三杯目。
一杯目を——私に差し出した。
「はい、ヴェルちゃん(^^)」
「……ヴェルザです」
「はいはい(^^)」
二杯目を自分で持った。
三杯目を——花壇の根元に、そっと置いた。土の上。花の根元。白い花のすぐ隣。
「先代。——花、咲いたで(^^)」
湯気が——花の間を漂った。
朝の風に流されて、花弁の上を滑るように消えていく。
「きれいに咲いたなぁ。赤と白と青。あんた、どの色が好きやったんかな」
——先代。
聞こえていますか。
お茶が花壇に染み込んでいく。土が温かい色に変わる。ゆっくりと。先代の分のお茶が、先代が植えたかった花の根に——届いている。
「まぁ、色の好みとか聞いたことないから、全色植えといたわ(^^) どれか当たるやろ」
「…………」
お茶を飲んだ。温かい。
先代の部屋で飲んだ茶と——同じ温かさだ。あの日も魔王様がお茶を淹れた。先代の茶器で。
だが——あの日はまだ花がなかった。
今日は花がある。先代が欲しかった花が。先代が言えなかった「花がほしい」を、この方が代わりに叶えた花が。
---
◆よしこ視点
お茶を飲んだ。
朝のお茶は格別やな。花壇の前で飲むと、花の匂いが混ざって、いつもより甘い気がする。
ヴェルちゃんが隣に座っとる。銀の角が朝日に光っとる。姿勢がいい。座っとる時でも背筋がまっすぐ。300年の軍人やからな。
「ヴェルちゃん」
「ヴェルザです」
——来た。いつものやつ。
79回目。いや、もう数えてへん。100回は超えとるんちゃうかな。
でもな。今日は——もう一回、呼ぶ。
「ヴェルちゃん」
「……魔王様。その呼び方は——」
「ヴェルちゃんはヴェルちゃんやろ(^^)」
「…………」
「300年の付き合いやで、もう(^^)」
「……私とお会いになってから、まだ一年も経っておりませんが」
「先代の分も入れたら300年やん(^^)」
「……そのような計算は」
「わてはな、ヴェルちゃんのこと——先代から引き継いだと思てへんのよ」
「…………」
「部下やから面倒見るとか、四天王やから使うとか、そういうんちゃうねん」
お茶を一口飲んだ。
花壇の花が揺れている。風が吹いた。
「ヴェルちゃんはヴェルちゃんや。先代の部下のヴェルザやなくて——わての、ヴェルちゃん」
「…………」
「300年ずっと一人で頑張ってきて、先代の部屋を一人で守って、先代の最後の言葉をずっと抱えて。——そういうヴェルちゃんを、わてが呼ぶ時は、ヴェルちゃんなんよ」
「…………」
「あかん?」
ヴェルちゃんが黙った。
いつもなら、すぐに「ヴェルザです」と返ってくる。0.5秒以内に。条件反射みたいに。
なのに——返ってこない。
花壇の花が揺れている。白い花が、風でふわりと揺れた。
五秒。十秒。
長い沈黙。
蝉の声もない。鳥の声だけが遠くで鳴っている。お茶の湯気が二つ、並んで立ち上っている。花壇の三杯目はもう湯気が消えている。土に染み込んで、先代のところまで届いたやろか。
「……はい」
——え。
「……はい」
ヴェルちゃんが——言った。
小さな声で。
軍人の硬質な声やなくて、もっと——柔らかい声で。
「ヴェルちゃん、で——かまいません」
わて——今、何を聞いた。
この人が。300年間「ヴェルザです」って訂正し続けてきた、この人が。
否定しなかった。
「はい」と答えた。
わての「ヴェルちゃん」を——受け入れた。
——あかん。
泣きそう。
泣きそうやけど、ここで泣いたらあかん。この人が驚く。300年泣かへんかった人の前で、わてが泣いたら、この人が困る。
あかんあかんあかん。
「…………(^^)」
笑った。笑顔で返した。保育士40年の笑顔。子どもの前では泣かへん笑顔。
「ほな、ヴェルちゃん(^^) 改めてよろしくな」
「…………」
---
◆ヴェルザ視点
——「はい」と。
答えてしまった。
300年。名前の呼ばれ方など気にしたことはなかった。先代は「ヴェルザ」と呼んだ。それ以外の名はない。
この方が「ヴェルちゃん」と呼び始めた時、最初は困惑した。次に訂正した。それから——数え切れないほど訂正した。
なのに今——
「はい」と、答えた。
なぜだろう。
花のせいだろうか。花壇の花が咲いたから。先代が見たかった花を、この方が咲かせたから。先代の分のお茶を、この方が当たり前のように注いだから。
あるいは——300年分の「ヴェルちゃん」が、ようやく、しみ込んだのかもしれない。
先代は「ヴェルザ」と呼んだ。それは名前だった。
この方は「ヴェルちゃん」と呼ぶ。これは——なんだ。
名前ではない。肩書きでもない。
四天王筆頭でも、忠臣でも、300年の軍人でもない呼び方。
ただの——ヴェルちゃん。
「改めてよろしくな」と——魔王様が言った。
花壇の前で。先代の分のお茶が染み込んだ土の上で。赤と白と青の花が揺れる朝に。
「……はい。——よろしくお願いいたします」
口が——動いた。
意識するより先に。軍人の口調で。だが——普段より少しだけ柔らかい声で。
魔王様が——こちらを見た。
目が赤い。少し潤んでいる。だが泣いてはいない。笑っている。「(^^)」の顔で。いつもの顔で。
この方の目が、いつも優しいことは知っている。
だが今日は——特に。
「ヴェルちゃん」
「……はい」
——また。
「はい」と答えた。
否定しなかった。
口元が——動いた。
自分でも気づかないうちに。
唇の端が、ほんの少し——上がった。
目尻に、細い線が入った。
笑っている——のだろうか。
わからない。自分の表情を確認する術がない。
先代は300年、笑わなかった。私も300年、笑わなかった。先代の最後の言葉は「お前を笑わせてやれなかった」だった。
だが——今。
口元が緩んでいる。
花が揺れている。風が吹いた。花弁が一枚、花壇の縁石の上に落ちた。赤い花弁。
お茶がまだ温かい。カップの底に少しだけ残っている。
笑っているのかもしれない。
300年で、初めて。
---
◆よしこ視点
——笑った。
この子が。ヴェルちゃんが。
ほんの少しだけ。口元がふわっと緩んで、目尻に皺が入って。
本人は気づいてへん。たぶん。自分が笑ってることに気づいてへん。300年笑ったことがないから、自分の笑顔を知らへんのや。
あの、先代が最後に言うた言葉。
「すまぬ、ヴェルザ。お前を笑わせてやれなかった」
笑ったで。先代さん。
あんたの四天王が、300年で初めて笑ったで。
花壇の前で。あんたが植えたかった花の前で。あんたの分のお茶の湯気の中で。
泣きそう。
泣きそうやけど、泣いたらあかん。
この人の笑顔を、わての涙で消したらあかん。
初めての笑顔なんや。この人の、生まれて初めての笑顔を——わてが、ちゃんと見届けなあかん。
「(^^)」
笑った。わても。
「ヴェルちゃん、お茶のおかわりいる?」
「……はい。いただきます」
ポットから注いだ。ヴェルちゃんのカップに。まだ温かい。
先代の分のカップは空っぽ。全部、花壇の土に染み込んだ。
——先代さん。見えてる?
あんたが笑わせてやれなかったこの人が、今、笑ってるよ。
小さい笑みやけど。ほんまに小さいけど。
でもな——めちゃくちゃええ笑顔やで。
あかん。
目ぇ、熱い。
涙が出そう。
でも出さへん。保育士は泣かへん。子どもの前では泣かへん。
——いや。
この人は300歳やから、子どもではないんやけど。
でもな。
わてにとっては——ヴェルちゃんや。
「ヴェルちゃん」
「……はい」
「ええ天気やな(^^)」
「……はい。——花が、綺麗でございますな」
ヴェルちゃんが花壇を見た。
口元が——まだ緩んでいる。
「先代も——喜んでおられるでしょう」
「うん(^^) 喜んでるわ。きっと」
お茶を飲んだ。二人で。
花壇の前で。先代の分のカップを間に挟んで。
風が吹いた。
赤い花と白い花と青い花が、一緒に揺れた。
先代が見たかった景色。先代が「ほしい」と言えなかった景色。
300年遅れたけど——間に合った。
花は咲いた。
お茶は温かい。
ヴェルちゃんは笑っている。
先代さん。
あんたの城は——もう、大丈夫やで(^^)
---
【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第79話「ヴェルちゃん」。
第19話を覚えていますか。先代の部屋で、埃の中で、よしこがお茶を淹れました。ヴェルザはあの時、「お茶で動かされます」と——300年で初めて冗談めいたことを言いました。口元がほんの少し緩みました。先代が最後に残した言葉は「すまぬ、ヴェルザ。お前を笑わせてやれなかった」。
60話が経ちました。
花壇の花が咲きました。先代が「城に花を植えたかった」と遺書に書いた花が。第60話で明かされ、第70話で種が撒かれ、第79話で——咲きました。三杯目のお茶は先代の分。土に染み込んで、花の根に届きます。
そして——ヴェルザが笑いました。
300年で初めて。「ヴェルちゃん」を否定せず、「はい」と答えた直後に。口元がふわっと緩んで、目尻に皺が入って。本人は気づいていません。笑ったことがないから、自分の笑顔を知らないのです。
よしこは泣きそうでした。でも泣きませんでした。保育士は子どもの前で泣かない。この人の初めての笑顔を、自分の涙で消すわけにはいかないから。
先代。あなたが笑わせてやれなかったこの人が、今日、花壇の前で笑いました。小さな笑みです。でも——確かに。
☆評価・ブクマ・感想をいただけると最終章の励みになります!