グレイヴスの涙
2026年2月22日
2026年2月22日
◆グレイヴス視点
門の前に立っている。
一晩中——立っている。
国王陛下が中に入った時、私は同行した。城門をくぐるところまでは行った。食堂の匂いがした。パンの匂い。シチューの匂い。笑い声がした。
足が——止まった。
それから動けないまま、夜が明けた。
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門は開いている。
魔王城の正門。黒い石造りの門柱。その間に——何の遮りもない。
鎖もない。結界もない。番兵が槍を構えているわけでもない。
開いている。ただ——開いている。
入れなかった。
昨日の和平の席で、国王陛下が魔王とスープを飲んでいた。笑い声が聞こえた。カインが「美味い」と言っていた。
私は——食堂の入口まで行って、引き返した。
誰にも止められなかった。誰も私を阻まなかった。
阻んだのは——私自身だった。
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◆グレイヴス視点
朝の光が門を照らしている。
城の中から声が聞こえる。遠い。食器の音。「おかわり!」という声。子どもの声だ。あの——四天王の子どもだろう。
朝食の時間らしい。
私は——朝食をとっていない。
昨夜もとっていない。
昨日の昼もとっていない。
——いつもと同じだ。
教会の大司教の食事は、パンと水と、薄いスープ。質素を旨とする。それが神に仕える者の正しい在り方だと——そう教えられた。
8歳で孤児院から教会に入り、50年。パンと水。たまに薄いスープ。それ以外の食事を——知らない。
知らなかった。
昨日、食堂の入口で嗅いだ匂いが——まだ鼻の奥に残っている。
シチューの匂い。肉と野菜が煮込まれた、濃い匂い。パンが焼ける香ばしい匂い。
50年間嗅いだことのない匂いだった。
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足が重い。
白と金の大司教服が——重い。50年着てきた服が、今朝は殊更に重い。
帰るべきだろう。
和平は成った。国王陛下は魔王と和約を結ばれた。私の役目は終わった。王都へ帰り、教会の務めに戻るべきだ。
なのに——足が動かない。
門の前に——立っている。
開いている門の前に、一人で。
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◆グレイヴス視点
足音が聞こえた。
門の奥に——影が見えた。
長身の女。黒と紫のローブ。漆黒の髪。深紅の瞳。小さな角が二本。
魔王。
魔王よしこ。
あの方が——門をくぐって、外に出てきた。
「あんた、まだおったんか」
声が——軽い。
驚きも怒りもない。散歩の途中で知り合いを見かけたような、そういう声。
「一晩中おったん? あかんやん、体冷えるで」
「…………」
「なにしとん、門の前で。——入り」
魔王が——手招いた。
「ごはんあるで(^^)」
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◆よしこ視点
おったわ。やっぱり。
昨日の夕方、ティアちゃんが言うてた。「門の外に——お一人、立っておられます」って。尻尾がぴーんとなっとった。心配しとったんやな。
カインくんに聞いたら、「大司教です。昨日から——動かないのです」と。渋い顔しとった。
夜中に一回、様子見に行った。
おった。門の前に。月明かりの中で、白と金の服が光っとった。
声はかけへんかった。まだ——その時やなかった。
朝になって、朝食の片付けが終わって。
みんなが食堂を出た後、一人で門に向かった。
——おった。まだおる。
一晩中や。
この人、58歳やで。わてと4つしか変わらへん。一晩中立ちっぱなしって、腰やられるで。
「入り(^^) ごはんあるで」
手を招いた。
グレイヴスさんが——動かない。
鉄色の目がこっちを見ている。冷徹な目——のはずやけど。今は違う。
何かを堪えとる目。
保育園で40年やってきたら——わかる。
この目を知ってる。
入園式の朝、園の門の前で動けなくなる子がおるねん。中に入りたいのに、入れない。怖いんやない。自分が「入っていい場所」なのか、わからへんのや。
この人も——同じ目をしとる。
「グレイヴスさん」
「…………」
「入り。冷えるから」
「……私は」
「シチューあんで。温かいやつ(^^)」
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◆グレイヴス視点
歩いていた。
気づいた時には——門をくぐっていた。
魔王が前を歩いている。背中を見て、足が勝手に動いた。
廊下。黒い石の壁。だが——花の匂いがする。中庭から風が入っているのだろう。花の匂いと、パンの残り香。
食堂の扉が見えた。
魔王が扉を開けた。中を見た。
——人がいる。
長テーブルに、まだ何人か残っている。
朝食の片付けが途中なのか。皿を持った魔族の女——侍女。尻尾がある。こちらを見て、目を丸くした。
大柄な少年が二人、テーブルを拭いている。茶色い髪のほうが——こちらを見た。
銀髪の少女がカップを持ったまま、固まった。
奥から——赤茶の髪の少年が出てきた。
レオン。
先代勇者——いや。もうその呼び方は正確ではない。
レオンが——私を見た。
緑の目が、鋭くなった。一瞬。だが——すぐに、表情を変えた。何かを抑えるように。
隣に——黒い短髪の少年。灰色の目。
シオン。
シオンが——私を見ている。
かつて「完璧な勇者」に育てた少年。感情を殺す訓練を施した少年。今、その少年は——拳を握っている。
金髪の少女。ミーナ。笑顔を教え込んだ少女。今、その少女は——笑っていない。泣いてもいない。ただ、まっすぐ見ている。
全員が——私を見ている。
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◆よしこ視点
食堂の空気が——変わった。
グレイヴスさんが入ってきた瞬間に。
ティアちゃんが皿を持ったまま固まっとる。ガルくんとトールくんが手を止めた。リーゼちゃんのカップが止まった。
レオンくんが——奥から出てきた。目が鋭い。あの子、グレイヴスさんのこと、許してへん。許す必要もない。ただ——。
シオンくんが拳を握っとる。この子にとってグレイヴスさんは——「自分を作った人」や。複雑やろう。ミーナちゃんはまっすぐ見とる。泣いてへん。もう、泣けるようになったこの子は——泣かへんことも選べるようになった。
メルちゃんは奥の席で茶を飲んどる。紫の目が細くなった。観察しとるな。
ドルガは腕を組んどる。「フン」とか言いそうな顔。
ヴェルちゃんが——立ち上がった。金色の目がグレイヴスさんを見ている。300年の軍人が、聖教会の頂点を。
「——魔王様」
ヴェルちゃんが、わてを見た。判断を委ねとる。
「座って(^^) お客さんやで」
そう言った。
ヴェルちゃんが——頷いた。座った。それだけで食堂の空気が少し緩んだ。ヴェルちゃんが座ったなら、大丈夫ということや。
「グレイヴスさん、そこ座り(^^)」
テーブルの端を指した。ドルガの向かい。カインくんの隣。
グレイヴスさんが——動かない。
「座り(^^)」
「……失礼、します」
座った。
白と金の大司教服が——椅子の上で、少し小さく見えた。
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◆グレイヴス視点
椅子に座った。
木の椅子。使い込まれた、温かみのある色。座面が少し凹んでいる。誰かがずっとここに座っていた証。
テーブルの上は——朝食の後片付けの途中。パンくずが残っている。コップに水滴がついている。生活の痕跡。
周囲の視線が——重い。
だが、誰も何も言わない。
あの魔王が——厨房に消えた。
戻ってきた。手に——器を一つ。
テーブルの上に——置かれた。
私の前に。
シチュー。
湯気が立っている。ニンジン、ジャガイモ、玉ねぎ、鶏肉。大きめに切られた具が、茶色いスープの中に沈んでいる。不格好な切り方。だが——匂いが。
この匂いだ。
昨日、食堂の入口で嗅いだ匂い。
50年間知らなかった匂い。
「ほい(^^) あっついから気ぃつけてな」
スプーンが添えられた。木のスプーン。使い古されている。
「…………」
手が——動かない。
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器の前で、止まっている。
シチューの湯気が——顔に当たる。温かい。
50年前の記憶が——よぎった。
孤児院。冬の朝。薄い壁。寒かった。朝食は——パンの耳。水。
隣に座っていた子どもは——翌年、「勇者候補」に選ばれた。
私は——選ばれなかった。
その子は——帰ってこなかった。
私は教会に入った。訓練を受けた。勉強した。上り詰めた。大司教になった。
そして——子どもを送り出す側になった。
「……私は」
声が出た。自分の声だとわからなかった。
「私は——子どもたちを送り出した」
シチューの湯気が揺れている。
「何人も。何十人も」
手がテーブルの上で——震えている。
「帰ってきた者は——」
声が途切れた。
47人。記録では47人。聖歴381年から427年。46年間で47名。全員が孤児。最年少13歳。最年長17歳。
帰還者——ゼロ。
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◆よしこ視点
グレイヴスさんの手が震えとる。
大きな手。骨張った手。杖を握り続けてきた手。子どもたちに「行け」と命じてきた手。
今、その手が——シチューの前で震えとる。
「帰ってきた者は——」
声が詰まった。
鉄色の目が——揺れとる。
——知ってる。
わては、知っとる。
47人。全員が孤児。帰還者ゼロ。カインくんの報告書で読んだ。レオンくんが拳を震わせながら教えてくれた。
でもな。
今、見とるのは——数字やない。
この人の目や。
この人の手や。
一晩中、門の前に立っていたこの人の——足や。
「知ってる」
言った。
グレイヴスさんの肩が——びくっと動いた。
「知ってるよ。——全部」
「…………」
「あんたが何人送り出したかも。帰ってこなかったことも」
シチューの湯気が二人の間を漂っている。
「——あんたも、ごはん食べてなかったんやろ」
---
◆グレイヴス視点
——何を。
何を言われた。
「知ってる」と——そう言った。
47人を送り出したことを。帰還者がゼロであることを。
叱責が来ると思った。
「よう子どもをそんな目に遭わせたな」と。
当然だ。それが正しい。
だが——違った。
「あんたも、ごはん食べてなかったんやろ」
なぜ——。
なぜ、そこに気づくのだ。
私は大司教である。子どもを送り出した側の人間である。加害者なのだ。
なのに、なぜ——「あんたも」と言う。
「あんたも」。
——も。
子どもたちと同じ「も」なのか。
子どもたちが食べていなかったように、私も——と。
パンと水と薄いスープ。50年間。それが正しいと信じた。質素は美徳だと。
孤児院では——パンの耳と水。それが全てだった。
温かい食事の記憶がない。
一度も——ない。
「…………」
手が——震えている。止まらない。
スプーンを取ろうとした。持てなかった。指が——言うことを聞かない。
「……私も」
声が——出た。壊れかけた声が。
「……私も……食べて、いいのか」
---
◆よしこ視点
——来た。
この言葉が来た。
「私も、食べていいのか」って。
58歳の大人が。白と金の大司教服を着た、教会のてっぺんにおる人が。
シチュー一杯を前にして——「食べていいのか」って聞いとる。
入園式の朝、園の門の前で動けへんかった子と同じ目や。
「ここにいていいの?」って聞いてくる子と、同じ目。
保育士40年。何百回聞いてきた言葉や。
「食べていい?」「遊んでいい?」「ここにいていい?」
答えはいつも同じ。
「当たり前やろ」
グレイヴスさんの鉄色の目が——見開かれた。
「あんたも、しんどかったんやな」
「…………」
「誰も帰ってこんかったんやもんな。送り出して、送り出して。——しんどかったやろ」
「——私、は」
「ごはん食べ(^^)」
シチューの器をそっと押した。グレイヴスさんの手の前に。
「泣いてもええから(^^)」
---
◆グレイヴス視点
崩壊した。
58年間。
積み上げてきた。一つ一つ、石を積むように。「これが正しい」と。「秩序が世界を守る」と。「犠牲は必要だ」と。
石を積んだ。自分の心を壁の中に閉じ込めるように。
孤児院の記憶を。パンの耳の味を。隣の子が帰ってこなかったことを。自分が選ばれなかったことを。
全部、壁の内側に。
「私は間違っていない」。
そう言い続けた。58年間。
だが——。
「あんたも、しんどかったんやな」。
その一言で——壁が。
石が。
58年分の「正しさ」が。
崩れた。
「…………っ」
涙が——出た。
止められなかった。
大司教の目から涙が落ちた。テーブルの上に。シチューの器の横に。木の板の上に——一滴、二滴。
声が出ない。声にならない。
口が開いているのに、言葉にならない。
肩が震えている。
白と金の大司教服の肩が——揺れている。
---
食堂が——静かだ。
誰も声を出さない。
スプーンの音もしない。椅子を引く音もしない。
レオンが——見ている。緑の目。怒りがある。だが——それだけではない。あの少年の目に、何かが混ざっている。
シオンが——見ている。灰色の目が揺れている。拳が——少しだけ、緩んでいた。
ミーナが——見ている。水色の目が。泣いていない。ただ——見ている。
涙が止まらない。
テーブルの上に落ちる。ぽたり、ぽたり。木の板に染み込んでいく。
58年分の涙が——止まらない。
---
◆グレイヴス視点
スプーンを——取った。
手が震えている。木のスプーンが指の中で揺れている。
シチューをすくった。ニンジンが半分と、スープ。
口に——運んだ。
「…………」
温かい。
舌の上に——温かさが広がった。
ニンジンが柔らかい。噛まなくても崩れるほど、煮込まれている。スープが——濃い。旨味がある。パンと水だけの50年間には存在しなかった味。
もう一口。
ジャガイモ。ほくほくしている。——こんな食感を知らなかった。
鶏肉。柔らかい。歯を立てると、肉汁がじわりと出る。
涙が——止まらないまま、食べている。
スプーンが震えたまま、口に運んでいる。
「……温かい」
それしか言えなかった。
「……温かい」
繰り返した。
他の言葉が見つからなかった。58歳の大司教が。あらゆる教義を暗唱できる舌が。荘厳な説教で信者を導いてきた声が。
「温かい」しか——言えない。
---
◆よしこ視点
グレイヴスさんが——食べとる。
泣きながら。震えながら。
「温かい」しか言えんくて。
——ええよ。
それでええ。
シチューは特別なもんやない。いつものやつ。ニンジンとジャガイモと玉ねぎと鶏肉。大きく切って、じっくり煮込んだだけ。毎日みんなに出してるのと同じやつ。
特別やない。
でもな——この人にとっては、特別なんや。
50年間、パンと水しか知らんかった人に、シチュー一杯が。
それが——「特別」になる。
レオンくんが来た日もそうやった。リーゼちゃんが初めておかわりした日もそうやった。シオンくんが「もう一杯」って言った日もそうやった。
全部——同じシチューや。
でも、全部——特別やった。
グレイヴスさんの肩が揺れとる。涙がテーブルに落ちとる。スプーンが震えとる。
でも——食べとる。
「…………」
食堂を見渡した。
レオンくんが——腕を組んで黙っとる。怒りはある。簡単に許せることやない。でも——目を逸らしてへん。
シオンくんの拳が——開いた。
ミーナちゃんが——目を閉じた。静かに。祈るみたいに。
ガルくんが——泣いとる。声を出さずに。大きな肩が揺れとる。この子、誰かが泣いとるともらい泣きするんよな。
トールくんも目が赤い。ガルくんの隣で。
リーゼちゃんがカップを握っとる。指が白い。何か堪えとるんやろ。
ヴェルちゃんは微動だにせえへん。でも——目を閉じとる。
ドルガが「フン」と息を吐いた。でも——視線を外してへん。
メルちゃんが——茶を飲んどる。何もかも見てるな、この子は。
ティアちゃんが——皿を抱えたまま立っとる。尻尾がぴんと立っとる。
ピプが——よしこの後ろに隠れとる。小さい手がわてのローブを掴んどる。
カインくんが——隣で、背筋を伸ばしとる。この人は——グレイヴスさんのこと、一番近くで見てきたんやろな。
みんなが——見とる。
グレイヴスさんが泣いとるのを。食べとるのを。
「…………」
——ええ景色やな。
いや、ええ景色ではないかもしれん。
泣いてる人がおって、怒ってる子がおって、複雑な顔しとる子がおって。
でもな。
全員——ここにおる。
同じ食堂で。同じテーブルの周りに。
それでええんや。
---
◆グレイヴス視点
器が——空になった。
いつの間に。シチューが。全部。
スプーンで器の底をこすっている。もう何もないのに。
涙はまだ止まらない。
「……ごちそう、さまで……」
声が——途切れた。
「ございました」が言えなかった。喉が詰まって。
顔を上げられない。テーブルの上を見ている。涙の跡がいくつもある。木の板に染み込んでいる。
「おかわり、いる?」
魔王の声が聞こえた。穏やかな声。
「…………」
「あるで(^^) 鍋にまだ残っとるから」
「…………」
頷いた。
言葉が出なかったから——ただ、頭を動かした。
器が引き取られた。すぐに——温かいシチューが注がれた器が戻ってきた。湯気が立ち上った。
二杯目。
スプーンを取った。手は——まだ震えている。だが——さっきより少しだけ、安定していた。
「…………」
食べた。
泣きながら。
温かかった。
---
◆よしこ視点
グレイヴスさんが二杯目を食べとる。
泣きながら。
でも——さっきより、少しだけ背筋が伸びとる。
わてはこの人のこと、許すとか許さへんとか——そういうんやないんよ。
この人がやったことは、あかんことやった。子どもを使い捨てにしたんは、絶対にあかん。
でもな。
この人も——食べてなかったんや。
パンと水だけで50年。孤児院でパンの耳を食べて育った子どもが、大人になって、大司教になって、それでもまだ——パンと水しか知らんかった。
温かいシチューを一杯も飲んだことがない58歳って——それはもう、「大人」やない。
わての目には——この人も。
まだ、園の門の前で立っとる子に見えるんよ。
8歳の男の子が、教会の門の前で。「入っていいの?」って顔で。
58歳になっても——ずっと、門の前におったんやな。
入れへんまま。温かいもの食べへんまま。
「(^^)」
笑った。いつもの笑顔で。
レオンくんが来た日も。リーゼちゃんが来た日も。シオンくんが来た日も。
やることは——同じ。
ごはんを出す。
「食べ」って言う。
「泣いてもええ」って言う。
それだけ。
魔王でも保育士でも——やることは同じや。
---
◆グレイヴス視点
二杯目を食べ終えた。
涙は——まだ出ている。だが、もう嗚咽はない。静かに、頬を伝って落ちている。
顔を上げた。
食堂を——見た。
レオンが——視線を合わせた。緑の目。怒りが——ある。消えてはいない。だが。
「……フン」
レオンが——目を逸らした。
それだけだった。許したわけではない。許す必要もない。だが——「同じ食堂にいること」を、拒否しなかった。
シオンが——私を見ている。
「…………」
灰色の目。かつて私が「完璧」に磨き上げた目。今は——違う。
あの目に、色がある。怒り。悲しみ。そして——何か別のもの。名前のつけられない何か。
シオンが——口を開いた。
「……大司教」
「…………」
「……俺は。——自分で、選びました」
一人称が——変わっていた。「自分」ではなく。
「…………」
言葉が出なかった。
「すまなかった」では足りない。「許してくれ」とは言えない。
何も——言えなかった。
ただ——頭を下げた。深く。テーブルに額がつくほど。
「…………」
食堂が——静かだった。
---
◆よしこ視点
グレイヴスさんが頭を下げとる。
シオンくんが、それを見とる。
シオンくんの横で——ミーナちゃんが、小さく頷いた。
トールくんが——目を赤くしたまま、まっすぐ前を見とった。
子どもたちは——強いなぁ。
簡単には許せへん。許さんでもええ。でも——「同じ場所にいる」ことを選んだ。
それだけで、十分や。
「グレイヴスさん」
頭を下げたままの背中に声をかけた。
「頭、上げ(^^)」
「…………」
「シチュー冷めるで。——まだ鍋にあるから。三杯目、いる?」
「…………」
グレイヴスさんが——頭を上げた。
鉄色の目が——赤かった。腫れとった。白と金の大司教服の襟が涙で濡れとる。
58歳の顔が——今は、ずっと年上にも、ずっと年下にも見えた。
「……いただき、ます」
小さい声で言った。
「はい(^^)」
三杯目を注いだ。
シチュー。いつもの味。特別やないシチュー。
でも——温かい。
それでええ。
---
【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第82話「グレイヴスの涙」。作品全体で最も書きたかったシーンの一つです。
グレイヴスは58歳です。大司教です。教会のてっぺんにいる人です。子どもたちを「勇者」として送り出し、一人も帰ってこなかった——その張本人です。
でも、よしこの目に映ったのは「大司教」ではありませんでした。
よしこは叱る前に「しんどかったんやな」と言いました。
許す/許さないの前に、「あんたもごはん食べてなかった」と見抜きました。これは保育士の技術です。40年間、子どもを見てきた人の目です。食べていない人がわかる。門の前で動けなくなっている人がわかる。入園式の朝、園の門の前で立ち尽くしている子どもと同じ目をしていることが——わかる。
グレイヴスも孤児でした。パンの耳と水で育ち、教会で「質素は美徳」と教えられ、50年間パンと水で生きてきた人です。温かいシチューを一杯も飲んだことがなかった。
シチューは特別なものではありません。いつもの味です。レオンに出したのも、リーゼに出したのも、シオンに出したのも、同じシチューです。「いつもの」が「特別」になる——それが、この物語のすべてだと思います。
そしてレオンは許していません。許す必要はありません。「同じ食堂にいることを拒否しなかった」——それだけで十分です。シオンの一人称が「俺」に変わっていたこと、気づいていただけましたか。
次回、第83話「卒園式」。この作品最大の泣き回です。
☆評価・ブクマ・感想をいただけると最終章の励みになります!