ミーナが泣く日
2026年2月22日
2026年2月22日
◆ミーナ視点
何でもない午後だった。
窓から風が入ってくる。本のページがぱらり、とめくれる。リーゼ殿の部屋。いつもの椅子。いつもの場所。
テーブルの上に——お茶が二杯。
今日はよしこ様が「はい、おやつ(^^)」と蜂蜜のビスケットを持ってきてくれた。小さな皿に四枚。二人分。
「ごゆっくり(^^)」
よしこ様はそれだけ言って、部屋を出ていった。
扉が閉まる。足音が廊下を遠ざかる。
静かになった。
「…………」
「…………」
いつもの沈黙。
わたしとリーゼ殿の、何でもない時間。教会では許されなかった沈黙。ここでは怒られない沈黙。
お茶を飲んだ。ぬるくなる前の、ちょうどいい温度。
リーゼ殿がビスケットを一枚取った。小さく噛んだ。
「……蜂蜜、多い」
「よしこ様、甘いのがお好きですから」
「……甘すぎる。——でも、美味しい」
リーゼ殿は矛盾したことを平気で言う。
わたしもビスケットを取った。一口齧った。
甘い。蜂蜜の味が口の中に広がる。教会では——甘いものは、なかった。食事は栄養のためにある。味は二の次だと教わった。
もう一口齧った。——美味しい。
---
風が吹いた。
本のページがまためくれた。リーゼ殿が指で押さえた。
「……ミーナ」
「はい」
「……今日、静かだね」
いつも静かだ。——でも、そうじゃない。リーゼ殿が言っているのは、たぶん、わたしの中のことだ。
いつもなら「お手伝いできることはありますか」とか「今日のお食事は何でしょうね」とか、何か言う。言わないと落ち着かないから。言わないと——怒られる気がするから。
でも今日は——言葉が出てこなかった。
「……少し、考え事を」
「……そう」
リーゼ殿はそれ以上聞かない。
お茶を飲んだ。カップを置いた。静かに待っている。
——待って、くれている。
「…………」
窓の外を見た。中庭が見える。よしこ様が数日前に作り始めた花壇がある。まだ土だけだ。何も咲いていない。
わたしの中にも——何も咲いていない。ずっと。
「……リーゼ殿」
声が出た。自分でも驚いた。
「わたし——教会の話を、してもいいですか」
リーゼ殿が——わたしを見た。薄い青の目が、まっすぐこちらを向いている。
「……うん」
短い。いつも通り。
でも——その一言が、蓋を開けた。
---
笑っていた。
わたしは——笑いながら、話していた。いつもの微笑み。教会で教わった「正しい表情」。
「6歳の時に、引き取られました」
声は穏やかだ。よく通る声だ。報告するように。
「孤児院にいたんです。父も母も知りません。教会の方が来て、『回復魔法の才能がある』と。それで——引き取られました」
リーゼ殿がお茶のカップを両手で包んでいる。黙って聞いている。
「毎日、訓練しました。回復魔法の訓練。朝から晩まで。傷を治す。病を治す。疲労を回復する。——それがわたしの仕事でした」
笑っている。わたしは笑っている。正しい表情だ。
「それから——表情の訓練もありました」
リーゼ殿の指が——カップの縁で止まった。
「笑顔でいなさい、と教わりました。支援役は常に穏やかであれ。勇者殿が不安にならないように。隊のために——笑いなさいと」
「…………」
「泣いてはいけない。怒ってはいけない。悲しんではいけない。それは——任務に支障が出るから」
笑っている。ちゃんと笑えている。——大丈夫。
「泣いたら——怒られました。『なぜ泣くのか。泣いて何になる。泣く暇があるなら訓練しなさい』と」
リーゼ殿が——動かない。
「最初の頃は、夜に泣きました。布団の中で。声を殺して。でも——見つかると怒られるので。だんだん泣かなくなりました」
声が——穏やかだ。報告だ。事実の報告。
「8歳の頃には——もう泣かなくなっていました。泣き方を——忘れた、のかもしれません」
笑っている。
「10歳の時に、同期の子が一人——任務中に亡くなりました」
リーゼ殿の息が——一瞬、止まった気がした。
「悲しかった——と思います。たぶん。でも、顔は笑っていました。教官に『よく耐えたな、ミーナは強い子だ』と言われました。褒められました」
笑っている。正しい。褒められた。強い子だ。
「それから——もっと笑うようになりました。笑っていれば褒められるので。笑っていれば怒られないので。笑っていれば——捨てられないので」
お茶のカップを持った。
——手が、震えていた。
「シオン隊長が来た時も——笑いました。『よろしくお願いいたします』と。シオン隊長は何も言いませんでした。わたしの笑顔を——疑いもしませんでした。完璧だったから」
カップが揺れている。中のお茶が——波打っている。
「ここに来てから——よしこ様に『大丈夫? 無理してへん?』と聞かれた時——」
声が、
「——おかしいって、思ったんです。なんで。なんで初めて会った人に——そんなこと聞かれるんだろう、って」
少し、
「教会で8年間——誰も聞いてくれなかった言葉を——」
震えている。
「よしこ様が——初日に——」
カップが——傾いた。
お茶がこぼれた。テーブルの上に、温かいお茶が広がった。
「あ——すみません、すみません——」
慌てて拭こうとした。手が震えている。うまく拭けない。教会だったら——こぼすなんて失格だ。罰が——
「…………」
リーゼ殿が——立ち上がった。
黙って。
テーブルの上のお茶を——布で拭いた。わたしの手の甲にかかったお茶も——そっと拭いた。
何も言わなかった。
ミーナのカップに——リーゼ殿のお茶を半分、注いだ。
「…………」
「……続けて」
短い。
それだけ。
---
続けた。
「わたし——ずっと笑っていました。ここに来てからも。よしこ様が優しくしてくれても——笑うしかできなくて」
笑っている。今も。顔の筋肉が——勝手にそう動く。14年間繰り返した動作。体が覚えている。
「リーゼ殿に——『泣きたい時に泣きそうになるのは普通』と言っていただいた時——」
あの日。この部屋。この椅子。同じ場所で。
「普通、って——言われたのが——」
笑っている。笑っている。笑って——
「わたし——」
声が割れた。
「笑っていなさいって言われて……」
笑っている。まだ笑っている。口角が上がっている。教会が教えた通りに。
「泣いたら怒られて……」
目から——水が出た。
笑っている。笑顔のまま。口は笑っているのに——目から水が流れている。
「でも……でも……っ」
止まらない。
目の奥から——熱いものが押し寄せてくる。14年分。8歳の夜に押し込めたもの。10歳の時に蓋をしたもの。12歳で忘れたふりをしたもの。
全部——全部、今——
「わたし——わたし——ほんとは——」
笑顔が——崩れかけている。でも崩れきれない。口角が痙攣している。上がろうとする力と、下がろうとする力がぶつかっている。
涙が——笑顔の頬を伝って落ちた。
「ほんとは——ずっと——さみしかった——」
---
◆リーゼ視点
ミーナが——泣いていた。
笑顔のまま。
口は笑っている。教会が教えた通りの微笑み。でも目から涙が止まらない。頬を伝って、顎を伝って、テーブルの上にぽたぽた落ちている。
さっき拭いたばかりのテーブルが、また濡れていく。
——私には、わかる。
壊したいのに壊せないもの。やめたいのにやめられない癖。
私は「食べなくても平気」がそれだった。お腹が空いているのに空いてないふりをする体。よしこに「食べなさい」と言われるまで——自分では止められなかった。
ミーナは——「笑う」がそれだ。
「わたし……笑っていなさいって言われて……泣いたら怒られて……でも……でも……っ」
ミーナの声が、どんどん小さくなっていく。震えている。でも——笑顔がまだ残っている。必死にしがみついている。14年間の鎧。
私は——何も言えなかった。
気の利いたことなんか、言えない。ガルドなら「大丈夫だよ」と言うだろう。よしこなら「泣いてええんやで(^^)」と言うだろう。レオンなら——何も言わないで隣にいるだろう。
私は——私の言葉しか持っていない。
「…………」
ミーナを見た。
笑顔で泣いている。涙が止まらないのに、口角が上がっている。壊れかけた人形みたいに。
——壊れていい。
「泣いていいよ」
言った。
「——ここ、誰も怒らないから」
短い。これだけ。私にはこれしか言えない。
でも——これだけでいい。
ミーナの笑顔が——
止まった。
口角が——ゆっくり——下がった。
14年間持ち続けた「正しい表情」が——たった一言で——崩壊した。
「…………ぁ」
声にならない声。
目が大きく見開かれて——涙がぼろぼろ溢れた。笑顔じゃない涙。初めて見る——ミーナの本当の顔。
「あ……あ、あぁ……っ」
ミーナが——両手で顔を覆った。
肩が震えている。小さな体が丸くなっている。声を殺そうとしている——教会の癖だ。
「——声、出していい」
言った。
ミーナが——顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃだ。鼻も赤い。14歳の顔だ。ただの——14歳の女の子の顔。
「っ——ぅ、あ……あぁぁ……っ」
泣いた。
声を上げて。8歳の夜に殺した声。10歳で捨てた涙。12歳で忘れた感情。
全部——今、この部屋に溢れている。
「うあぁぁぁぁ……っ!」
声が——大きくなった。
もう抑えていない。抑える力が残っていない。14年分の涙は——止め方を知らない。
私は——何もしなかった。
背中をさすったりしなかった。「大丈夫」とも言わなかった。
ただ——座っていた。同じ部屋に。同じテーブルで。
テーブルの上のお茶が冷めていく。ビスケットが三枚残っている。窓から風が入ってくる。本のページがぱらり、とめくれる。
何でもない午後。
ただ——泣いているだけの午後。
「…………」
ミーナが泣いている間、私はお茶を飲んだ。
冷めたお茶。——別に、冷めても飲める。
ミーナの泣き声が——少しずつ、小さくなっていった。
---
どれくらい経ったかわからない。
窓の外の光が——少しだけ傾いていた。
ミーナが——顔を上げた。
目が真っ赤だ。鼻も赤い。頬が涙の跡で光っている。
「……ごめん、なさい……取り乱して……」
「取り乱してない」
前にも——同じことを言った。
「泣いただけ。——普通」
ミーナが——また泣きそうな顔をした。でも今度は——笑顔じゃなかった。泣きそうな顔が、ちゃんと泣きそうな顔をしていた。
「……リーゼ殿……」
「……ん」
「……ありがとう、ございます」
声がかすれていた。泣きすぎて。
「……別に。何もしてない」
「聞いてくれました。——ここにいてくれました」
「…………」
——それだけなのに。
ミーナにとっては——それだけのことが、なかったのだ。8年間。
「……また明日も——お茶しよう」
言った。いつもと同じ言葉。
ミーナが——頷いた。
泣いた後の顔で。赤い目で。鼻をすすりながら。
「……はい」
それは——教会の「はい」じゃなかった。
任務報告の「はい」じゃなかった。
ただの——「はい」だった。
---
◆ミーナ視点
廊下に出た。
目が——熱い。腫れている。たぶん、ひどい顔をしている。
教会なら——こんな顔で歩いたら叱られる。「支援役は常に穏やかであれ」。泣いた顔を見せるなんて——
「ミーナちゃん」
よしこ様が——廊下の角に立っていた。
湯気の立つカップを二つ、盆に載せている。
「お茶のおかわり持ってきたで(^^) 二人ともまだ——」
よしこ様の目が——わたしの顔を見た。
赤い目。腫れた瞼。涙の跡。
「…………」
よしこ様が——お盆を廊下の棚にそっと置いた。
「泣いたん?」
優しい声。怒っていない。——怒らない。
「……はい。——すみません、任務に——」
「任務なんかどうでもええよ(^^)」
よしこ様が——わたしの前にしゃがんだ。175cmの体が低くなる。わたしの148cmと——同じ目線になる。
「よう泣けたな。えらいな(^^)」
——えらい。
泣いたのに——えらい。
「…………え」
「泣けるようになったんやもん。えらいよ、ミーナちゃん(^^)」
よしこ様の深紅の目が——笑っている。優しく笑っている。角が二本、小さく生えている。魔王の姿。でも——子どもたちに向き合うときの、あの優しい目をしている。
「……わたし、泣いたのに——えらいんですか」
「当たり前やん(^^) 泣くのは悪いことちゃうよ。——ずっと頑張ってたんやろ?」
頑張っていた。
8年間。笑っていた。泣かなかった。怒られないように。捨てられないように。——頑張って、いた。
「頑張ったなぁ。えらいえらい(^^)」
よしこ様の手が——わたしの頭に、そっと乗った。
大きい手。温かい手。
「もう頑張らんでええよ。泣きたい時は泣き。笑いたい時は笑い。——ミーナちゃんはミーナちゃんでええんやで(^^)」
また——涙が出た。
もう枯れたと思ったのに。リーゼ殿の部屋で全部出したと思ったのに。
「っ——」
「よしよし(^^) 泣き。いくらでも泣き」
よしこ様の肩に——顔を埋めた。
魔王のローブ。黒くて、少しだけよしこ様の匂いがする。蜂蜜と——パンと——お茶の匂い。
教会の白檀の匂いじゃない。ここの匂い。
「……よしこ、さま……」
「ん?(^^)」
「……ありがとう、ございます……」
「何言うてるん(^^) 当たり前やん」
当たり前。
泣いてもいいのが——当たり前。
この城では——それが、当たり前。
涙がまた流れた。でも今度は——顔は笑っていなかった。
泣いている時に泣いている顔ができている。——たぶん、これが普通。
リーゼ殿が教えてくれた——普通。
「……おやつのビスケット、もう一枚もろてええ?(^^)」
よしこ様が——泣いているわたしに聞いた。
「……っ、はい……」
——泣きながら、ビスケットのことを考えた。
甘い。蜂蜜の味。美味しかった。
もう一枚食べたい。——食べたい、と思えた。
「ほな、お茶持っていくから。三人で食べよか(^^)」
よしこ様がお盆を持ち上げた。
わたしは涙を袖で拭いて——よしこ様の後ろを歩いた。
リーゼ殿の部屋に向かう廊下。窓から午後の光が差し込んでいる。
何でもない午後。
泣いた後の——何でもない午後。
---
【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第68話「ミーナが泣く日」。大きな事件は何も起きていません。お茶を飲んで、話をして、泣いた。それだけの話です。
第53話で、ミーナは「まだうまく泣けません。笑顔が癖になっていて」と言いました。リーゼは「泣きたい時に泣きそうになるのは——普通」と返しました。あれから十数話。ミーナの涙は、ようやくここで溢れました。
「笑顔のまま涙が溢れる」というシーンを書きたいと思っていました。泣いているのに口角が上がっている。教会に刻まれた14年分の「正しい表情」が、壊れたくても壊れきれない。——あの表情の崩壊を描けたなら、この話を書いた甲斐があります。
リーゼの「泣いていいよ」は短い。たった六文字です。でもリーゼは長い言葉を使わない人だから。そしてミーナにとっては、その六文字が——8年間誰にも言ってもらえなかった言葉でした。
リーゼがこのシーンで「支える側」に回っていること自体が、リーゼの成長です。かつて食べられなかった少女が、泣けなかった少女の隣で——ただ座っている。背中をさすったりしない。「大丈夫」とも言わない。ただいる。それがリーゼにできる精一杯の優しさで、それで十分なのだと思います。
次回、第69話「シオンの名前」。シオンが初めて「俺」と言います。
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