シオンの名前
2026年2月22日
2026年2月22日
◆シオン視点
鍛錬を終えた。
中庭の隅。素振り200回。教会で決められた回数。——決められた、回数。
剣を鞘に収めた。
汗が首筋を伝う。腕が重い。だが痛みはない。痛みは教会で消す訓練をした。痛みを感じるな。疲労を見せるな。常に万全であれ。
——そう、教えられた。
「……」
中庭の花壇が目に入った。
よしこが作ったもの。土がまだ新しく、柔らかい。花はまだ咲いていない。だが種が埋まっている——と、ヴェルザが言っていた。
自分は——花を育てたことがない。
教会にも庭はあったが、自分たちが触れる場所ではなかった。
風が吹いた。汗が冷えた。
——食堂に向かった。
---
◆レオン視点
夕飯の後。
食堂にはもう誰もいなかった。ティアが皿を片づけて、ガルドが厨房を閉めて、リーゼは図書室に行った。
俺はテーブルに突っ伏していた。腹が膨れると眠くなる。よしこのシチューは罪深い。
「……レオン殿」
声がした。
顔を上げた。
シオンが——入口に立っていた。
白い鎧は脱いでいる。シンプルな麻のシャツと黒い袴。教会で支給された服だが、ここに来てからは鎧を脱いでいることが増えた。
——まだ、あの完璧な姿勢は変わらないが。
「……なんだ」
「少し——お時間をいただけますか」
「別にいいけど。座れよ」
シオンが——向かいの椅子に座った。
背筋がまっすぐ。膝の角度が90度。両手は太ももの上。
——軍人だな、と思う。いつも思う。
「……何か飲むか」
「いえ、結構です」
「水くらい飲め」
立ち上がって、棚からコップを二つ出した。水差しから注いだ。シオンの前に置いた。
「……ありがとうございます」
シオンが——コップを両手で持った。
飲まない。水面を見ている。
「……で?」
聞いた。
「……レオン殿」
「ああ」
シオンが——少し間を置いた。
「レオン殿は——いつから『俺』になったのですか」
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◆シオン視点
聞いた。
ずっと——聞きたかった。
レオン殿は「俺」と言う。粗暴で、ぞんざいで、ぶっきらぼうな一人称。
教会では使わない言葉だ。訓練生は「自分」を使うよう指導される。個を消すための一人称。「自分」は個人ではなく、機能を指す。「自分は任務を遂行します」——そう言う時の「自分」には、名前がない。
レオン殿の「俺」には——名前がある。
「いつから、か」
レオン殿が——腕を組んで、天井を見た。
「覚えてねぇな」
「……覚えていない、のですか」
「ああ。たぶん——最初からだろ。孤児院にいた時から。誰に教わったわけでもねぇし」
首を傾げた。記憶を探しているようだった。
「いや——待てよ。最初はなんて言ってたかな。ガキの頃は『僕』とか言ってたかもしれねぇ。覚えてねぇけど」
「……では、いつ変わったのですか」
「だから覚えてねぇっつーの」
レオン殿が——少し笑った。
「たぶんよしこのシチュー食った後だな」
「……シチューですか」
「ああ。あの城に来て、シチュー食って——なんか、力が抜けた。それまでは肩に力入れて『俺は勇者だぞ!』って言ってたけど。シチュー食ったら——別に、勇者じゃなくてもいいかって」
コップの水を飲んだ。一口。
「『俺』って言い方自体はずっと前からだけど。——意味が変わったのは、ここに来てからだな」
「……意味が、変わった」
「ああ。前の『俺』は——鎧みてぇなもんだった。強がりの一人称。俺は勇者だ、俺は負けない、俺は一人でもやれる——そういう『俺』」
レオン殿が——コップを置いた。
「今の『俺』は——ただの俺。勇者とか関係ねぇ。飯が美味いとか、眠いとか、ガルドのパンが焼きたてだと嬉しいとか。そういう俺」
……。
「……自分は」
口を開いた。
言葉が——出てこなかった。
「自分は——教会で『自分』を使うよう訓練されました。個を消すための一人称だと」
「……ああ」
「自分以外の——一人称を、使ったことがありません」
コップの水面が——自分の顔を映していた。灰色の目。表情のない顔。
「……自分は、自分が誰なのかわかりません」
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◆レオン視点
シオンが——下を向いていた。
灰色の目が、水面を見ている。
こいつは——俺の「もしも」だ。
教会がちゃんと育てた勇者。剣術は完璧。魔法も使える。任務遂行能力は俺の比じゃない。
だが——心を殺されている。
「好きに呼べよ」
言った。
「……好きに」
「ああ。自分でも俺でも僕でも——好きなやつを選べ」
「……選ぶ、ですか」
「お前の口から出てくる言葉は、お前のもんだろ。教会のもんじゃねぇ」
シオンが——俺を見た。
「……レオン殿は、選んだのですか」
「選んだっつーか——気がついたら『俺』だった。たぶんそういうもんだ。考えて決めるもんじゃねぇ」
頭を掻いた。
「……ま、焦んなくていい。ここは教会じゃねぇし。誰もお前に『自分と言え』とは言わねぇ」
シオンが——黙った。
しばらく。
「……ありがとうございます」
小さい声だった。
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◆シオン視点
夜が更けた。
レオン殿が「腹減んねぇか」と言った。
「……少し」
「おにぎり握るか。台所、使っていいってよしこが言ってたし」
厨房に移動した。
夜の厨房は静かだった。かまどの残り火がぼんやりと赤い。ガルド殿が明日の分の小麦粉を量って置いている。棚には調味料が並んでいる——よしこ殿が一つ一つにラベルを貼った。ひらがなで「しお」「さとう」「みそ」。
「米はここだ。水はそこ」
レオン殿が棚を開けた。炊いた米が保温されている。夜食用に残してあるやつだ。よしこ殿が「夜中に食べたなったら、ここにあるからな(^^)」と言っていた。
「塩」
レオン殿が手を濡らして、塩をつけて、米を掴んだ。
握り方は——雑だった。大きさも形もバラバラ。三角にしようとして楕円になっている。
「…………」
自分も——手を濡らした。塩をつけた。米を掴んだ。
教会で習った。食事の準備は訓練の一環だった。効率的に、均等に、無駄なく。
握った。三角形。角が均等。大きさが統一。表面が滑らか。
「……」
レオン殿が——自分のおにぎりを見た。
「お前の握り方、教会仕込みだな」
「……はい」
「綺麗すぎる」
並べた。レオン殿のおにぎりと、自分のおにぎり。
——明らかに違う。レオン殿のは不揃いで、角が丸くて、塩が偏っている。自分のは均等で、角が立っていて、塩が均一。
「……握り方に正解はないのですか」
「ねぇよ」
レオン殿が即答した。
「よしこのおにぎりなんか、もっとゆるいぞ。ピプに言わせると『ちょっとゆるいの。でもそれがいいんだよ!』だとさ」
「……ゆるくても、いいのですか」
「いいんだよ。食えりゃいい」
レオン殿が——自分の不格好なおにぎりを持ち上げた。
「綺麗に握れるのはすげぇよ。でも、綺麗じゃなきゃダメってわけじゃねぇ」
かじった。
もぐもぐ食べた。
「……うん。塩が偏ってて、ここだけしょっぱい。——まぁいい」
自分も——おにぎりをかじった。
完璧な三角形。均一な塩加減。教会で訓練された通りの握り方。
——美味しい。美味しいのだが。
レオン殿の不格好なおにぎりを見た。
「……一つ、いただけますか」
「ん? ああ。好きに取れ」
レオン殿のおにぎりを手に取った。崩れそうなほどゆるい。角がない。塩が偏っている。
かじった。
「…………」
しょっぱいところと、薄いところがある。形が不安定で、持つと少し崩れる。
——でも。
「……美味しいです」
「だろ」
レオン殿が——笑った。
「不格好でも美味いもんは美味い。——おにぎりも、一人称も、たぶん同じだ」
……。
「……同じ、ですか」
「たぶんな。——まぁ、おにぎりに聞いてくれ」
レオン殿が——残りのおにぎりを頬張った。
自分も——もう一口食べた。レオン殿の、不格好なおにぎりを。
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厨房を出た。
廊下で別れた。
「おやすみ」
「……おやすみなさい、レオン殿」
レオン殿が手を振って、部屋に向かった。
——自分は、自分の部屋に向かった。
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◆シオン視点
部屋に戻った。
扉を閉めた。鍵はかけない。教会では鍵をかけなかった——いつでも査察に応じられるように。
……ここでは、鍵をかけてもいい。ティア殿が「鍵、お使いくださいね」と言っていた。
鍵をかけた。
小さな金属の音がした。
部屋の隅に——鏡がある。
全身が映る大きさの鏡。ティア殿が「身だしなみ用に」と置いてくれたもの。
鏡の前に立った。
灰色の目。黒髪。表情のない顔。教会の下着の上に、魔王城の寝間着を着ている。よしこ殿が「パジャマないの? ほな、これ着き(^^)」と渡してくれた、少し大きい麻の寝間着。
——鏡の中の自分を見た。
「……俺」
声に出した。
小さな声。部屋の中にだけ響く声。
「…………」
違和感がある。
口の形が慣れていない。「お」と「れ」。二文字。たった二文字なのに、舌が拒む。
もう一度。
「……俺」
鏡の中の——自分が、口を動かしている。
灰色の目は変わらない。表情も変わらない。
でも——「自分」と言った時と、何かが違う。
「自分」は——機能の名前だ。
「俺」は——。
「……俺は」
続きが出てこなかった。
「俺は」の後に何を言えばいいのかわからない。「自分は任務を遂行します」なら言える。「自分はシオンです」なら言える。
「俺は」——何だ。
口を動かした。続きを探した。
「……俺は——腹が、減った」
嘘だ。さっきおにぎりを食べた。でも——言えた。「俺は」の後に、言葉が続いた。
「……俺は——パンが好きだ」
ガルド殿のパン。朝、焼きたてが食堂に並ぶ。——好きだ。教会では「好き」も訓練で消された。
「……俺は」
鏡を見た。
鏡の中の自分が——見返している。
「……俺は——シオンです」
敬語が混ざった。「俺」と「です」は合わない。レオン殿なら「俺はレオンだ」と言うだろう。
——でも。
今の自分には、これが精一杯だ。
……悪くない。
鏡から目を離した。
窓の外に月が出ていた。
寝台に腰かけた。
よしこ殿の寝間着が——少し大きい。袖が手の甲まで覆っている。
教会の寝間着は体にぴったりだった。余計な布は許されなかった。合理的で、機能的で、無駄がない寝間着。
——この寝間着は、少し大きい。
でも。
袖をぎゅっと握った。
……悪くない。
---
◆レオン視点
翌朝。
食堂。
シオンがいつもの席に座っていた。背筋がまっすぐ。膝の角度が90度。スープを静かに飲んでいる。
——いつもと変わらない。
「おはよ」
「……おはようございます、レオン殿」
向かいに座った。よしこが「はいはい、レオンくんのスープ(^^)」と皿を置いた。ニンジンの甘い匂い。
食べた。美味い。いつも美味い。
「……レオン殿」
シオンが——スプーンを置いた。
「ん?」
「昨夜の——おにぎりの話ですが」
「ああ」
「……自分は——」
一瞬、止まった。昨夜の鏡の前が——口に残っている。あの二文字の感触が。
「……俺は——」
——。
シオンが——自分の口を押さえた。
「……いえ、自分は」
「今、俺って言ったな」
シオンの灰色の目が——わずかに揺れた。
「……言いました」
「……」
笑った。声は出さなかった。
「——いいじゃん」
シオンが——俺を見た。
表情は変わらない。灰色の目も変わらない。
でも——耳が、少しだけ赤かった。
「……ありがとうございます」
「別に。俺は何もしてねぇ」
スープを飲んだ。
シオンもスープを飲んだ。
よしこが奥から「おかわりあるでー(^^)」と言った。
「……レオン殿」
「ん」
「……おにぎりは——不格好でもいいと、昨夜言いましたね」
「ああ」
「……一人称も——不格好でも、いいですか」
「いいに決まってんだろ」
シオンが——下を向いた。
スープの湯気が顔にかかっている。
「……自分は——まだ、『俺』に慣れません。ですが」
「ああ」
「——悪くないと。そう、思いました」
俺は——おかわりを頼んだ。
「よしこー、もう一杯」
「はいはい(^^)」
シオンのスープも——少し減りが早かった。
---
【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第69話「シオンの名前」。
一人称の話です。日本語には「俺」「僕」「私」「自分」「わたくし」「あたし」「うち」「わし」——数えきれないほどの一人称があって、それぞれに色がある。シオンが教会で訓練された「自分」は、色を消すための言葉でした。個人を消して、機能だけを残す。「自分は任務を遂行します」の「自分」には、シオンという名前がない。
レオンの「俺」は最初、強がりの鎧でした。孤児院で一人で生きていくために被った、粗暴な一人称。でもよしこのシチューを食べて、力が抜けて、鎧が外れた。今の「俺」は——ただのレオン。飯が美味い、眠い、パンが焼きたてだと嬉しい。そういう「俺」。
おにぎりの場面は、一人称のメタファーとして書きました。教会仕込みの完璧なおにぎりと、レオンの不格好なおにぎり。どちらも「おにぎり」で、どちらも美味しい。正解はない。——一人称も同じ。「俺」でも「自分」でも「僕」でも、それがシオンの口から出た言葉なら、それがシオンの一人称です。
鏡の前で「俺」と言ってみるシオン。まだ違和感がある。でも——「悪くない」。大きな変化じゃなくていい。劇的な覚醒じゃなくていい。夜中に一人で、鏡の前で、たった二文字を試してみること。それが、シオンにとっての最初の一歩です。
次回、第70話「花壇」。先代魔王の遺言「花を植えたかった」を、よしこが叶えます。
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