グレイヴスの夜
2026年2月22日
2026年2月22日
◆グレイヴス視点
私室の扉を閉めた。
鍵をかけた。外から三重の鍵がかかる大司教の私室には——中からかける鍵は、一つしかない。
小さな金属の音が、静かな部屋に響いた。
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日が暮れていた。
窓の向こうに、王都ルミエールの街並みが見える。教会の塔は街で最も高い。大司教の私室はその最上階にある。街を見下ろすための部屋。
——見下ろすことに、意味があるのかどうか。考えたことはない。
部屋は質素だ。
ベッド。机。椅子。以上。
壁には書棚があるが、中身は聖典と記録のみ。装飾品はない。絨毯もない。石の床に木の家具。暖炉はあるが、薪がない。今夜は冷える。
——いつからか、薪を頼むのを忘れるようになった。
机に向かった。
椅子に座った。木の椅子。背もたれが固い。座り心地が悪い。この椅子に30年座っている。座り心地の良い椅子を知らないから、悪いとも思っていなかった。
——最近、思うようになった。なぜだかわからない。
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壁に——記録がある。
勇者選定の記録。聖歴381年から始まる、46年分の記録。
羊皮紙が茶色く変色している。最初の一枚だけが特に古い。私が書いたものではない。先々代の大司教が書いたものだ。
「第1期勇者 エルト 男 15歳 聖歴381年派遣」
「第2期勇者 リカ 女 14歳 聖歴384年派遣」
「第3期勇者 ヴァル 男 16歳 聖歴387年派遣」
名前が並んでいる。番号と、名前と、性別と、年齢と、派遣年。
帰還の欄がある。全て——空欄だ。
空欄のまま46年。47名。空欄でなくなったことは、一度もない。
私が大司教になったのは28歳の時だ。聖歴397年。30年前。
それ以降の記録は、私の字だ。
「第6期勇者 セリア 女 13歳 聖歴397年派遣」
最年少だった。13歳。小さかった。出発の朝、神殿の階段で転んだ。膝を擦りむいた。私は——見ていた。手を差し伸べなかった。勇者にふさわしくない弱さを見せるな、と思った。
セリアは泣かなかった。立ち上がって、振り返らずに歩いていった。
帰ってこなかった。
以来、30年で28名を送り出した。私の字で。私の手で。
全員——帰ってこなかった。
帰還の欄は空欄のままだ。
帰還計画の書類も空欄のままだ。
——最初から、書く予定がなかった。
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立ち上がった。
記録から目をそらすためではない。食事の時間だからだ。
部屋の隅に盆がある。侍従が日没前に置いていく。大司教は食堂で食事を取らない。一人で食べる。それが決まりだ。誰が決めたか——知らない。先々代からの慣例だと聞いた。
パンが一つ。水が一杯。
教会のパンは硬い。意図的に硬く焼いている。質素であることが徳だと、教義に書いてある。
水はぬるい。教会の井戸水。
椅子に座ったまま、パンをちぎった。
口に入れた。噛んだ。飲み込んだ。
——味がしない。
いつからだろう。味がしなくなったのは。
5年前か。10年前か。——もっと前か。思い出せない。パンの味を「美味い」と感じた記憶が——ない。孤児院にいた頃はどうだった。あの頃は空腹だった。空腹なら何でも美味い。だが、味を覚えているかと聞かれたら——覚えていない。
温かいものを食べた記憶が——ない。
孤児院のスープはぬるかった。教会の食事は冷たい。大司教になってからは一人で食べている。一人の食事に温度は必要ない。
——あの女が言っていた。
「あんた、朝ごはん食べた?」
あの時、答えなかった。食べたか食べていないかは問題ではない。問題は——あの女がなぜ、それを聞いたのかだ。
「見たらわかる。食べてへん。顔の色でわかるわ」
——顔の色。
58年間、顔の色を見た者は、いなかった。
パンをもう一切れ食べた。
味がしなかった。
水を飲んだ。
冷たいだけだった。
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食事を終えた。
盆をそのまま置いた。朝、侍従が回収する。会話はない。置いて、回収する。それだけだ。
机に戻った。
引き出しの前に、手が止まった。
引き出しを——開けた。
封筒が一つ。
白い封筒。表に、ひらがなで書いてある。
「ぐれいゔすさんへ」
カインが持ってきたものだ。あの騎士は——いや。あの男は、もう「騎士」なのかどうか。魔王の城で食事をしたと報告した男。密書とともに——これを渡してきた。
「グレイヴス殿。魔王から——いえ、よしこ殿から預かりました」
よしこ殿。魔王を名前で呼ぶ騎士。
——規律の崩壊だ。
封筒を開けた。何度目だ。数えていない。
中の手紙を取り出した。
「グレイヴスさんへ
はじめまして(^^) まおうのよしこです。
ごはんたべにおいで。
あんたもおなかすいてるやろ。
あったかいシチューつくるから。
まってるで(^^)」
——ひらがなだ。
大司教宛ての書簡が——ひらがなだ。格式がない。敬語がない。外交儀礼の欠片もない。「まおうのよしこです」。正式名称は魔王ヴォルグラーナだ。ヴォルグラーナ。古代魔族語の真名だ。それを——「よしこ」と。
読んだ。もう一度。
「ごはんたべにおいで」
もう一度。
「あんたもおなかすいてるやろ」
もう一度。
「まってるで」
手が震えた。
手紙が揺れた。
「……馬鹿げている」
声に出した。私室に自分の声が響いた。低い声。枯れた声。
「魔王に招待されるなど。大司教が——魔王の食卓に招かれるなど」
手紙を畳んだ。封筒に戻した。引き出しに入れた。
——捨てなかった。
鍵をかけた。
引き出しの小さな鍵。真鍮の鍵。
捨てればいい。
焼けばいい。魔王からの書簡など、焼却するのが当然だ。教義上も、政治的にも。
——捨てられない。
なぜ捨てられないのか。
わからない。わかりたくもない。
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夜が更けた。
暖炉に火がない。部屋が冷えている。毛布を一枚引き寄せた。ベッドには入らない。まだ座っている。机の前に。
壁の記録が——見えている。薄暗い中で、羊皮紙の白さだけがぼんやりと浮かぶ。47枚の記録。47名の名前。47の空欄。
「私は間違っていない」
声に出した。部屋に誰もいない。神に対して——いや、自分に対して言った。
「秩序が世界を守る。聖教会が秩序を維持し、魔王を打倒することが——人類の使命だ」
暗い部屋に、自分の声だけが響く。
正しい言葉だ。何千回と言ってきた。神殿で。議場で。勇者の出発式で。同じ言葉。同じ意味。変わらない。変わるはずがない。
「子どもたちを送り出すことは——」
……。
「子どもたちを送り出すことは——必要な……」
言葉が——続かなかった。
喉が詰まった。
必要な犠牲。そう言うはずだった。30年間——言い続けてきた言葉だ。
「……必要、な——」
声が枯れた。唇が渇いている。水を飲めばいい。——動けない。
セリアの顔が浮かんだ。13歳。神殿の階段で転んだ女の子。膝を擦りむいた。立ち上がった。振り返らなかった。
エルト。リカ。ヴァル。名前だけが記録に残っている。帰還の欄は空欄のまま。
レオン。あの少年は——魔王の城にいる。
シオン。私が育てた。完璧な勇者に育てた。任務を遂行する道具として——
「……道具、ではない」
口が勝手に言った。
——今、何を言った。
道具ではない。誰が言った。私が言った。なぜ言った。
シオンは第48期勇者だ。聖教会の訓練課程を経て、選定の儀で聖剣に選ばれた、正式な勇者だ。道具ではない。勇者だ。
——勇者だから、送り出す。
——送り出して、帰ってこない。
——帰還の欄が、また空欄になる。
毛布を——握った。
指が白くなるほど強く。
---
いつの間にか、うとうとしていた。
椅子に座ったまま。机に突っ伏して。首が痛い。
窓の外が——白んでいた。
夜明け。王都の屋根に薄い光が差している。
体が冷えている。暖炉に火がない。春の手前の朝はまだ冷える。
立ち上がった。膝が痛んだ。58歳の膝。石の床に座り続けたせいだ。
顔を洗った。冷たい水。手が冷たい。
鏡は見なかった。自分の顔を見る習慣がない。大司教服を着て、髪を撫でつけて、神の前に出る。それだけだ。
——机の前に戻った。
引き出しの前で、手が止まった。
「…………」
鍵を出した。真鍮の小さな鍵。
引き出しを開けた。
白い封筒。
「ぐれいゔすさんへ」
手に取った。封筒を開けた。手紙を取り出した。
昨夜と同じ手紙。同じひらがな。同じ内容。変わるはずがない。文字が夜の間に書き変わることなど、ありえない。
読んだ。
「ごはんたべにおいで」
「あんたもおなかすいてるやろ」
「まってるで(^^)」
(^^)
この記号の意味がわからない。カインに聞いたら「笑顔を表す記号です」と言っていた。文字で笑顔を。馬鹿げている。荘厳さの欠片もない。
——だが。
この手紙には——。
手紙を畳んだ。封筒に戻した。引き出しにしまった。鍵をかけた。
扉を開けた。大司教の一日が始まる。
廊下を歩いた。侍従が頭を下げた。司祭が頭を下げた。誰も私の目を見ない。誰も私に「おはよう」とは言わない。
——言う必要がない。大司教に挨拶は不要だ。頭を下げればいい。
歩いた。
教義の通りに。秩序の通りに。正しく。正しく。
——引き出しの中に、ひらがなの手紙がある。
捨てていない。
今日も——捨てなかった。
---
【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第71話「グレイヴスの夜」。初のグレイヴスPOV。これまでよしこやレオンの目を通してしか見えなかった「大司教」の、内側の話です。
質素な部屋。パンと水。味がしない食事。壁に並ぶ47名の勇者の記録。帰還欄は全て空欄——グレイヴスの世界は、色も温度もない場所でした。
彼は悪人ではありません。孤児院出身で、自分も勇者候補だった。選ばれなかった側の人間が、選ぶ側に回って、30年間子どもたちを送り出し続けた。「これが正しい」と信じなければ、自分の58年が崩壊するから。だから「秩序」という言葉で、全てを覆ってきた。
でも、よしこの手紙は「ごはんたべにおいで」です。外交儀礼もなく、格式もなく、ひらがなで「まってるで」。グレイヴスの58年間の鎧を、この5文字が静かに溶かしている。捨てればいいのに——捨てられない。鍵をかけて引き出しにしまって、翌朝また開けてしまう。
「子どもたちを送り出すことは——」の後に続く言葉が出てこなかったシーン。30年間言い続けてきた「必要な犠牲」が、もう口から出ない。鎧のひびは——もう、隠しきれません。
次回、第72話「聖剣の声」。レオンの聖剣が目覚めます。
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