幕間:先生
2時間前
毛布の中は、暗かった。
ルーカスは仰向けになって天井の梁の影を見ていた。獣脂の灯りはもう落としてある。窓の外の月が格子の形だけを床の上に薄く引き延ばしている。その格子の線が呼吸のたびに少しだけ揺れる気がした。揺れているのは線ではなく、たぶん自分の瞼の方だった。
隣の寝台でエミリアの寝息が細く続いていた。一年前はこの音の中でただ縮こまっていた。今夜は違った。
喉の奥に昼間の熱がまだ残っていた。
——せん、せい。
声にはしなかった。唇だけが毛布の裏で小さく動いた。上の唇と下の唇が半寸ほど離れ、舌の先が上の歯の裏に触れる。それから——い。息が細く抜ける。
音は外に出なかった。でも喉のいちばん奥の普段は使わない深い所が確かに震えた。
——せんせい。
もう一度、唇だけで言った。
昼間、書斎の扉の向こうから漏れていた父の声をルーカスは全部覚えていた。日記、と父は言った。意味がない、と父は言った。その言葉のひとつひとつが廊下の石の冷たさと一緒に背中に貼りついていた。
でも、それより強く覚えているのは——先生の手の震えだった。
廊下の曲がり角で先生の手を握った時、自分より先生の方がずっと震えていた。小さな手だと思っていた先生の手があの瞬間に自分の手より小さく感じた。一年前、離れの陽当たりのいい部屋でこの手が自分のこわばった指を一本ずつ開いてくれた。そのことを喉の下の深い層が覚えていた。
だから喉が動いた。蓋をしていた所のいちばん下の蓋が先生のために開いた。
——せんせい。
三度目。息の音すら出さなかったのに耳の内側で確かにその二音節が響いた。自分の胸の中だけで鳴る鐘の音。
この言葉は、この世界のどこにもなかった。
母上の絵本の中にも、父上の書物の中にも、ヒルデの教本の中にもなかった。たった一度だけ夜の廊下の向こうで先生がエミリアにそっとこぼしたのを耳が拾った。拾ったままこの一年、喉の下に沈めていた。
沈めていたものを、今日、自分の意志で上げた。
誰にも教わらなかった。誰にも命じられなかった。自分で選んだ。
——ぼくの、ことば。
毛布の中でもう一度、音のない形だけを作る。せん、と舌が止まり、せい、で息が抜ける。止まりと抜け。二つの動きが一つの呼び方になる。これが自分が自分の胸から取り出した、最初の、自分のものの言葉だった。
天井の梁の影が月の傾きで少しだけ動いた。
ルーカスは目を閉じた。瞼の裏に、廊下に膝を折って泣いていた先生の頭の光がまだ残っていた。あの時、自分は「ないていいよ」と言った。言葉になったのは昼間が初めてだった。でも胸の中で言っていたのはずっと前からだった。声にならないまま、胸の中で先生に向かって何度も。
やっと、声にできた。
喉の奥の熱は父の冷たい声で消えなかった。ヒルデの教鞭で叩き落とされもしなかった。先生の手のひらの温度の内側で生まれた熱が胸の下の層に今、静かに置かれている。
——せんせい。
声にしない。
声にしなくても、この言葉はもう自分の胸の中にある。明日も明後日も来年も胸の中で鳴り続ける。父に取り上げられることのない、ヒルデに消されることのない、ただひとつの自分のものの二音節。
毛布の中で指をそっと握った。昼間、先生の手を握った時の重みが指の骨の一番深い所にまだ残っていた。あの重みとこの二音節は同じ所にしまっておこう、と思った。
エミリアの寝息が少し深くなった。
ルーカスは目を閉じたまま、もう一度、唇の裏で音のない形を作った。
——せんせい。
そして眠りの入口のうすい闇の方へ、ゆっくりと降りていった。