第13話 おやすみの夜
2時間前
2時間前
雷の鳴らない春だった。
窓の外では夜風が梢を撫でている。雨の気配もない。ただ静かに、屋敷の屋根裏に夜が降りていく。——二年目の終わりが近い。
観察記録ノートは、二冊目の最後のページに差し掛かっていた。
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エミリアが五歳になった。
ぬいぐるみを抱えて自分の寝台に一人で上がれるようになった。一年前までは私の手を引き寄せなければ眠れなかった子が、今は——自分で寝間着に着替え、自分で髪をほどき、自分で毛布をたぐり寄せる。
「おやすみ、エミリア」
——うなずいて、目を閉じる。返事はない。まだ自分からは言えない。「おやすみ」を自分の声で発することは、この子にとって、まだ——少し、重い。
夜泣きはここ数ヶ月、雷の夜だけになっていた。冬の初めに一度、春先に一度。その二度とも十分ほどで寝息に変わった。百八十夜の頃のあの嵐のようなすすり泣きは、もう遠い。
でも完全には消えない。月に一度、気圧が下がる夜になると、エミリアは寝台の上で小さく体を丸める。起きてはいない。ただ呼吸が浅くなって指先が毛布を握る。それを私は寝台の横に座って見守る。
——それが、今の私たちの夜のかたちだった。
今夜は風が凪いでいる。空には雲もない。雷の来る夜ではない。
それでも寝台の横に座った。二年分の習慣。——もう座らなくていいのかもしれない、と思いながら。それでも離れられない。
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マティアスの揺り籠は先月、低い寝台に替わっていた。一歳半。柵の高い、転がっても落ちない作り。
卒業の三日目には毛布を自分で掴んで眠るようになった。
今日の夕食時、マティアスは木の板を重ねた簡易椅子に座っていた。両手で木のスプーンを握り、麦粥の器に突き刺し、半分以上は零しながら、それでも口に運んだ。——自分で食べた。
「じぶんで」「やる」——言葉にならない意志を、小さな掌が代わりに叫ぶ。
食べきった後、マティアスはスプーンを皿の縁に揃えて置いた。落としたのではなく、置いた。それから私を見上げた。青い瞳に得意げな光があった。
「上手に食べられたね」
言うと、足をばたつかせて笑った。
——離乳食の卒業が近い。頭の中で台所の木材を思い浮かべた。柔らかく彫りやすい木。小さな子供の手に馴染む大きさ。——スプーンを自分で彫ってあげよう。いつか、そう決めていた。
いつかが、近い。
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子供部屋に三つの寝息があった。
ルーカスの長い呼吸。九歳。身長はこの二年でずいぶん伸びた。短い単語から短い文へ。「学園で、歌を歌いたい」——先月、窓辺でそう言った。
マティアスの小さな寝息。毛布を頭からかぶって寝る癖は直らない。
そして——エミリアの寝息。
——穏やかだ。
指先が毛布を握っていない。呼吸は深い。肩の線がまっすぐ伸びている。雷の夜のあの体を丸める姿勢ではない。ただ眠っている。
去年の夏の夜を思い出した。雷が屋根を揺らし、エミリアが声を出さずにぼろぼろと涙を流した夜。ただ横に座って手のひらを胸に置いた。鼓動が速かった。小さな心臓が雷よりも大きな音で鳴っていた。
あの夜から——何夜が過ぎただろう。
百八十夜はとうに越えた。二百夜。三百夜。四百夜を越えたあたりから数えるのをやめた。「雷が怖くなくなるまで、何百夜でも隣にいるよ」——あの時エミリアに言った言葉。数えることが目的ではない。この子が眠れるようになるまで。それだけが目的だった。
ノートを膝の上に開いた。獣脂の灯りが紙を照らす。
今夜の記録を書こうとしてペンを止めた。
この数ヶ月、エミリアの欄は同じ一行だった。
《夜泣きなし。穏やかな睡眠》
同じ一行が、三十夜。
同じ一行が、六十夜。
——「書くことがない」のではない。「書かずに済む日々」が、積み重なっている。
ペンを置いた。寝台の横の椅子に、深く背を預けた。
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どれくらい経っただろう。
目を開けると獣脂の灯りが細くなっていた。窓の外で小鳥が鳴いている。——夜明けだ。
首が固まっていた。椅子で眠ってしまった。つまり一度も立ち上がらなかった。——エミリアが一度も起きなかった。
寝台を覗き込んだ。
エミリアは眠っていた。昨夜と同じ姿勢で。肩の線がまっすぐに伸びたまま。呼吸は深く静かで遠い。朝の光が窓から栗色の巻き毛を照らし始めていた。
——朝まで眠った。
一度も目を覚まさなかった。
胸の奥で何かが静かに崩れた。堅牢な岩が水に溶けるような、静かな崩れ方だった。椅子に座ったまま両手を顔の前で組んで目を閉じた。
泣かなかった。
一年前の廊下で「泣かない鉄則」は完全に壊れた。だから今は泣いてもいいはずだった。でも今夜は泣かなかった。涙の代わりにただ深い息を吐いた。
夜泣きは百八十夜の約束のうえにずいぶん多くの夜が積み重なった先で——ようやく完全に消えた。
まだ分からない。また来月、雷の夜に戻ってくるかもしれない。
でも今夜、この一夜は。——この子は朝まで眠り続けた。
それは、記録に値する夜だった。
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エミリアが目を覚ましたのは、朝の鐘が鳴る少し前だった。
灰色の瞳が開く。天井を見て、窓の光を見て、それから私を見た。私が寝台の横にいることに一瞬、驚いたような顔をした。
——そうか。この子は、私が朝まで座っていたと気づいていない。雷の夜のように、途中で泣いて、私が駆け寄る、という夜ではなかったから。
「おはよう、エミリア」
エミリアは目を擦って、小さく息を吐いた。
「……ねむかった」
「うん、ぐっすり眠れたね」
「うん」
それだけだった。この子自身は気づいていない。昨夜が二年目のどんな節目だったかを。ただ「ぐっすり眠った」。それだけ。
——それが正しい。成長は当の本人にとっては「普通のこと」になっていくべきだ。いつの間にか普通にできるようになっている。それが育ちの最良のかたちだ。
私だけが——静かに記録している。
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午後。マルタが伝言を持ってきた。
「イルマ様が、お時間ある時にと。夕方でよろしいそうです。お疲れでしょうから、少し休まれてから」
この人はいつもそうだ。夜通し椅子に座っていたことを私は言っていない。それなのに分かっている。見えない仕事を、見えないまま察する人。
「……ありがとうございます、マルタ様」
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夕方。離れのイルマ様の居室は、春の光が窓辺にたまっていた。
寝台の上で、イルマ様は半身を起こしていた。以前より頬の肉が落ちている。去年の春よりも確実に。でも目だけは変わらない。——あの鋭さと柔らかさが同居する、孫を見る時の目。
「こちらへ、フィオナ」
寝台の横の椅子に座った。イルマ様の手が、毛布の上で私の手に触れた。冷たい手だった。でも握る力は穏やかに強い。
「二年、経ちましたね」
「はい」
「マルタから毎日、報告が届いています。ルーカスの声が少しずつ文になっていることも。マティアスが歩いて、食べていることも。エミリアの夜泣きが、もう月に一度か二度ほどになっていることも」
——昨夜のことは、まだ誰も知らない。イルマ様の報告は、一日、古かった。
「子供たちは——少しずつ、自分の力で進んでいます」
イルマ様は微笑んだ。——それから、視線を窓の外に移した。夕陽が桜に似た木を、橙色に染めていた。
「フィオナ。六歳まで、と決めた時期が近づいています」
胸の奥が、一度、跳ねた。
養育係の任期。——規則では、子供が六歳になった時点で養育係の役目は終わる。ルーカスはもう九歳。本来ならとうに終わっていた。三人まとめて見るという理由で、事実上、延長されている。エドワード様はその延長をよく思っていない。
「覚悟、いたしております」
声は、思ったよりも落ち着いていた。
「覚悟、ね」
イルマ様は、繰り返した。
「フィオナ。覚悟の中身は、二つあると思うのですよ。『去る覚悟』と『残る覚悟』。どちらも、重い」
「……」
「急ぎません。ただ、頭の片隅に置いておいてほしいのです。わたくしは——あと何度、この桜を見られるかしら」
イルマ様の横顔は、光の中で薄く、透き通って見えた。
「イルマ様——」
「心配はいりませんよ。まだ、わたくしは、この家で果たすべき役目が残っています」
役目。——その言葉の輪郭は私には見えなかった。でも、見えない輪郭の向こうで何かが動いていることは分かった。イルマ様は私の知らないところで何かを準備している。
——聞いてはいけない。今は。
イルマ様の手が、もう一度、私の手を軽く握った。最初よりも少しだけ強く。
「あなたが、この家に来てくれたこと。わたくしは——一度も後悔していません」
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子供部屋に戻ると、ルーカスが本を閉じて、窓辺から立ち上がった。
「……せん、せい」
「なあに、ルーカス様」
「きょうの、夜」
少し詰まった。ルーカスはもう一度、息を整えて——
「きょう、の夜は、ぼくが、エミリアの、となりで、ねる」
耳を疑った。一瞬、何を言われたのか分からなかった。
ルーカスは、小さく頷きながら、繰り返した。
「せんせい、ねむそうだから。きょうは、ぼく、が」
喉が、詰まった。
この子は——見ていた。私が昨夜、椅子で夜明かしをしたことに。朝、私が首をさすっていたのを。ぼんやりしていたのを。——全部。
いつだってこの子は見ている。声を出せなかった頃からずっと、見ることで世界と繋がっていた子だ。言葉が増えた分だけ、見えているものを言葉にできるようになっている。
「ぼく、は、もう、おにいちゃん、だから」
九歳の男の子が、短い言葉をつないで、それだけを言った。拳をぎゅっと握っていた。
——断る理由が、なかった。
「ありがとう。じゃあ、お願いするね」
頷いた。ルーカスが小さくうなずいた。一瞬だけ、茶色の瞳に誇らしい光が走った。
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夜。エミリアが寝台に入る前、私は膝を折って目を合わせた。
「今夜は、お兄様が隣で寝てくれるって」
エミリアは目を大きくした。
「にいさま、ねてくれるの?」
「うん。お願いしたよ」
エミリアは一瞬、何かを考える顔をした。それから、頷いた。
「……いい、よ」
自分で判断した。私がいなくてもいい夜を、自分で選べる。——それがどれだけ大きな変化か。
毛布を引き上げ、寝間着の襟元を整え、リボンで軽く結んだ栗色の髪を指で撫でた。エミリアは目を閉じた。
「おやすみ、エミリア」
いつもの言葉。いつもの、私が先に言う言葉。
——でも、今夜は。
エミリアの唇が、小さく動いた。
「……おやすみ、なさい」
聞き間違いかと思った。寝台から離れようとしていた足を、止めた。
エミリアはもう一度、今度ははっきりと言った。
「おやすみなさい、せんせい」
——五歳の春に、この子は初めて、自分から「おやすみ」を言った。
そして——「せんせい」と呼んだ。
ルーカスの「せんせい」とは違った響きだった。兄は十一ヶ月の沈黙を破って、この世界にない言葉を自分の意志で選んだ。エミリアは——違う。兄から受け継いだ呼び方を自分の中で温めて、温めて、一年越しに自分の声で呼んだ。
兄が呼ぶから真似たのではない。自分が呼びたい時に、自分の声で呼んだ。
その最初の瞬間が、今夜だった。——初めて朝まで眠った夜の、翌日の夜。
「……おやすみなさい、エミリア」
私の声は、少しだけ震えた。
エミリアは満足そうに目を閉じた。栗色のまつ毛が、枕に影を落とした。
隣の寝台から、ルーカスが黙ってこちらを見ていた。目で頷いていた。「大丈夫、僕がここにいるから」。言葉にしなくても、そう伝わった。
扉をそっと閉めた。
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廊下に出て、壁に背を預けた。
膝から力が抜けた。でも今夜は崩れ落ちなかった。廊下の石の冷たさを背中に感じながら、深く息を吸い、深く吐いた。
窓の外の春の月が細く見えた。雷のない夜の月は静かだ。
「おやすみなさい、エミリア」。「おやすみなさい、せんせい」。二つの「おやすみ」が、耳の中で重なって鳴っていた。
——この子たちは、もう少しずつ、私から離れていく準備を始めている。夜泣きの終わりは同時に——私がいらなくなる日の、始まりでもある。
イルマ様の言葉が、耳に戻ってきた。
——『去る覚悟』と『残る覚悟』。どちらも、重い。
二年目の、最後の夜が、ゆっくりと屋敷を降りていった。
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【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第二アーク「見えない五年間」が始まります。第一アークが「到着と、最初の一年の奇跡」だったとすれば、第二アークは「日々の積み重ねと、その代償」を描いていく十二話になります。
この第十三話で書きたかったのは、「夜泣きが終わった瞬間」というよりも、「夜泣きが終わっていたことに、誰も気づかないまま夜が明けた」という、静かな終わり方でした。百八十夜の約束は、それ自体がクライマックスではなく、その後の「誰も記録しなかった三百夜、四百夜」の積み重ねの上に、ようやく本当の終わりを迎えます。最大の仕事は、当の本人に忘れられていく。それが保育という仕事の本質だと思っています。
エミリアが「おやすみなさい、せんせい」と自分から言う瞬間を書きながら、ルーカスの「せんせい」との対比を意識しました。兄は沈黙の果てに自分の言葉を選び、妹は兄の言葉を温めて自分のものにする。同じ呼び方でも、辿ってきた道が違う。一人ひとりの子供に、一人ひとりの時間がある。
そしてイルマ様の「去る覚悟と残る覚悟」——この言葉が第二アーク全体の通奏低音になります。婚約、任期、そして見えない仕事の重み。引き続きお付き合いいただけたら幸いです。
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