第14話 おほしさまのスプーン
2時間前
2時間前
台所の窓から、秋のはじめの光が差していた。
夕餉の支度までには、まだ少しだけ時間がある。その少しを、私はいつもこうして自分のために使うことにしている。
木片と、小刀と、布で包んだ膝。——台所の片隅に私の小さな工房があった。
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マティアスが二歳を迎えた。
二歳ちょうど。八本目の歯が生え揃って、九本目が下の歯茎に透けて見え始めている。あの布端授乳の夜には掌に載ってしまうほどだった体が、今は両腕でないと抱えきれない。
離乳食は今日で卒業にしよう。——朝のうちにそう決めた。麦粥も野菜も小さく切ってさえやれば、大人と同じ固さで食べられる。ただ、問題は道具だ。
台所には大人用のスプーンしかない。銀の柄の重くて細いもので、子供の手には大きすぎる。この三日、使わなくなった木匙をいくつか並べてマティアスに握らせてみたが、どれも手から滑り落ちた。指の付け根で柄を支えられなかったのだ。
——あの子の手の大きさの、あの子のためのスプーンが、要る。
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朝のうちに、庭師のハイムさんに頼んで、柘植の端材を分けてもらった。
「お嬢様が、ご自分で?」
ハイムさんは眉を上げたが、止めはしなかった。この人は着任した頃からそうだ。私が庭の隅に小さな畑を拓いた時も、同じ眉の上げ方をしただけで鍬の柄を短く詰めて貸してくれた。
「マティアス様の、初めてのスプーンでございます」
「……なるほど」
選んでくれたのは、柔らかくて木目の整った三つの木片だった。一番小さなものを私は選んだ。大人の掌ほどの長さで、幅は指三本分。——ちょうど二歳児の手に収まる寸法だった。
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台所の裏の、勝手口の前。
布を膝に広げて、小刀を握った。
前世でも私は木を削ったことはなかった。保育園のお散歩で枯れ枝を折ってはならないと子供たちに教える側だった。それがこの世界に来て、手仕事を覚えた。
最初の一刀は浅く斜めに入れた。小刀の刃が柘植の木肌に吸い込まれ、薄い欠片が巻き上がる。思ったより柔らかい。甘くて青い樹液の匂いが立ち上った。これがあの子の口に入るのだ。塗装はしない。蜜蝋で磨くだけ。
柄を先に削る。持ち手の真ん中を細くして、指が自然に収まる窪みを作る。マティアスの指の太さは覚えている。おむつを替えるたびに、手を握られるたびに、記憶してしまった。右手の中指が左手のそれよりわずかに太い。
——柄の先端をどうしよう。普通のスプーンなら丸く整えて終わりだ。でもこれは、この子の初めての一本。「これが自分のだ」と一目で分かる形が要る。
天井の梁を見上げた。獣脂灯の煤で黒ずんだ梁に、夕映えが斜めに差し込んでいる。
——星のかたちにしよう。
決めたら手が動いた。
五つの角を持つ星。柄の先端から一センチほどの星。
最初の角を刻んだ時、小刀の先が木から滑って人差し指の腹を薄く切った。血が一滴、膝の布に落ちた。舐めると鉄の味が口に広がった。——痛みは遠かった。
二つ目の角。三つ目。四つ目。——五つ目を彫り終えた時、日はすでに西に傾いていた。
掌の中でそれを光にかざした。小さな星が暮れ方の光の中で、柔らかく翳を落とした。
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掬う部分は、もう少し慎重になった。
深すぎると重く、浅すぎると麦粥が零れる。二歳児の手で零さずに運べる深さ。布端授乳の頃に一滴ずつ数えた深さを、掌の記憶で再現した。スプーン一杯がおよそ五滴。
先月の朝食で私の銀のスプーンを奪い取って、自分で麦粥を運ぼうとした時の、あの得意げな顔。零しながらも皿の縁までは運んだ。意志があった。「じぶんで」という小さな意志が。意志には道具を添えなければならない。
蜜蝋を布に取って、ひと撫で、ふた撫で。柘植の木肌が琥珀色に輝き始めた。柄の星が光を弾いた。棘はない。角もない。二歳の唇に優しい。
できた。
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子供部屋の戸を開けた時、マティアスは毛布の上で積み木を崩していた。
四つ並べては手の甲で払って、笑う。払っては並べ、並べては払う。笑っていれば、それでいい。
「マティアス」
呼びかけると、青い瞳がこちらを向いた。——アンネ様の瞳ではない。エドワード様の瞳でもない。自分だけの瞳。この二年半でそうなった。
「マティアスに、渡したいものがあるの」
私は膝を折って、掌にスプーンを載せて差し出した。
マティアスは積み木から手を離した。よちよちと歩いてきて、私の掌を覗き込んだ。
青い瞳が、まず、星の柄に留まった。
「おほ……し……」
息を呑んだ。——先月、夜空を見せた時に一度だけ私が口にした言葉。「おほしさま、きれいね」。それを覚えていた。言葉は使われない日にも、子供の中で育っている。
「そう。おほしさま。マティアスのスプーンに、おほしさまをつけたの」
マティアスは短い指で柄を摘んだ。私は掌を下から支えたまま、手を離さなかった。この子に「自分で取った」と感じさせるために。
柄がマティアスの掌に渡った。小さな手がスプーンを握り締めた。星のある方を上に向けて。指の位置は、ちょうど私が削った窪みのところに収まっていた。
——合っていた。掌に収まる大きさ、指に収まる窪み、手首の力で持ち上げられる重さ。全部、合っていた。
マティアスはスプーンを高く掲げた。獣脂灯の灯りが星の角に当たって、一瞬、小さな影が天井に落ちた。
「おほしさま」
今度は、はっきり言った。——先月よりもずっと強く。
私は何も言えなかった。ただ膝を折ったまま、その小さな手と、その小さな星と、その小さな声を見ていた。
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食卓に、三人の子供が並んでいた。
ルーカス様、九歳。長い背中を椅子にきちんと預けている。エミリア、五歳の春。髪をリボンで結んでお行儀よく椅子に座っている。そしてマティアス、二歳。高さを調整した椅子の上で、両手で星のスプーンを握っている。
麦粥の器。木の皿に盛った茹で野菜。小さく切った鶏肉。——二歳児の食卓。
「マティアス様の、はじめての、スプーン、ですか」
ルーカス様が短く区切って言った。この半年で文の切り方が目に見えて滑らかになっている。助詞の使い方もだいぶ安定した。
「はい。マティアスのためだけに、彫りました」
「……じぶん、で」
マティアスがスプーンを麦粥の器に突き入れた。私が彫った深さのままに、粥を掬い上げた。——零れなかった。運んだ。——零れなかった。口に入れた。——半分は口の横に塗れたけれど、半分は口に入った。
「じぶん、で! 」
マティアスが叫んだ。椅子の上で、足をばたつかせた。
「すごいすごい、マティアス、じぶんでたべた! 」
エミリアが手を叩いた。この子の手拍子は、二年前のあのリズムの手拍子の真似だ。ルーカス様の手拍子をずっと横で見ていた妹が、自分のものにしている。
「じょう、ず、です、マティアス」
兄の言葉に、マティアスはもう一度スプーンを振り上げた。星の柄が、獣脂灯の下で光った。
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茹でたほうれん草は、食卓の隅の小さな白い皿に添え物として盛られていた。今日から「野菜も少しずつ」と決めていた。粥中心から大人と同じ食材への移行。少しずつ。
マティアスの麦粥と鶏肉は半分ほど減っていた。口の横に塗れている粥を、私は拭きもせずそのままにした。拭いてしまえば「自分で食べた」痕跡が消えてしまうから。
「マティアス。これも、ひとくち、食べてみる? 」
私は小皿のほうれん草を、マティアスのスプーンの上にほんの一切れだけ載せた。
緑の葉が、木のスプーンの琥珀色の上で濃く沈んでいた。星の柄がそれを持ち上げた。
マティアスは首を傾げた。青い瞳が緑の葉を見た。それから私を見た。
私は微笑んだ。「食べても食べなくてもいいよ」という微笑みを。——強制はしない。前世でもここでも、それだけは鉄則にしている。
マティアスは、恐る恐る、スプーンを口に運んだ。
口に入った。——唇が閉じた。一度、もぐもぐした。
——動きが、止まった。
青い瞳が大きく開いた。唇が引き絞られた。それから、唇の端が下がった。
「——っ、」
喉が、詰まった音を出した。マティアスは首を横に振った。一度、二度。両手でスプーンを突き放すように食卓に置いた。星の柄が木の天板に小さく当たって、コッ、と音を立てた。
「……やだ」
声は小さかった。でも、拒否の響きははっきりしていた。
「やだ、やだ、やだっ」
三度目の「やだ」の時には、マティアスは泣き始めていた。口の中のほうれん草を吐き出しはしない。でも飲み込まない。唇を引き絞ったまま、涙だけが頬を伝った。
私は慌てなかった。——慌ててはいけない。この瞬間に私がうろたえれば、マティアスは「緑は危ない」と学んでしまう。
「マティアス、お口、開けてごらん」
膝を折って、食卓の高さに目を合わせた。
「大丈夫。吐き出してもいいよ」
小さな木の皿を、マティアスの口の下に差し出した。マティアスはしばらく迷って、それからゆっくりと口を開けた。噛まれてぐしゃぐしゃになったほうれん草が皿に落ちた。
マティアスはぼろぼろと泣いていた。口の中から苦みが消えても泣き止まなかった。怖かったのだ。自分の口の中で、自分の知らない味がしたことが。
「……にがかったね。びっくりしたね」
指でそっとマティアスの涙を拭った。うなずいた。鼻をすすった。スプーンの柄をもう一度握った。星の形を指でなぞった。——よかった。スプーンは拒絶していない。拒絶したのは緑だ。
「もう、食べなくていいからね。今日は、お粥とお肉で、いいよ」
マティアスは星のスプーンで麦粥をもう一度掬った。口に運んだ。食べた。安心したように小さく笑った。ほうれん草の涙の痕が、笑顔の中に残ったままだった。
隣でエミリアが黙ってほうれん草を食べていた。この子は偏食がない。なんでも食べる。母を失ったあの頃、口が開かなかった日々を越えて、今は出されたものを全部食べる。
「マティアスね、ちいさいから、にがいのは、もうちょっと、あとね」
エミリアは姉らしくそう言って、自分の皿の葉をゆっくりと噛んだ。
——この子たちは互いに育て合っている。私の知らない速度で。
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食事が終わって、マティアスが眠った後、私は台所に戻った。
小さな白い皿に残った、噛まれたほうれん草。獣脂灯の光の下で、それは黒い塊に見えた。
——子供の舌は大人よりも敏感に苦みと酸味を感じ取る。味蕾の数が違うのだ。毒かもしれないものを本能で避ける仕組み。偏食は悪いことじゃない。身を守る機能の一部だ。ただ、そこで止まっていれば栄養は偏る。少しずつ「これは安全」「これは美味しいこともある」と体に教えていかなければならない。
——次の仕事だ。
ノートを広げた。三冊目のノートの今月のページ。獣脂灯の灯りを近づけてペンを握った。
《二歳ちょうど。離乳食卒業。自作の星型スプーンで初めて一人食い成功。麦粥・鶏肉は完食。茹でほうれん草は拒否、吐き出し。泣きながらも星のスプーンは握り直した。道具への信頼は保たれている。拒否されたのは食材。》
少しだけ考えて、次の行に書き加えた。
《次の課題:苦み野菜への段階的な慣らし。甘い野菜から始める。育てるところから参加させる案。庭の畑を広げるべきかもしれない》
ペンを置いた。
——この子は今日、自分で食べ始めた。それが何よりの一歩だ。ほうれん草は明日からでいい。明日も明後日も、何十日でもかけていい。
百八十夜の夜泣きを越えた時の、あの掌の記憶をもう一度思い出した。数えるのは時間ではない。子供が「大丈夫」と思える日までの距離だ。
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子供部屋に戻ると、マティアスの手には、眠りながら星のスプーンが握られていた。——寝台に持ち込んだのだ。緑を拒否した夜に、この子はスプーンだけは離さなかった。
抜こうとして、やめた。朝、起きた時に最初に目に入るのが、この星でありますように。
エミリアはもう眠っていた。去年の今頃はまだ雷の夜に怯えていた子が、今は揺るぎのない寝息を立てている。
「せんせい」
ルーカス様が、本を閉じて、小さく言った。
「……きょう、の、スプーン、ぼくも、いつか、ほし、い、です」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
——九歳の男の子が、二歳の弟のスプーンを、ほしいと言った。
「あら。でも、ルーカス様はもう、銀のスプーンが使えますよ」
「……それは、公爵家の、スプーン、です」
ルーカス様は、ためらいながら、続けた。
「ぼくの、スプーン、が、ほしい、です。……せんせい、の、彫った、ぼくの、スプーン、が」
喉が、詰まった。——公爵家の銀のスプーンは紋章入りの立派なものだ。でも、この子にとっては、それは「公爵家のもの」であって「自分のもの」ではない。
「分かりました。ルーカス様のスプーンも彫ります。マティアスと同じでは、つまらないでしょう? 」
ルーカス様は少し考えた。それから、真面目な顔で言った。
「……ぼくの、は、月、が、いい、です」
月。——エミリアなら、花を選ぶだろうか。
「分かりました。三人分、彫りますね」
ルーカス様は満足そうにうなずいて、蝋燭を吹き消した。——本を閉じていたのではない。私が戻るのを待っていたのだ。この子は相変わらず、全部を見ている。
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廊下に出て、深く息を吐いた。
星のスプーン。月のスプーン。エミリアは何を選ぶだろう。花か、小鳥か、貝殻か。木片はまだ二つ残っている。ハイムさんにもう少し分けてもらおう。
掌を開いた。人差し指の腹に薄い切り傷がひとつ。血はもう止まっている。蜜蝋の匂いが指先にかすかに残っていた。
——今日、私は木を削った。台所の片隅で、誰にも見られずに。その時間を誰も「仕事」とは呼ばないだろう。エドワード様にとっては、私はただ暇な午後を過ごしていたことになる。
でも、柘植の端材は星の柄のスプーンになった。その柄を二歳の掌が握って、初めて自分で食べた。——見られない仕事が見える形になるまでには、こうやって何度も何度も手を動かすしかない。
廊下の窓から、秋の夜空が見えた。細い月が雲の縁に引っかかっていた。——ルーカス様の月は、満月がいいのか、三日月がいいのか。
——二歳の食卓は始まったばかりだ。緑の葉野菜はまだ遠い。でも、遠くても歩けばいつか辿り着く。
百八十夜の先に、朝まで眠れる夜があったように。
苦みの先に、きっと自分で畑を耕す日が来る。
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【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この十四話で書きたかったのは、「道具を彫る時間」そのものでした。物語の大きな出来事ではなく、台所の片隅で誰にも見られずにスプーンを削る、ただその時間。——保育という仕事の核は、そういう「誰も見ていない工程」に宿っているのだと思っています。
星型の柄のスプーンは、前世でうちの近所の離乳食屋さんが売っていた小さなスプーンが着想の元です。星の角が、小さな手の指の位置をちょうど教えてくれる。子供は「自分のもの」だと一目で分かる。大人からは些細な工夫ですが、二歳児の世界では、大きな違いになります。
この話で静かに始まった偏食——次回、いよいよ本格化します。フィオナが「慌てない」という鉄則をどう実践していくか、あの「おほしさまにんじん」の誕生までもう少しだけお付き合いください。
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