第15話 おほしさまにんじん
2時間前
2時間前
台所の隅に、三本のスプーンが並んでいた。
星の柄、月の柄、花の柄。柘植の色がそれぞれ少しずつ違う。昨夜エミリアの花の柄を仕上げたばかりで、蜜蝋の匂いがまだ指先に残っている。
——三本のスプーンが揃ったのに、マティアスの皿だけが今朝もまた緑を残している。
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冬が明けて、マティアスが三歳になった。
走ると頬の肉が揺れる。言葉も増えた。「おほしさまのスプーン」を「おほしさま」と省略し、それを「ぼくの」と続ける。所有の意識が小さな舌の上で芽を出していた。
だが、食卓の緑だけは、遠かった。
茹でたほうれん草は皿に触れた瞬間に指で押し返される。人参の葉も豆の莢も。唇に触れれば泣く。泣けば食卓の空気が沈む。
二歳の秋から、半年以上。百八十日を優に超える。——百八十という数字は、もう一つの約束と重なった。エミリアの夜泣きに寄り添ったあの数字。
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ハイムさんに相談したのは、春の終わりだった。
庭の北側の、使われていない一角。日当たりは午前中だけ。それでも土は悪くない。
「三歳のマティアス様が、緑のものをお口にされませんの。……育てるところから、始めてみたいのです」
ハイムさんは鍬の柄を握ったまま眉を上げた。二年前に私が台所の裏に小さな薬草園を作った時と同じ眉の上げ方だった。
「育てる、ですか」
「自分で蒔いた種が、自分の口に入るまでの時間を、見ていただきたくて」
ハイムさんはしばらく黙って、庭の隅のあの一角を顎で示した。
「あそこなら人参が育ちます。春先に蒔けば、夏の終わりに。子供の舌にはちょうど甘うございます」
人参。——私は息を止めた。
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畑を拓いた日は、朝から風が柔らかかった。
ハイムさんが鍬の先で一辺が三歩ほどの四角を切り取った。土をひっくり返すと、冬の間に眠っていた黒い肌が現れた。石ころを拾い、草の根を抜き、牛糞を混ぜる——ハイムさんの仕事だ。
昼過ぎ。子供たちを呼んだ。
「ねえ、ルーカス様、エミリア、マティアス。ここに、畑を作りましたの」
三人は庭の小道を走ってきた。ルーカスは十歳、もう走り方が大人びている。エミリアは五歳、リボンが風にほどけかけている。マティアスは、三歳の短い足で、二人の後を必死で追っていた。
「はたけ、って、なに」
マティアスが私の膝に手を置いて見上げた。青い瞳が、掘り返された黒い土を見て瞬いた。
「種を蒔いて、お水をあげて、育てるところ。——食べ物の、お家よ」
「たべもの、の、おうち」
マティアスは繰り返した。言葉の輪郭が、舌の上で確かめられていた。
ルーカスが膝を折って、土を一握り掴んだ。指の間からこぼれ落ちる土を見つめた。
「……これ、が、食べ物になる、のですか」
「そう。この土の中で、種が芽を出すの」
ルーカスは握った土をもう一度畑に戻した。優しい手つきだった。土を「戻す」という動作が、この子には自然に出来る。見ていて胸の奥が静かに動いた。
エミリアは、ハイムさんが差し出した種袋に掌を伸ばした。薄い茶色の砂粒のような種が少しだけ載った。
「こんなに、ちいさいの」
「小さいものが、大きくなるんです。お嬢様」
エミリアは、もう片方の手で息から種を庇うように覆った。——この子は小さなものを大事にする。三歳の頃から、そうだった。
マティアスは姉の掌を覗き込んで、自分の右手をその上にそっと添えた。
「マティアスも、まく」
姉弟で、一粒ずつ、畑の端に落とした。指で、土を薄くかぶせる。
ルーカスが畝の右端、エミリアが真ん中、マティアスが左端。ひとり一列ずつ。マティアスの列は種が団子になって落ちていた。間引かねばならないだろう。でも今は言わない。蒔いたという事実だけを三歳の掌に覚えてもらう。
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翌日から、朝の散歩の終わりに、必ず畑に寄った。
マティアスは自分専用の小さな木桶を持っていた。ハイムさんが古い酒樽の縁を切って作ってくれた。三本の指で握れる把手がついて、水は桶の半分まで。
畑の端でマティアスは木桶を傾ける。水はほとんどが隣のエミリアの列まで流れていく。でも、それでいい。水をやるという行為そのものが、この子には仕事だ。
エミリアは小さな如雨露、ルーカスは井戸から自分で汲む水桶。——ばらばらでいい。一緒にやることが大事なのだ。
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芽が出るのに、二週間かかった。
最初の芽を見つけたのはエミリアだった。朝、畑に近づいた瞬間に、あの子が小さく声を上げた。
「せんせい、せんせい」
五歳のエミリアが私を呼ぶ声は、一年前から変わった。もう私の袖を引っ張ることも、涙声で呼ぶこともない。ただこの声には、何かを見つけた時の小さな興奮が混じっていた。
「みて、これ」
エミリアの指が畝の真ん中を指していた。茶色い土の上に、針の先ほどの緑が二つ。双葉だった。
「——芽、ね」
息が、少しだけ震えた。
マティアスがエミリアの肩越しに覗き込んだ。青い瞳が緑の双葉を捉えた瞬間。——あの瞳に光が灯った。
「みどり」
マティアスが言った。
——初めてこの子は「緑」を自分から口にした。怯えではなく、発見として。
「そう。みどりだね。これが、ちっちゃな人参の、赤ちゃん」
「……にんじん、の、あかちゃん」
マティアスはしゃがみ込んだ。顔を双葉のすぐ近くまで近づけた。
「ねえ、おきてる?」
双葉に話しかけていた。まだ目もないはずの双葉に、三歳の子供が朝の挨拶をしていた。
——私はノートを開かなかった。書きたかった。でも書いてしまえば、この瞬間が「記録」になってしまう。今だけは、ただ見ていたい。
マティアスは次の日も、その次の日も、双葉に話しかけた。「おはよう」「げんき?」——自分が母アンネから受け取れなかった朝の挨拶を、双葉に渡していた。
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初夏。葉が手のひらほどに育つ頃、ヒルデが庭を通りかかった。
灰色の髪を後ろで厳しくまとめた痩せぎすの背中。教鞭は、常のように、持っていた。目が合った。
「メルツ嬢。貴族のお子様方が土にまみれておられるのは、いかがなものでしょう」
声はいつもの低さだった。でも以前のような、体の芯まで凍らせる冷たさはなかった。ヒルデの視線は、私ではなく畑の子供たちの方にあった。マティアスが手に土をつけたまま、ルーカスに何かを尋ねている。ルーカスが静かに答えている。
「遊ばせて、いらっしゃるのですか」
——遊ばせている、と言い切られれば、反論する言葉は用意してあった。でも今日のヒルデは「遊ばせているのですか」と問いにしていた。語尾の違いに、私は息を呑んだ。
「……マティアス様の食育でございます。緑の野菜をお口にされません。自分で育てたものなら、と」
「食育」
ヒルデはその言葉を、口の中で転がすように繰り返した。しばらく黙って教鞭を持ち直し、小さく頷いた。
「……左様ですか」
踵を返して、母屋の方へ歩いて行った。足音が石畳の上で、普段よりほんの少しだけ遅かった。
——30年の信条は一日で変わらない。でも「遊ばせているのですか」と問いにすることはできる。それは30年の中の、小さな軋みだった。
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夏の盛り。葉が腰の高さまで茂った日、ハイムさんが「そろそろ」と言った。
「収穫、でございます」
マティアスは畑の真ん中で、緑の葉の森を見上げていた。三歳の背では、人参の葉はもう頭を超えている。
「ぬく、の?」
「そう。土の中の、人参を、引っ張るの」
マティアスは葉の茂みに手を伸ばした。両手でひと茎を掴んだ。ハイムさんが後ろからマティアスの腰を支えた。
「せーの、で、ですよ」
「せーの」
マティアスが、息を吸った。
「——せーのっ」
葉が抜けた。土の下から、橙色の細い人参が根ごと引き抜かれた。マティアスの背丈ほどの長さはあったが、先端は二股に分かれていた。不格好な、一本目の人参。
マティアスの口が開いたまま閉じなかった。青い瞳が、自分の手の中の橙色を食い入るように見つめていた。
「……にんじん」
「そう。マティアスが、育てた、にんじん」
「マティアスの、にんじん」
その声の、誇らしさの震えを——私はノートに書き留めたくなかった。書けば、この瞬間は過去になってしまう。ただ見ていたかった。
エミリアもルーカスも、それぞれの列から人参を抜いた。エミリアのは真っ直ぐで美しい。ルーカスのは細くて長い。マティアスのは二股。——形が違うから、それぞれの人参だった。
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台所に戻って、人参を洗った。
井戸水で土を落とす。橙色の肌が水の中で次第に鮮やかになっていく。マティアスは踏み台の上に乗って、自分の二股の人参を両手で握って放さない。
「これね、これから、お料理するの」
「きっちゃ、だめ」
マティアスは人参を胸に抱え込んだ。橙色の泥が白い前掛けを汚した。——切るのが惜しいのだ。自分で育てたものが形を失うことが、受け入れがたい。分かるからこそ、次の一歩が要る。
まな板の上にルーカスの人参を置いた。輪切りにした一枚を取り上げて、包丁の先で小さな角を五つ慎重に刻んだ。——二年前に台所の裏で星型のスプーンを彫った時と、同じ手つきで。
橙色の、五つの角を持つ星がまな板の上に残った。
「マティアス、見て」
マティアスが踏み台の上で伸び上がった。星型の人参を、私は指でつまんで目の高さに掲げた。
「——おほしさま」
息を呑む音。
「おほしさま、にんじん」
声は、小さく、震えていた。
「そう。おほしさまにんじん、っていうの。マティアスのにんじんで作ったのよ」
「ぼくの、にんじん、で、おほしさま」
——意味の連鎖が、この子の中で繋がっていく。自分が蒔いた、自分が育てた、自分の人参。それが星の形になった。星の形は、自分のスプーンの柄と同じだ。全てが「ぼくの」に収斂していく。
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夕餉の食卓。
マティアスの小皿の中央に、橙色の五つの星が並んでいた。輪切りではなく、星型。周りには細く切った葉を、ほんの少しだけ。味付けは塩だけ。蒸しただけ。
「いただきます」
マティアスは星のスプーンで、星型の人参を慎重に掬った。両足を椅子の上で揺らしながら。
口に運んだ。唇が閉じた。ひと噛み、ふた噛み。
——動きが止まった。
青い瞳が大きく開いた。その瞳の開き方は、二年前の秋に初めてほうれん草を口にした時と同じだった。あの夜、この子は唇を引き絞って涙だけを落とした。
今夜も唇が引き絞られた。胸の奥が一瞬ひやりとした。でも動かなかった。慌てない。二年前の、あの夜の鉄則。
マティアスはもう一度噛んだ。それから——呑み込んだ。
「——あまい」
声が、漏れた。
「あまい、よ、せんせい」
「……甘いね」
マティアスはもう一つ星型を掬った。今度はためらわずに口に運んだ。
「ねえね、にいに、おほしさま、あまい」
エミリアが笑って、ルーカスは、小さく頷いた。
「あまい、みたい、だね」三年前は一言も話せなかった兄が、弟の発見を兄らしい穏やかさで受け止めている。
エミリアが、自分の星型をマティアスの皿に一つだけ移した。
「ねえねの、も、あげる」
マティアスは、それも食べた。
——五つの星が、六つ、七つになって皿から消えていった。そして皿の隅の、細く切った緑の葉にも、マティアスのスプーンが伸びた。
葉を、掬った。口に運んだ。噛んだ。
「……にがい」
言った。
でも、今日は、吐き出さなかった。呑み込んだ。
「にがい、けど、——ぼくの、にんじんの、は、だから」
声は小さかった。三歳の語彙で何とかつないだ一文だった。
——自分のだから、呑み込む。
それが、この子の最初の「呑み込み」だった。
私は台所の方を向いて、袖口で目を押さえた。——泣かなかった。だが目の奥が熱かった。去年の廊下で、泣かない鉄則は完全に崩れたはずだった。なのに今夜は笑いたかった。笑うように息を吐いた。
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食事のあと、マティアスを寝かしつけて、私は台所に戻った。
まな板の上に、使い残した人参の端切れがいくつか残っていた。星にならなかった部分。不格好な輪切り。それを私は小皿に集めた。
ノートを開いた。三冊目の、夏のページ。
《マティアス三歳の夏。自作畑の初収穫。人参の星型を「おほしさまにんじん」と命名。当人の命名。初めて緑の葉を呑み込む。甘い→苦い→「ぼくのにんじんのはだから」と呑み込み。自己所有と食行動の結合。》
ペンを止めた。次の行に、もう一行、書き加えた。
《次の課題:人参以外の緑。少しずつ。急がず。》
ペンを置いた。蝋燭の光が、紙の端で揺れた。
——見えない仕事の今日の分が、ノートの中に静かに降りていった。
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廊下を歩いて自分の部屋に向かおうとした時、離れの方からマルタが小走りでやってきた。
「フィオナ様」
夜、マルタが小走りになるのは、珍しかった。
「……イルマ様が」
胸が、一度、跳ねた。
「お倒れになったわけではございません。ただ、今日は一日起き上がれませんでした。お食事も少ししか」
「——そう、ですか」
「フィオナ様。先日、イルマ様が、わたくしに仰いました。『あの記録は、いざという時のために、マルタ、あなたが預かりなさい』と」
マルタの声は、いつもの落ち着きを保っていた。でも、いつもより少しだけ遅かった。
「イルマ様は、ご自分が動けなくなる日を——考えておいでです。そして、フィオナ様の任期のことも」
任期。——エミリアが、もうすぐ六歳を越える。養育係の役目が、形式の上では終わる。
マルタは、深く頭を下げた。
「差し出がましきことを申しました。お休みくださいませ」
廊下の奥に、マルタの背中が消えた。
私はしばらく、廊下の窓の外を見ていた。夏の夜空が星を抱いていた。——マティアスの畑の上にも、同じ星が降っているはずだ。
二年前の秋、私は、星型のスプーンを彫った。
今年の夏、マティアスは星型の人参を、自分の舌で呑み込んだ。
——そして、もう一つの別の終わりが、静かに近づいていた。
「去る覚悟」と、「残る覚悟」。
イルマ様の言葉が夜風に混じって、廊下の石壁にもう一度反響した。
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【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この十五話で書きたかったのは、「食べる」の前にある「育てる」という時間でした。子供の偏食を、叱って直すことも、隠して食べさせることも、実はそれほど難しくありません。でも、それでは、その子の舌は、食べ物に対して開かないままです。
自分で蒔いた種が、自分の皿に届くまでの数ヶ月。その時間だけが、「苦いのに、呑み込む」という、三歳の小さな選択を生みます。「ぼくの、にんじんの、葉だから」——この一行を書きたくて、前の二話がありました。
前世でうちの近所の保育園に、園庭の隅に小さな畑がありました。年長さんが植えた野菜を、年中さんが水やりをして、年少さんが収穫する。みんな泥だらけで、みんな、少しだけ、苦いものを食べられるようになります。食育というのは、栄養の話ではなく、「自分のものを、自分で受け入れる」練習なのだと、そこで教わりました。
畑の片隅で、ヒルデが「遊ばせているのですか」と語尾に問いを残したこと——これは、三十年の信条が軋む、最初の音でした。Arc 2の後半で、この小さな軋みが、どう育っていくか。引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。
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