幕間:同じ目
2時間前
毛布の縁が鼻の下まできていた。
獣脂灯の細い芯が壁の角に小さな光を一粒だけ置いている。寝台の反対側ではマティアスの寝息が長い方と短い方を二度ずつ繰り返していた。
エミリアは毛布の中で枕の下の栗色と藤色の二本のリボンの羽に指先をそっと当てた。藤色の方が今日は少しだけねじれている。広間の前で結び直したその癖がまだ残っていた。
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広間で会ったあの方の扇の匂い。
それはお庭の花の匂いではなかった。絹の上にもう一層べつの高いつめたい匂いが置かれていて、その匂いのちょうど真ん中のところに碧い目があった。
——わらっているのに、めが、こわい。
さっき先生の袖口を摘みながら口から出てしまった言葉を、エミリアは毛布の中でもう一度口の中だけで転がした。
おなじめ。
四音の短い言葉が口の中でなんだか重かった。
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どうしてそう思ったの。
先生は聞かなかった。聞かないまま隣に腰を下ろしてくれた。でも自分の中では、エミリアは今、自分にそれを聞いていた。
お父様の目と同じだとは思わなかった。お父様の目はわたしたちのすこし上のところを見る目で、まっすぐなのに顔まで届かない。
あの方の目はちがった。扇の向こうでころころと動いて、わたしの藤色のリボンの上を一度通った。でもリボンの色を見ていなかった。
見ていないのに笑っていた。
見ていない人が笑うとき、その目の中にはなにも映らない。なにも映らない目を、エミリアは知っていた。
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——だれも、わたしのなまえを、よんでくれない。
三歳のころのいちばん下の古い古い層のところに、そういう夜があった。もうすこしも覚えていないはずなのに、名前のない寂しさの形だけが胸のすこし下にざらざらと残っていた。
あのざらざらとおなじ形のものが、今日あの方の目の扇の内側にあった。
だから「おなじ」と思ったのかもしれない。
うまく説明はできない。七歳半の言葉はまだ足りない。
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マティアスの寝息がまた長い方と短い方を二度ずつ繰り返した。
マティアスは広間で「マルティン」と呼ばれた。お父様の誤称の続きだ。台所の暖炉の前ではマルタが正しい名前で呼んでくれる。
だれかが呼びそびれたら、だれかが拾う。広間の端で拾えない名前が台所の端では拾われる。台所でも拾えない名前は、きっと子供部屋のこの毛布の中で拾われる。
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あの方の名前を、エミリアはまだ知らない。扇の内側の甘い声と碧い目の動きと絹の水色のことしか覚えていない。
——あのひとの、なまえを、だれか、よんで、あげる、ひとは、いるのかしら。
知らないまま「すきじゃない」で閉じておくこともできた。そのほうがきっと簡単だった。
でも今夜はそこまで固くは閉じられなかった。
先生が隣に腰を下ろしてくれたから。
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獣脂灯の芯が壁の小さな光の粒を一度細く震わせた。
エミリアは枕の下の二本のリボンの羽の藤色の方を少しだけ整えた。それから毛布の縁を鼻の下よりもう一段、口のところまで上に引き上げた。
口の中の「おなじ目」の四音は、もう転がすのをやめた。説明できない言葉を説明できないまま、胸のいちばん下の層にそっと下ろす。下ろしておいて、あとでまた考える。
下ろす場所を知っている夜は眠れる。
まつげの端が一度ゆっくり下りた。マティアスの寝息の長い方の三度目に、エミリアの息も重なった。