第22話 名前を呼ばれない春の、長い午後
2時間前
2時間前
朝の廊下の最初の角で、挨拶の頭下げを目で受け取らない人になられた。
春の光が斜めに差す広間の手前の廊下。三ヶ月前の冬の朝までは、肩の動きの気配だけがこちらに返ってきていた。今朝はそれも返ってこなかった。絹の袖口の縁が、こちらに目を留めずに廊下の石の上を通り過ぎていっただけだった。
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クリスティーナ様が初めて広間にお見えになった冬の終わりから、春が一段進んでいた。庭の桜に似た木の花はとうに散って、薄緑の若葉に入れ替わっていた。広間の卓の花も水色から淡い紅に取り換えられていた。
五冊目のノートは、深い赤の表紙のまま、机の上で四冊目の黒の隣に置かれていた。机の一番下の引き出しの奥には、冬から預かっている薄い布の包みが変わらず静かにそこにあった。開かないと決めた日から、指一本分の塵が包みの上に薄く積もっていた。
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その朝、朝食の鐘の前に、本館の廊下を離れの方へ歩いていた。
広間の前の廊下の中ほどで、向こうからエドワード様が一人で歩いてこられた。上質な絹の室内着のままの朝の装いだった。
私は廊下の端に寄って頭を下げた。
「おはようございます」
三年前なら鼻先の「む」のような音が返ってきた。一年前の冬には目線の高さのほんの僅かな上下で返事の代わりが渡されていた。三ヶ月前の冬の朝には「ご苦労」の四音節が一度だけ廊下の石に落ちた。
今朝はその四音節も落ちなかった。
エドワード様の視線は私の頭下げの位置より半歩上の壁の漆喰の上を通り過ぎた。足は止まらなかった。絹の袖口の縁だけが私の耳の横を一度過ぎていった。
頭をゆっくりと上げた時には、もう背中しか見えていなかった。
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離れの戸の前で、マルタがいつもの半歩下がった位置で私を迎えた。
「……フィオナ様。イルマ様、昨夜お熱が戻られまして。今朝は面談はお控えいただく方が、と」
「……承知いたしました。またの機会に」
マルタは頭を下げて、けれどすぐには下がらなかった。廊下の先の空気を、目で確かめるように見た。
「フィオナ様」
「ええ」
「本日の午後、ハウザー伯爵家のご当主様とご令嬢様がお越しになられます。書面の方は……お話が、進んでおられるご様子で」
書面の方はお話が進んでおられる。マルタは「婚約」という二文字を避けて、迂回の道順でその事実を私の耳に置いた。
「……そう」
マルタはもう一度頭を下げて下がった。薬湯の匂いが廊下の石の上にひとすじ流れていた。
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本館の廊下を戻る途中、使用人の控えの戸の手前で、二人の声が薄く耳の端をかすめた。
「……書面のお名前は、春の終わりまでに書き換えられるそうよ」
「辺境の方へというお話は、ずいぶん前から台所ではね」
私の足音に気づかれて会話は一度止んだ。いつもの速さで通り過ぎた。
頬の内側に何かが走った。三ヶ月前までなら袖口の縁に指を当てていた。今朝は持っていかなかった。
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子供部屋に戻ると、マティアスが戸の内側で私を待っていた。
「せんせい」
両手で星のスプーンを握っていた。掌の中で柄の星形の先端が少し白くなっていた。握る力の名残だった。
膝を曲げてマティアスの目の高さに降りた。マティアスは星のスプーンを握った両手の脇で、スカートの裾の縁を指先だけでそっと摘んだ。頷いてからも裾の指を離さなかった。
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朝食の席で、私は昨夜の残りの汁物の頼み事を台所のマルタに二言告げに立った。ほんの数歩の距離だった。マティアスは麦粥の匙を途中で止めた。
「……せんせい」
呼ぶ声の最後の「い」の音が、台所までは届かない小ささだった。エミリアが指先でマティアスの肩にほんの軽く触れた。
「せんせい、だいどころに、いってるだけよ」
「……うん」
三ヶ月前までなら台所に二言の用事で立つくらいは何の縁にも触れなかった。今朝は数歩の距離が五歳の掌の中で一度、長い廊下の長さに変わっていた。
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読み書きの時間、ヒルデ先生はいつも通り厳しい声だった。エミリアの筆を持つ右手の、親指と人差し指の間の白い皮膚が、いつもよりほんの少し薄く張っていた。
ヒルデの視線が机の四冊目と五冊目のノートの背表紙に一瞬だけ留まって、すぐ廊下の方へ外された。三十年の信条は三十年の場所に戻っていた。ただ戻る速度が、以前より半拍ゆっくりだった。
ルーカスが自分の石板の端に縦の線を新しく一本引き足した。いつもの格子が今日は縦が一本多くなっていた。
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午後、ハウザー伯爵家のご当主様とご令嬢様が馬車でお越しになったのを、窓辺で子供たちと一緒に見た。
エミリアが窓枠の縁を指先で軽くなぞった。
「……あのひと、また、きたのね」
「ええ」
「こんどは、しょうめんから、おうちの、なかまで」
七歳半の短い一文の、語尾の冷たさだった。
ルーカスは窓辺の一歩後ろで立っていた。石板は手にしていない。右手の指先を左手の掌の上で一度静かに畳むと、その拳を胸の高さで一秒止めた。それから開いた掌を、マティアスの肩に一度軽く置いた。
「マティアス。今日はお兄様と、星のスプーンで木の汁を掬う練習をしないか」
「するする」
裾の縁を摘んだ指は離れなかった。ルーカスはその指を無理には離さなかった。
十二歳の兄の、今日の手の置き方だった。
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夕刻、馬車の車輪の音が玄関の前から遠ざかっていった。マルタが子供部屋の戸を薄く叩いた。
「フィオナ様。今日の茶会の席は、先ほどお開きになりました。エドワード様は書斎にお戻りで。お夕食の席は、今夜はご一緒にはならない、とのことで」
「……承知いたしました」
マルタの目が戸の内側で一度私の目に合った。冬の離れの廊下で「いざという時」の意味を無言で伝えた時と同じ目だった。けれど今日はもう一段、重さが減っていた。受け入れた、という種類の静かさだった。
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夕食の後、マティアスはいつもより早く星のスプーンを枕元に置いた。
「せんせい。ねるときも、そこにいていい?」
「いてもいいわ。寝息が揃うまで、ここにいますからね」
「ずっと?」
「今、ここにいるよ。ずっと、今、ここに」
前の冬にエミリアに返した一文と同じ形の答えを、五歳の耳にも同じ言葉で置いた。マティアスは口の中で一度繰り返した。二度目はもう、ほとんど寝息に呑まれていた。
スカートの裾の指は、寝息が深くなってからもしばらく離れなかった。
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マティアスの寝息が深くなってから、寝台の反対側でエミリアが毛布の上に膝を立てていた。毛布の中ではなく毛布の上。膝を両腕で抱えて、顔を膝頭の間に半分埋めていた。七歳半の体の、いちばん小さく畳める形だった。
寝台の縁に腰を下ろした。栗色の巻き毛の先がほんの僅か震えていた。震え方は、冬の夜泣きの時の全身の震えとは違った。肩のいちばん上の小さな筋肉の、ひとつだけが細かく動いていた。
背中に手を置かなかった。膝を抱えた両腕の、肘の外側のほんの少し離れた空間に、自分の手を開いて置いた。触れないままの手。前世の保育士の古い癖。泣き方の種類を、触れずに待つ癖だった。
しばらくした。
「……せんせい」
膝頭の間から細い声が出た。
「ええ」
「……くやしいの」
悔しい、という四音節が七歳半の口から初めて出た。
「どんな悔しさ?」
冬の広間で「こわい」の種類を問い返した時と、同じ問いかけの形だった。
「……ちちうえが、きょうのあさ、せんせいをみて、くださらなかった。はいりぐちで」
朝の廊下の一瞬。子供部屋にいたはずのこの子がそれをどこでどう知ったのか、私は尋ねなかった。多分、誰かの使用人の廊下の囁きの粒を拾ってしまったのだろう。七歳半の耳は、どの粒も勝手に落ちてこないのに、勝手に入ってきてしまう年齢に、もう来ていた。
「……それが悔しかったの」
「うん」
エミリアは膝頭の間でもう一度目を閉じた。
「せんせいは、わたしたちのせんせいなのに。ちちうえが、せんせいのことをみてくださらないのが。……うちで、せんせいがちっちゃくなっていくみたいで」
小さくなっていく。七歳半の語彙が今日、もう一つ新しい一語を獲得した。
膝頭に埋めた顔から、涙が一粒、毛布の縁に落ちた。夜泣きの涙ではなかった。冬の袖口の涙でもなかった。もう少し冷たい。名前をつけるなら、「わたしの大切な人の、うちでの大きさが削られていく」のを見てしまった子の、悔しさの涙だった。
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「せんせい。わたし、あしたのあさ、ちちうえにごあいさつしにいっていい?」
「……いいわよ」
「そして、ちちうえに『せんせいのおはようも、きこえますか』って、きいてもいい?」
七歳半の計画。言葉の選び方の正確さに、私は一度、息を深く継いだ。
「……エミリア。その問いは、あなたがしたいならしてもいい。でも、あなたが先生のために、父上に代わりに聞いてあげようとするのなら、やめておきましょう」
「どうして」
「あなたが父上に代わりに聞いてあげた瞬間に、先生の朝の挨拶は、あなたの宿題になってしまうの。朝の挨拶の音の大きさは先生の仕事。父上の耳の向きは父上のお仕事。その間に、エミリアの七歳半の、まだ柔らかい首の向きを挟ませたくはないの」
エミリアはしばらく黙っていた。膝頭に埋めた顔の位置が、少しだけ上がって下がって、また上がった。
「……じゃあ、わたし、なにをしたらいい?」
「今夜は悔しいと言葉にできた、それがもう十分。明日の朝は先生に『おはよう』を、先生の声と同じ大きさで返してちょうだい。それだけで先生の朝の挨拶は、邸の中で消えないの」
エミリアは膝から顔をもう一段上げた。目の縁の濡れはそのままだった。でも、膝を抱える腕の力は、ほんの少しだけ抜けた。
「……うん」
保留の「うん」ではなかった。今日の「うん」には、もう一段、決めた響きが混じっていた。
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エミリアの寝息が深くなる頃、寝台の一番奥の小さな机の前で、ルーカスが石板を手に取っていた。眠る前の、いつもの十分の自分の時間だった。
「ルーカス。今日はもう、しまってもいいのよ」
「……もう少しだけ」
ルーカスの石板の格子は、いつもの三段四列ではなかった。五段五列の細かい格子の中に、鉛筆の小さな丸と小さなバツと小さな波線が散らばっていた。
「……新しい形なのね」
「はい。きょう一日で気づきが増えましたから。三段だと入り切らなくて」
「せんせい。ぼく、ちちうえのことを『父上』と呼ぶのを、やめますとは言いません」
「ええ」
「でも、ぼくの『父上』の呼び方は、すこしずつ薄くなってきています。ぼくがわざと薄くしているのではありません。呼んでも返事がうすくなってきているから、ぼくのなかで呼び方もうすくなる」
石板の鉛筆の先が一度止まった。
「せんせい。それは悪いことでしょうか」
十二歳の静かな問いかけだった。
「……悪いことではないわ。呼び方の濃さは、呼ぶ人と呼ばれる人の二人で決めるもの。片方の方の返事が薄くなっていけば、呼ぶ方の濃さも自然に薄くなる。ただ——」
「ただ」
「それが薄くなった分の、あなたの声の濃さが、他のどこかにちゃんと残されていれば大丈夫なの。弟や妹に、友達に、先生に。——薄くなった分をどこにも回さずに、ただ閉じ込めてしまうと、呼び方は薄くなった先で壊れてしまう」
ルーカスは鉛筆を石板の端にそっと置いた。
「……ぼくは閉じ込めません。マティアスにも、エミリアにも、先生にも、呼びかけの濃さは減らしません」
「それなら、いいの」
ルーカスは石板の格子の、いちばん右下の升の中に、小さな丸を一つ足した。
「今日の、安心の印です」
ルーカスの呼び方は、父の方向で薄くなり始めていた。十二歳の中で、その薄さの分を、他の三人の方向に黙って足し直していた。
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三人の寝息が揃ってから、机に向かった。五冊目の、深い赤のノートを、開いた。
《エドワード様、朝の廊下で挨拶の頭下げを目で受け取らず。冬の「ご苦労」からはさらに一段遠ざかる。書面の方のお話は進行中との伝聞。台所の噂の中で辺境の地名が薄く混じる》
《マティアス、五歳。私の裾を手の届く距離で摘み続ける。明日、裾に一度結び目を作って、「結び目に触ると、裾がぎゅうと返事をするの」と遊びの形で、分離の不安を少しずつ地図化する》
《エミリア、七歳半。夜、膝を抱えて冷たい種類の涙を一粒。「せんせいが、うちでちっちゃくなっていくみたい」。悔しさという感情に名前を、今日つけられた。七歳の子に、父親の朝の挨拶の音量を代わりに問いに行かせない。その境界線を今夜引いた》
《ルーカス、十二歳。父への呼び方の濃さが、自然に薄くなる段階に入った。薄くなった分を弟妹と先生に黙って足し直す。この子の中の呼びかけの総量は減っていない。動き方が変わっただけ》
《マティアスの靴紐、まだ結べない。明日また一緒に練習する》
書き終えてページを開いたままにしておいた。最後の一行の「一緒に」の三文字の鉛筆の跡が、紙の上で少しだけ濃くなっていた。
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机の一番下の引き出しの奥には、冬から預かっている薄い布の包みが、まだ静かに置かれていた。「いざという時」は今日でもなかった。でも、冬の夜より今夜の方が、包みの輪郭が暗闇の中で、ほんの少しだけ近くに見えた。
明日の朝、エミリアの「おはよう」は、先生の「おはよう」と同じ大きさで廊下の石の上に置かれる。七歳半の決めた「うん」が、朝の廊下の一拍を一緒に満たしてくれる。マティアスの裾の結び目を、明日作らなければならなかった。靴紐の結び方の練習の、その前の一段手前の結び目の練習だった。
鉛筆の先を机の端にそっと置いた。五冊目のノートは開いたまま。廊下の奥で、夜の鐘が一つ鳴った。
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【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この二十二話で書きたかったのは、大人の問題が、静かに、子供部屋の扉の内側に、にじんでくる春の、長い午後でした。婚約破棄の噂は、本人たちの口からは、まだ一度も、はっきりとは語られません。語られないまま、使用人の廊下の湿り気や、書面の進行の伝聞や、朝の廊下で目を受け取らない父上の背中として、少しずつ、邸の空気を変えていきます。
大人の問題を、子供はどう察するのか。三人三様の表れ方を、等しく並べたつもりです。ルーカスは黙って、観察の格子を一段、細かくします。父への呼び方の濃さが薄くなり始めたことに、自分で気づき、薄くなった分の声を、弟妹と先生の方向に、黙って足し直します。エミリアは、夜泣きとは違う質の涙を一粒、毛布の縁に落とします。フィオナが朝の廊下で目を受け取ってもらえなかったことを、使用人の囁きの粒で拾ってしまった七歳半の、悔しさの涙でした。マティアスは、裾を離さない。手の届く距離に、常にフィオナがいてくれないと、スプーンの匙が、口の途中で止まってしまう。五歳の分離不安の、いちばん素直な形です。
フィオナの答えは、三通り、違います。マティアスには、手の届く距離を、明日、裾の結び目として、遊びの形で地図化する。エミリアには、「悔しい」と言葉にできたこと自体を祝福して、ただし「七歳の首の向きを、父上の耳の向きに挟ませない」という境界線は、きちんと引く。ルーカスには、薄くなった呼びかけの濃さを、どこにも回さずに閉じ込めることだけは避けようね、と、十二歳の中での、呼びかけの総量の配り方を、一緒に確認する。三通りの手の置き方を、同じ一つの夜に、三人別々に渡すのが、この子たちの先生の仕事でした。
次回、マティアスが裾の結び目の練習から、靴紐の結び方の練習へと進みます。「できるようになったら、どこにでも自分の足で行けるよ」——その一言が、五歳の掌の中に、いつ、届くのか。マルタの目が、どこで、一度、水を含むのか。引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。
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