第23話 どこにでも行ける足
2時間前
2時間前
冬の午後の子供部屋の床に、小さな革の靴が片方だけ倒れていた。
もう片方はマティアスの短い足の先に半分だけ履かれていて、掌の中で細い革紐の端が二本、行き場を失って揺れている。
「せんせい。きょう、もう、いっかい、やる」
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その冬は、春の朝の廊下で名前を呼ばれなかった一拍から、三度季節を渡った先の冬だった。庭の向こうの桜に似た木の枝は葉を落とし、細い骨の輪郭だけで灰色の空に立っていた。暖炉の火が部屋の奥で低い音を立てていた。
机の上の深い赤の五冊目のノートは、開いたまま残りの白いページを幾枚か残していた。隣には黒の四冊目と深緑の三冊目が閉じられて並んでいる。机の一番下の引き出しの奥には、冬から預かっている薄い布の包みが、まだ静かに置かれていた。
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朝食の後、暖炉の近くの絨毯の上にマティアスを座らせた。私は絨毯の縁に斜めに腰を下ろし、膝を一段折ってマティアスの頬の下の高さに目を合わせた。
「マティアス。今日は、お外には出ないけれど、お部屋の中で靴を履く練習を、しようね」
「うん」
マティアスは片方の靴を両手で持ち上げた。去年の冬に新しく仕立てられたもので、紐の色は柔らかい麦わら色。掌の細さにも指の短さにも届きやすい色を選んでもらった。
小さな右の手が紐の片端を摘み、左の手がもう片端を摘んだ。二本の細い革紐が掌の上で一度交差する。交差のあと、五歳の指はそこから先の道順を探した。右手の親指と人差し指が一瞬止まってまた動いた。紐は掌の上でゆるく膨らみ、すぐに崩れた。
「……あれ」
「もう一度、やってみる?」
「うん」
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マティアスの最初の結び目は、結び目にならなかった。輪は三拍の間ふくらんで、四拍目にほどけ、紐はまた二本のただの紐に戻った。
「……せんせい。ほどけた」
「ほどけたわね。もう一度、できるわよ」
「うん」
二度目の挑戦で、マティアスの薄い桃色の下唇が内側に小さく引き込まれた。集中する時の癖だった。二歳の偏食の畑で人参の芽に水をやる時も、同じ下唇を同じ角度で嚙んでいたものだ。
今度は右の紐が先に上に乗った。輪を作る途中で短い親指が紐の端を押さえようとしたが、押さえる前に紐がするりと抜けた。
「……あ。いっちゃった」
「行っちゃったわね。拾おうね」
革紐の先を膝の脇から掬いあげ、掌に両端を置き直した。自分の手では結んであげなかった。結び方の手順を指で見せて差し上げることも今日はしなかった。見せすぎれば見る力は育つけれど、自分で迷う力は育たない。
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三度目、四度目。
三度目で、輪は一度完成しかけた。左の紐が右の輪の穴を潜り始め、潜って、そして抜けた。抜ける瞬間にマティアスの大きな青い瞳がぱちりと瞬いた。
「……せんせい、みた?」
「見たわよ。お穴に、入ったね」
「はいった」
「入ったあと、出るのが早かったね。もう少しだけゆっくりでも、いいかもしれないね」
マティアスは自分の口の中で「ゆっくり」を一度転がし、それからもう一度紐の両端を摘んだ。
四度目。輪の穴が三度目より大きくなっていた。通る先を目で確かめてから紐を通す。通ったあと右手が押さえにいったが、押さえる前に左手の力が抜けて輪はまた解けた。
「……あー」
小さな声が下唇の内側で止まった。五歳の涙の、ほんの一歩手前の音だった。
膝の上にそっと両手を置く。マティアスの眉間の細い皺が浅く寄って、解けて、また寄った。
「マティアス。今、悔しい?」
「……くやしい、とは、ちがう」
五歳の語彙がひとつ、自分の手札を確認した。くやしい、は違う。姉が夜に使った四音節を、弟はまだ自分の手札には数えていなかった。
「……くやしい、じゃ、ない。もう、じぶんの、ゆびが、いうこと、きかない」
指が言うことを聞かない。子供の身体感覚の、いちばん素直な地図だった。それを五歳の口が、自分の言葉で言い当てた。
「そう。指が、言うことを、聞かないのね」
「うん」
「じゃあ、指さんに、『今日は、ゆっくり、いこうね』って、お話、する?」
マティアスは自分の小さな右手の人差し指を左手の掌の上に立て、その指に左手の親指と人差し指でそっと触れた。
「ゆびさん。きょう、ゆっくり、ね」
五歳の、自分の指への最初の交渉だった。この部屋で、この子がこの子の言葉で指を呼んだのは今日が初めてだった。
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五度目の挑戦の前に、温かい蜂蜜入りの湯を小さな木の匙で二口飲ませた。匙は三年前に台所で彫った星型の柄のおほしさまのスプーンで、今朝マティアスが自分で枕元から手に取ってここまで持ってきたものだった。
「せんせい。もう、いっかい」
「いいわよ」
五度目。
——輪は、ほどけなかった。
ほどけなかったけれど、形はまだ左右によじれていた。ちょう結びの右の羽が左の羽よりずっと長く伸びて、短い方は羽と呼ぶには短かった。
「……できた?」
マティアスが自分の掌の中の不揃いなちょうを覗き込んだ。眉間にまた細い皺が寄ったが、今度は解けなかった。
「半分、できたわね」
「はんぶん」
「片方のお羽が短いのね。でも、結び目はほどけなかった。結び目がほどけないのは難しいことなのよ。それが、いちばん大事なこと」
マティアスは不揃いなちょうの短い方の羽を人差し指の先で一度そっと触り、それからもう一度触った。
「……せんせい。あした、もう、いっかい、やる」
「やりましょう」
「あさって、も」
「ええ」
「しあさって、も」
「ええ、マティアス」
五歳の、三日分の明日の約束。三度繰り返した時点で下唇はもう引き込まれていなかった。眉間の皺は完全に解けていた。
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不揃いなちょうの結び目を、背を少しだけ向けて指だけでほどいた。
「マティアス。今日、頑張ったから、先生、一つお話してもいい?」
「いい」
マティアスの目の高さに、もう一度戻った。
「靴紐が、ひとりで結べるようになったらね」
「うん」
「どこにでも、自分の足で行けるの」
「どこにでも?」
「どこにでも、よ。お庭にも、お台所にも、お馬車の中にも、お外の道にも。もっと遠くにも」
マティアスは自分の小さな右の足を見た。見下ろしてから、もう一度顔を上げた。
「……せんせいの、いるところ、にも?」
五歳の、いちばん素直な問いの矢。
「……ええ。先生の、いるところ、にもね」
嘘はついていなかった。けれど私がどこにいるのか、この子がどの道をどの速さで進むのか——一つも分からなかった。分からなかったから、この答えは今日の正解ではなかった。今日の最善だった。
マティアスは不揃いなちょうの、片方だけ履いた靴のつま先を、軽く床に二度当てた。
「じゃあ、ぼく、がんばる。ゆっくりね」
「ええ、ゆっくりね」
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夕刻、離れの方へ続く廊下の角の手前で、マルタが私を待っていた。
いつもの半歩下がった位置ではなかった。廊下の曲がり角の内側の壁に、片手を軽く添えていた。冬の廊下の石は冷たくて、指先を壁に触れさせるのは、この人の普段の所作ではなかった。
「フィオナ様」
「マルタ様」
マルタは私の目を見た。見てから一度、視線を廊下の奥の暗闇に逃がし、戻した。
「……イルマ様、今日は、夕方のお熱があまり引かれませんで」
「……承知いたしました。またの機会に」
「本日、ハウザー伯爵家のご当主様から、書面の最終の件で、お話が。……春の終わりまでに、と伺っております」
マルタは「婚約の」とも「書面の名前の書き換えの」とも言わなかった。迂回の道順を今日も選んでいた。選び方が、いつもよりほんの少し速かった。
「……わかりました。ありがとう、マルタ様」
マルタは頭を下げた。下げたまま、すぐには上げなかった。
「……フィオナ様。……お嬢様のことは」
声のいちばん奥で、水がひとすじ含まれた。
「……忘れません」
五年分の侍女の、最初の、水を含んだ一言だった。婚約披露会の夜にも冬の密命の日にも、マルタの目の奥は乾いたまま私の目と合わせ続けてきた。今日の声は、違った。
背筋のいちばん奥の筋肉に、一度力を入れた。頰の内側で何かが走り、走ったまま口元は動かさなかった。ここは廊下で、マルタは私の静かな味方で、五年分の唯一の証人だった。
「……マルタ様。わたくしも、この五年を一日も忘れません」
マルタは、もう一度頭を下げた。上げた顔の目の縁に、水の光が一粒留まっていた。落ちる前に、廊下のろうそくの影の中に沈んだ。
「……ごめんなさい、フィオナ様」
「いいえ。謝らないでちょうだい、マルタ様」
マルタは廊下の向こうに歩いていった。歩きながら、右手の掌をエプロンの縁に一度すべらせた。拭うような動きではなかった。掌の中の水分を、自分のエプロンに静かに預けた、という動きだった。
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夜、子供たちの寝息が、三つ、揃った。
エミリアは今朝、エドワード様への「おはようございます」を、自分の声のいちばん大きな音で廊下に置いた日だった。父上の耳の向きは返ってこなかった。けれど、エミリアの「おはよう」は邸の中で消えなかった。それだけは見届けていた。
ルーカスは寝る前に、石板の右下の升に今日の二つ目の小さな丸を足した。一つ目は、朝のエミリアの「おはよう」を廊下で一緒に聞けたこと。二つ目は、弟が「しあさって、も」と三度、明日の約束を自分で言えたこと。
マティアスは、おほしさまのスプーンと両方の靴を揃えて寝台の下に置いてから眠った。「あした、ゆびさんに、ゆっくりって、いう」と口の中で一度呟いてから、寝息が深くなった。
三つの寝息の間で、机に向かった。
深い赤の五冊目のノートを、今日の記録の開いたページの先にめくった。白い紙の余白がしばらく続いて、五冊目の残りの枚数の終わりの気配が指の先に届いた。この冬の間に、五冊目は棚の一段目の右端に収まる。次の新しい色が始まる時が来るのか来ないのか——私にはまだ分からなかった。
今日の記録を、書いた。
《マティアス、五歳。冬の午後。靴紐のちょう結び、五度の挑戦で、片方の羽が短いまま、結び目だけほどけずに完成。明日、あさって、しあさっての三日分の明日の約束を、自分で言葉にできた》
《五歳の語彙、更新:「ゆびが、いうこと、きかない」。自分の身体を、自分の内側の人として呼びかけられる段階。五歳の、最初の自己交渉》
《マティアスへ:結び目は、ほどけないことがいちばん大事。羽の長さはいつか揃うのだから、焦らないでいい》
《エミリア、七歳半。朝、父上への「おはようございます」を、自分の声のいちばん大きな音で廊下に置いた。返事は戻らなかった。でも、この子の「おはよう」は邸の中で消えなかった。決意の「うん」の、翌朝の履行》
《ルーカス、十二歳。父への呼び方の薄さの分を弟妹と先生に足し直す作業が、黙って続いている。石板の、今日の安心の丸、二つ。呼びかけの総量、減っていない》
《マルタ、三十五歳。廊下の角で、初めて「お嬢様のことは、忘れません」。五年分の侍女の、水を含んだ一言。受け取った。返した》
《書面の件、春の終わりまでに、と。——》
鉛筆の先を、「——」の上で一度止めた。止めてから、息を深く継いだ。継いだ息の肺の奥に、この五年分の全ての夜の空気が一度にたまっていた。たまったまま吐いた。吐いたあと、もう一文だけ書いた。
《今夜、この一文を、このノートのどこかに書かなければならない》
鉛筆を、ページの余白のいちばん下の段に移した。暖炉の遠い火の橙色の微光が、紙の上をわずかに舐めた。もう一度、息を整えてから書いた。
《この子たちは、もう大丈夫。どこに行っても、自分の力で歩いていける》
鉛筆の先が、最後の「ける」の縦の線の上で一瞬止まった。離れた先に、点は打たなかった。打たないという選び方が、今日の私の正解だった。
ページを、開いたままにしておいた。机の一番下の引き出しは、今日も開けなかった。
棚の一段目を見た。茶色、紺、深緑、黒の四冊が、色の順に並んでいた。四冊目のすぐ右隣に、指一本分の空きがあった。冬の間に、五冊目がそこに収まる。収まったあと、五冊は子供部屋の棚で、しばらく静かに並んだまま春を待つ。
誰かがいつか、この五冊を三つに分けて、子供たちに手渡す日が来るかもしれなかった。長男に、長女に、末っ子に。一冊ずつ表紙に名前を書き添えて。——その日は、今日ではなかった。
廊下の奥で、夜の鐘が一つ鳴った。残響が石の上を廊下の暗闇の奥へ流れていった。流れた先の暗闇のいちばん奥で、誰かの足音が一度止まって、また動いた気がした。気のせいだったのかもしれない。気のせいでは、なかったのかもしれない。
鉛筆を、机の端にそっと置いた。五冊目のノートは、点の無い「歩いていける」を、ページの下の余白の中に、ひらいたまま夜を迎えた。
暖炉の遠い火の音が、一段低くなった。寝台の三つの寝息は、揃ったまま子供部屋の暗闇の中で、静かに続いていた。
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【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この二十三話で書きたかったのは、靴紐という、子供が一人で生きていくための、いちばん小さな技術でした。ちょう結びは大人の手にとっては一拍で終わる動作ですが、五歳の掌の中では、紐の交差・輪の形成・穴の通過・押さえの指・左右の力の配分——五つの工程の全部を同時に管理しないと、結び目がほどけないところまで、辿り着けません。片方の羽が短い不揃いのちょうでも、結び目さえほどけなければ、その日の練習は成立している。そのことを、言葉ではなく、不揃いのちょうの、ままで、認める一日を、書きたかったのでした。
フィオナがマティアスに置いた一語「できるようになったら、どこにでも、自分の足で、行けるよ」は、物語のいちばん先の朝まで、この五歳の掌の中に、そのままの形で残り続ける一語です。第一話の冒頭で、マティアスはルーカスの背中で自分の靴紐を見下ろし、「フィオナせんせいが、いったもん」と言います。今日の不揃いのちょうが、あの朝の結び目に、いつ、どう辿り着いたのか——それは、その朝の、五歳の足が、知っていることです。
マルタの「お嬢様のことは、忘れません」は、この侍女の五年分の、最初の、水を含んだ一言でした。別れの予感は、別れの言葉では告げられません。廊下の石の冷たさに、片手を、軽く添える所作として、立ち現れます。次回、第二アークの結。棚の前で、五年分の、見えない仕事を、一度、振り返る夜を、書きます。引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。
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