第31話 最初の手紙
2時間前
2時間前
学び舎の開く朝の軒下の藁の輪は、もう昨日までの新しい麦の匂いを落としていた。代わりに昨日の子供たちの小さな指の湿りの跡が、輪の内側の繊維の層に薄く重なっていた。辺境に来て、一月と少し。
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「メルツ。今日は風が西寄りですね」
教卓の脇でレオン様が、白墨の折れた端を指の腹で半拍だけ転がした。深い緑の瞳が、扉の外の坂の縁の杉の梢の方へ一度預けられた。
「ええ。王都の方角は今朝、雲の下の薄い層が少しだけ低うございますわね」
口に出してから、喉の下の層を一枚、半拍だけ畳んだ。王都の方角という言い方が喉の先まで昨日より半寸、近くなっていた。
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最初の足音は坂の下の藁葺きの東の端の家の方から聞こえた。扉の半分の隙間に、赤い影と灰緑の瞳の二つ分が斜めに差した。
今日は昨日までと一つだけ違った。ドロテア様が兄のシャツの裾を握る指を、四本から三本に減らしていた。減らした一本は、自分の前掛けの縁の小さな縫い目の上にそっと置かれていた。自分の指が一本、自分の方へ帰ってきていた。
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歌は昨日と同じ三拍子の低い三小節だけ。斜め半身の角度の外側の層に細い息をそっと置いた。置いた息は産毛の層までは届かせずに、灰緑の瞳の明るい一粒のところに留めた。
最初の拍が鳴った。二拍目の半拍前のところで、ドロテア様の右の小さな掌が、左の前掛けの縁の薄い布の上にひとつ置かれた。二拍目が鳴った。親指と人差し指の第一関節の下が布の上を、一度軽く叩いた。三拍目の最初のところで、もう一度叩いた。
トン、トン。
昨日までの兄のシャツの谷の上の、あの二度の音と同じ高さ同じ短さだったけれど、今朝は土台が違った。兄のシャツの谷ではなくて自分の前掛けの布の上だった。
灰緑の瞳の明るい一粒は二粒分に増えた。唇の縁の産毛は、今朝は四度、震えた。
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白墨が教卓の空いた一角に一つ書き足された。
「自分の、布の、上」
レオン様の指の腹が、白墨の最後の文字の上で半拍だけ止まった。止めた先で深い緑の瞳が、私の横顔の薄い層のところに暖かい光の粒を一つ置かれた。朝の井戸の桶の紐の跳ねの二拍分と同じ軽さだった。
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昼前の鐘が坂の上の塔から二つ分流れた。ヤン君とリーゼル様は昨日と同じ歩幅で、母親のエプロンの裾の方へ戻っていった。残ったのはトビアスとドロテア様。
坂の下の街道の方から、痩せた馬の蹄の音が昼の二つ目の鐘の前に届いた。王都からの荷は月に二度、西の街道をこちらまで運ばれてくる。今月の二度目は一夜分遅れていた。
「メルツ先生とおっしゃるのは、あんたで間違いないか」
「はい。フィオナ・メルツと申します」
行商の方は麻の袋の紐を解かれた。中身の半分より下のところから、ふたつ折りの薄い封書を一枚取り出された。表の上の段に、細く整った縦の筆跡。
「辺境グリューネヴァルト 学び舎・フィオナ・メルツ様」
右上の封蝋は、ヴェルナー公爵邸のものではなかった。細い糸のような灰色の封の縁。マルタのエプロンの内側の縫い代の、指の腹の押さえの厚みと同じ厚みだった。
両手で受け取った。指の深い関節の下の内側に、昨夜の寝床の薄い毛布の縁の冷えた温度の層が一度、静かに起き上がった。
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井戸の縁では読まなかった。学び舎の教卓の脇の木の椅子の背もたれに革鞄の紐をひらりとひっかけて、白墨の折れた端の隣に封書を置いた。
レオン様は、封書の表の「様」の縦の長い一画の下の段に深い緑の瞳を半拍だけ預けて、それから黙って教卓の反対側に半歩下がられた。
「……メルツ。僕は裏の井戸の水を汲んで参ります」
「……ありがとうございます」
レオン様は頷かずに、扉の半分の隙間を静かに抜けていかれた。
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封蝋の細い灰色の糸の縁を指の爪の薄桃色の下で静かに崩した。紙の折り目の内側の谷が薄く広がった。最初の一行の縦の細い筆跡。マルタの字だった。字の細さの中に、公爵邸の最上階の子供部屋の棚の一段目の、五冊の背表紙の名前の凹凸の温度が一粒、混じって落ちてきた。
読む、と自分に言った。
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フィオナ様
お変わりございませんか。
ご出立の日から早いもので、ひと月と数日が経ちましてございます。辺境の冷えが、フィオナ様の肩の薄い毛糸の外套の上に届いておりませんように。
先日の朝、マティアス坊ちゃまのお椀の中身は、半分を残されたまま静かに押し返されてございました。
「フィオナせんせいの、ごはんが、いい」
坊ちゃまの下唇の内側が、半分だけ引き込まれておりました。冬の午後の、あの靴紐の練習の集中の角度と同じ引き込みでございました。星のスプーンは、両の掌の胸の前の奥に深い握りで畳まれたままでした。お椀の銀の柄には、爪の先の白い半月の輪郭すら近づきませんでした。
食堂の反対側の長椅子の端から、ハウザー様の細い声が半拍早く流れてまいりました。
「……わがままは、おやめなさい、マルティン」
マルティン、とございました。誰も訂正されぬまま、その四音節は高い天井の遠い梁のほうに吸い込まれてまいりました。公爵様も、お口の端の冷たい角度を一寸も動かされませんでした。
坊ちゃまは訂正をご自分ではなさいません。代わりに胸の前の星のスプーンの握りを、もうひと寸深くされるだけでございました。
指の爪の薄桃色の下が白くなる、あの五歳の癖を、マルタの細い筆跡が紙の上に正確に写していた。写された癖の白さの上に、手紙を握る私の指の外側の関節の下の皮膚にもひとつ同じ白さが生まれた。
紙を膝の上に一度預けた。深く息を一度継いだ。継いだ息の下で、公爵邸の食堂の「マルティン」という四音節が、もう一度薄く反響した。
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エミリア嬢の、夜のお寝具のことでございます。
半月ほど前の夜、雷の遠い低い音が一度、庭の石畳の上を通ってまいりました。その夜、お嬢様の栗色の巻き毛の耳の近いところが半刻のうちに、汗で湿ってまいりました。
「……まま……せんせい……」
続けて二度ございました。薄い寝息の層からの声でございました。目は閉じておられました。
以前のように、栗色と藤色のリボンの二本を枕の下に揃え、暖炉の火の音を雷のあいだ一段高くし、獣脂灯の芯を細い層に戻すことをいたしてございます。翌朝、お嬢様は「わたくし、ねむれました」と静かにおっしゃいました。けれど、その夜からひと月のうちの三度目までは、眠りのいちばん下の層が戻ってまいりませんでした。
枕元の栗色のリボンの羽の長さをわたくしの指先で測って差し上げる夜は、ひと月に一度か二度、続けてございます。
紙を膝の上に一度預けた。指の関節の下の脈の上の層で、百八十夜のいちばん遠い夜の、寝台の脇の獣脂灯の小さな光の一粒の温度が一度、起き上がった。
ひと月に一度か二度。マルタが栗色のリボンの羽の長さを測ってくださっている。その事実の一粒が、紙の繊維の薄い層から指先まで戻ってきた。
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ルーカス様の、石板の右下の升目の、三つ目の印のことをお伝えいたします。
ご出立の翌朝から、ルーカス様は昨晩の縦線の上にもう一本、短い縦線を静かにお足しになりました。二本の縦線は揃って、升目の底のところで止まってございます。
なにを指す印なのかは、わたくしは伺っておりません。ただ、二本目の縦線を足された翌朝、ルーカス様の肩の骨の薄い輪郭が、ほんの半寸だけまっすぐに整ってございました。
「せんせいの声で読むと、この升目は、まだ閉じていません、マルタ」
そのように一言だけお教えくださいました。ほかのことはお教えくださいませんでした。
十二歳の壇上の所作の下の層に、退場前夜に肩の骨の薄い輪郭の上へ一度置いた右手の重みが、今もこの子の背中の深い層でゆっくり波を打っているらしい。閉じていない升目、と紙の上に並んだ六文字が、胸の内でもう一度反響した。
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それから、もう一件ございます。
先日、ヒルデ様のお名前を通して、新しい家庭教師の先生がお着任なされました。クラウス・ベッカー様とおっしゃる三十歳ほどの、銀縁の眼鏡をお召しのきっちりされたお方でございます。
お着任の翌日から、ルーカス様とエミリア嬢の、朝とお昼のあいだのいちばん柔らかい三刻のところが一度畳まれて、机の右上の羊皮紙の束の位置のところに移し替えられてございます。
「遊びの時間は、本日よりございません。本日よりお勉強の時間が二倍に延びます」、お着任の初日のお言葉でございました。
その日の夕刻、エミリア嬢は廊下の柱の陰のところで、藤色のリボンの羽の長さを指の腹で三度、測り直しておいででした。測り終わるまでの時間が、以前より一拍長うございました。
マティアス坊ちゃまは、畑の北側の一角の人参の畝の方角を、昼の鐘の二つ目の音のあとまで窓辺でじっと御覧になっておいででした。新しい先生の「窓辺から離れなさい、マルティン」の一言で、坊ちゃまは半歩、窓から離れられました。
新しい先生のお着任が奥様のお耳に届いてはいないのかと、わたくしは奥様のお寝台の脇で思案いたしました。奥様の銀色の睫毛の閉じられたままの下の層に、昨日の薬湯の湯気の温度が一粒だけ留まっておりました。お言葉は出されませんでした。ただ、お口の右の端が半拍、薄く持ち上がられました。
「知っている。……もう、少し、だけ」、そのお顔の形で、わたくしにはうかがえました。
フィオナ様のご指示の三件、星のスプーン、靴紐の羽の長さ、エミリア嬢の枕の下の古い布の折り目は、わたくしのエプロンの内側の縫い代のいつもの位置に、日々預かってございます。
次のお便りは、次の二日遅れの西の行商の荷に乗せさせていただきます。
マルタより
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手紙の最後の「マルタより」の五文字の縦の画の下の段に、私の指の爪の薄桃色の下の白さが、ひとつ重なった。
指先が震えた。ひとつ目の震えだった。
紙を膝の上で半寸持ち上げて、もう一度上から順番に目で追った。「マルティン」の四音節。「わがままは、おやめなさい」の十一音節。「……まま……せんせい……」の、寝息の二度の声。石板の二本の縦線の揃い。「遊びの時間は、本日より、ございません」の二十音節。
五つの文字列の重さが半拍ずつ、指の第一関節の下の皮膚にしずかに積まれた。鉛筆の先が羊皮紙の上で半拍止まった気配が、喉の上の層で一度起き上がった。
積まれた重さを喉の下の層まで一寸持ち上げようとした先で、紙の右下の「マルタより」の「り」のはね上がりの筆跡の細い層のところに、下の瞼の縁の薄い滲みが一粒置かれた。置かれた水分の粒は、頬までは下りなかった。下りないまま、睫毛の内側の細い層の方へ吸い込まれた。ふたつ目の震えだった。
子供のいる部屋では泣かない、と前世の指先の鉄則がもう一度、喉の上の層へ置かれた。ここは辺境の学び舎の教卓の脇の、子供のいない昼過ぎの薄い木の匂いの空気だった。空気は許していた。私の喉の上の層だけが、今日はまだ許さなかった。
紙を二つ折りの形に静かに戻した。封蝋の灰色の糸の切れ端を、指の腹で一度集めた。集めた糸の三本分の細い切片を、エプロンの内側の縫い代のいつも使わない折り目の隙間に、そっと畳んで入れた。マルタのエプロンの縁のいつもの位置の動きと、同じ手つきだった。
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扉の外の井戸の、桶の紐の湿った擦れの音が、水面の縁をひらりと跳ねた。跳ねた音の間に、白墨の折れた端を一度、指の腹で転がした。転がした先で、短い七文字を、空いた一角の、昨日の「半分の、否定」の六文字の右隣に、小さく書き足した。
「閉じて、いない」
ルーカス様の石板の右下の升目の二本の縦線の揃いのところから、白墨の先端までひと筋、静かに流れてきた言葉だった。
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レオン様が井戸の桶を両手に下げて戻ってこられた時、私は教卓の木の椅子の背もたれに革鞄の紐をひらりと戻したところだった。深い緑の瞳の外側の層のところに、井戸の水の薄い冷たい光の一粒がまだ残っていた。
「……メルツ」
「はい」
「……戻りたいですか」
問いはひとつだけだった。冷たい光の一粒の縁から真っ直ぐに、こちらの下の瞼の外側の膜のところに短く届いた。
夕空のいちばん下の稜線の薄い低さの方を、扉の半分の隙間の外の森の縁に一度預けた。預けた視線の先で、最上階の子供部屋の棚の一段目の、五冊の背表紙の五つの名前の凹凸の温度のいちばん遠い一粒が、今も静かに置かれていた。置かれた温度は、もう指の腹では届かない距離にあった。
「……戻る、場所が」
喉の上の一枚の層が半拍、震えた。震えを喉の下へは落とさないで、真ん中の層の方へ静かに飲み込んだ。
「戻る場所が、……もう、ないの。レオン様」
「……」
「あの子たちのそばの場所は、もう私の場所ではなくなりました。書面で畳まれた春の終わりの日に、あの場所は畳まれ直されてございます」
レオン様は頷かれなかった。井戸の桶を、教卓の反対側の床の手前の板のところに音を立てずに下ろされた。水面の縁が、昼の光の斜めの一筋を薄く受け止めた。
「……メルツ。『戻る』の場所と『戻らない』の場所は、同じ場所のことですか」
問いの下の層のところに、四年前の冬の半束の薪の届かなかった距離の輪郭と同じ種類の細い温度が一粒、混じっていた。——戻れなかった、と戻らない、の違いを、この方はこの四年、ご自分の喉の下の層で測り続けてこられた方だった。
「……同じ場所では、ございませんわ」
自分の声が半拍乾いた。乾いた先で、もう一度言葉を置き直した。
「戻れなかった場所は、そこにある場所でございます。戻らない場所は、もう、そこにない場所でございます」
「……そうですか」
井戸の水の薄い光の一粒は、昼の光の斜めの一筋の中にもう一度、静かに映り直した。映り直した光のいちばん奥の層に、四年前の半束の薪の届かなかった距離の細い一粒が、今日は半寸だけ井戸の水の手前の方へ歩み寄っていた。
「……メルツ。戻らない場所のほうにも、粥の椀の五つ目の置き場所は、ございますか」
「……ございますわ」
「あれば、良うございます」
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その夜。学び舎の隣の板張りの小さな部屋の机で、燭台の橙の芯の細い層の光の下、私は新しい羊皮紙の上の段のところに返信の最初の一語をまだ選びかねていた。
「マルタ様」の四文字だけは、迷わなかった。
迷ったのは、「お変わりございませんか」の十一音節の前に置くべき一語の温度の置き方だった。お手紙、届いてございます、ではない。ひと月のあいだに積もったものすべて、読みましてございます、でもない。
マティアス坊ちゃまの朝食のお椀の銀の柄の、近づかなかった薄い半月の白さのいちばん外側の輪郭に、まず一粒触れたかった。
鉛筆の先端が、羊皮紙の繊維の薄い層のところに下りかけて半拍止まった。止まった先で、右手の外側の関節の下の皮膚の層に、昼過ぎのふたつ目の震えの水分のいちばん遠い一粒が、もう一度ゆらりと起き上がった。起き上がった一粒は、頬までは下りなかった。下りないまま、橙の芯の光の揺れの中に一度、薄く溶けた。
子供のいる部屋では泣かない。子供のいない夜の机の上でも今夜はまだ泣かない、と自分の指先に置き直した。
揺れた光の下で、鉛筆の先はゆっくりと下りた。下りた先の最初の一筋の細い縦の線は、「お」の一語の上の一画の円の半分のところで一度止まった。
円の残り半分を、明日の朝の井戸の桶の紐の跳ねの音を耳で数えてから閉じるのか。閉じないまま、次の二日遅れの西の行商の馬の蹄の音まで、開いたまま机の奥の薄い布の包みの上に置いておくのか。今夜の私には、まだ決めきれなかった。
燭台の芯の外側の層のところに、王都の方角の夜の深い稜線の薄い低さの最後の一粒がゆらりと映った。映った一粒の下の層に、マルタのエプロンの内側の縫い代のいつもの位置の、指の腹の細い押さえの厚みの一粒分の温度が、今夜も静かに預けられていた。
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【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第三十一話「最初の手紙」は、第三アーク「承」の四話目、書簡体の初回を書きました。
二重構造の一話です。辺境の学び舎では、ドロテア様の小さな掌が、初めて、自分の前掛けの布の上で、歌の拍に、二度、鳴りました。兄のシャツの谷ではなく、自分の布の上——この「自分の」という半寸の違いが、歌遊び療法の、本当の一歩目でした。
同じ日の昼過ぎ、二日遅れの行商の荷に、マルタの手紙が届きます。マティアス様の朝食拒否、「フィオナせんせいのごはんがいい」、クリスティーナ様の「マルティン」の一語、食堂の誰も訂正しなかった沈黙。エミリア様の、雷の遠音の夜の戻り。ルーカス様の石板の、二本目の縦線。そしてクラウス・ベッカーという新しい家庭教師の、遊びの時間の全廃。
書簡体は、フィオナの一人称の制約を越えて、公爵家の内側を、マルタの筆跡の温度ごと、辺境の教卓の脇まで、運んできます。フィオナの方法が、失われることで、その価値が、抜けた場所の形で、逆に立ち上がる——これが、この話の、いちばん静かな残酷さでした。
「戻りたいか」というレオン様の問いに、フィオナは「戻る場所がない」と答えます。「戻れなかった」と「戻らない」は、違う場所です。四年前の冬に、半束の薪を届かなかったレオン様と、今、書面で畳まれた春の場所を、もう「戻らない」と選び直そうとするフィオナ。二つの「ない場所」の形の、半寸の違いが、井戸の桶の水面の上で、一度だけ、重なりました。
次話「二通目の手紙」では、マルタからの二通目の冒頭に、一行の報せが届きます。フィオナを守る最後の盾が消えた朝の、辺境の、燭台の光の下で、今夜開かれなかった返信の、「お」の一画の、残りの半分を、どう閉じるのか。引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。
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