第32話 二通目の手紙
2時間前
2時間前
辺境に来て、二月と少し。二日遅れの西の行商の蹄の音が坂の下まで届いていた。
「メルツ。今朝は杉の梢の手前の空が薄い灰ですね」
レオン様の深い緑の瞳が、扉の外の坂の縁へいつもより遠くまで預けられていた。
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行商の方の麻の袋の紐がひと解きされる音が戸の外に落ちた。
「メルツ先生。今月の二度目でございます」
ふたつ折りの薄い封書が一枚。縦の整った筆跡で、右上の封蝋の灰色の縁の厚みも前回と同じだった。
両手で受け取った。中の紙の折り目の谷の空気だけが半寸ほど重かった。開く前から指の腹で分かっていた。
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教卓の脇に革鞄をかけ、白墨の隣に封書を置いた。レオン様は「様」の縦の一画に深い緑の瞳を半拍だけ預け、半歩下がられた。
「……メルツ。僕は裏の井戸の水を汲んで参ります」
レオン様は頷かずに扉を抜けていかれた。今日も何も問われなかった。
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封蝋の灰色の糸を爪で崩した。切片をエプロンの縫い代に畳んで入れる。紙を両手でそっと開いた。前回の「フィオナ様、お変わりございませんか」というあの柔らかい前置きが今月はなかった。一行あけたその下に——
フィオナ様
イルマ奥様が、お亡くなりになりました。
一行が、そこにあった。
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紙を膝の上に一度預けた。
離れの青い薬湯の匂いの一粒がひらりと立ち上がった。半刻で起き上がる人の最後の一拍が、今月のどこかで枕の中へ静かに畳まれたらしかった。
——「また、近いうちに」と離れの戸の前でこの方は確かに預けてくださった。私も「また、近いうちに」と返した。その「近いうち」のいちばん遠い端の薄さが今朝の一行の下にあった。
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深く息を一度継いだ。
「奥様は先月の末日、朝の鐘の一つ目の音の少し前に、お心の鼓動をお止めになりました」
「最後のお言葉は『あの子たちに、……冬の挨拶を、もう一度』でございました」
冬の挨拶。七歳のエミリア様の「おばあさま、きょうは、おあいできた?」という一年前の一言と同じ四文字だった。
「マルタ、あの子の栗色のリボンの羽の長さを、あとはあなたが測っておあげ」。最後の細いお声も同じ朝に残されましたと、マルタの筆跡は静かに畳んだ。
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それから、いくつか、お伝えせねばならないことがございます。
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エミリア嬢のことで、ございます。
先週、クラウス先生が初めての筆記試験をお課しになりました。羊皮紙二枚、算術と歴史でございます。
お嬢様は問いの三つ目で鉛筆を止められました。栗色の睫毛の端から水分の粒が頬へ下りてまいりました。
「お泣きになっても解答は変わりませんよ、エミリア嬢」
お叱りではございませんでした。窓辺のガラスの縁の冷たい筋のままの真っ直ぐのお声でございました。
お嬢様は頬の水分を拭い、鉛筆をもう一度お取りになりました。試験は最後まで続けられました。
その夜、夜泣きの声はお出しになりませんでした。代わりに毛布の縁を両手で胸の前に深く折り畳まれたままでございました。目は薄く開けておられました。
泣いても解答は変わりません。八歳の机の前で真実の支えが冷たい筋の方へほんの一度だけ傾いていた。百八十夜の寝台の脇で私が一度も使わなかった音の並びが、今、公爵家の机の前で使われた。夜泣きの戻りではない別の折り畳み方だった。
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マティアス坊ちゃまのことで、ございます。
お椀の中身は、さらに半分までお戻りになるようになりました。星のスプーンは、胸の前に、深く畳まれたままでございます。
「好き嫌いは、甘えでございますよ、マルティン」
マルティンと、ハウザー様のお呼び方をクラウス先生が引き継がれた形でございます。坊ちゃまはご自分で訂正はなさいません。スプーンの握りを、もうひと寸深くされるだけでございました。
「窓辺から離れなさい」の翌日から、坊ちゃまは窓辺の床の半歩手前でお立ちになるようになりました。その距離は日ごとに広がってございます。
厨房の器に星型の人参の硬い芯だけを、昼前に一日一つ置いてございます。坊ちゃまのお手は、まだ伸ばされません。
半歩手前で立つ五歳の毛布色のつむじ。その距離が日ごとに広がる——細い字の一画に、木目一本分の遠のきが畳まれていた。
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ルーカス様のことで、ございます。
今月はじめ、弁論大会の予選の告知がございました。クラウス先生は「ご辞退なさいますか。それとも、お出になりますか」とお尋ねになりました。
ルーカス様は体の横で両手を真っ直ぐに下ろされました。壇の上のあの日の所作でございました。
「……出ません」
「意味が、ありませんから」
十二歳のお声は震えてもおられませんでした。あの日の壇の上の切れ目と同じでございました。
クラウス先生は「わかりました」とだけお返しになりました。ルーカス様はお辞儀をなさらず、子供部屋へお戻りになりました。
石板はその晩から、棚のいちばん奥に入れ替えられてございました。閉じていない、の二つ目の縦線の揃いだけは、ご自分の胸の深い層にお収めになったのかとわたくしは見ておりました。
翌朝、弟妹の前でだけ両手は、静かに元の位置へ戻ってまいりました。
紙を、一度、下ろした。
「意味が、ありませんから」の下に、初夏の広間の壇上の十歳の視線が薄く重なった。石板の二本目の縦線の揃いが、今、外されていた。外れたのではなかった。この子は自分で外した。十二歳が選んだ外し方だった。
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公爵様のことで、ございます。
ご葬儀の翌朝、朝食の席で公爵様はお口の端を一寸も動かされませんでした。坊ちゃまのお椀の半分のことも、エミリア嬢の毛布の折りも、ルーカス様の壇上の所作も、ご覧にはなられませんでした。
奥様のお部屋の扉は閉じられたままでございます。鍵はかけられておりません。ただ、扉の取っ手にどなたの指もお置きにならない日が、ひと月続いてございます。
公爵様は夕刻の書斎で、書面を前の晩と同じ順番でお並べになっているようにお見受けいたします。順番の外のことは、順番の、外、でございます。
気づかないのではない。気づこうとしないのかもしれない。マルタの筆跡は「順番の、外」の五文字で、その見分けを預けた。
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ヒルデ様のことで、ございます。
ご葬儀の三日目の晩。子供部屋の戸の外の廊下の石の暗い一画に、ヒルデ様がお立ちになっておりました。教鞭はお持ちにならず、両手は腰の横に下ろされておりました。
戸は半分開けたまま。暖炉の橙の光が敷居まで薄く流れてございます。ヒルデ様は敷居の一歩手前で足をお止めになりました。
中では坊ちゃまが、星のスプーンを胸の前で握ったまま浅い寝息をお立てになっておいででした。エミリア嬢は枕の下の栗色のリボンに指先を触れてから、目を閉じておられました。ルーカス様の枕の横に石板はございませんでした。
ヒルデ様は半拍、何もおっしゃいませんでした。それからひと呼吸分だけ、戸の上の段の木の縁に指の第一関節の外側を軽くお置きになりました。指はすぐに戻されました。
戸をお閉じにはなりませんでした。お開けにもなりませんでした。ただ、見ておられました。それから静かに、廊下の反対側の暗がりへ足をお戻しになりました。お言葉は一言もございませんでした。
翌朝の授業には、いつもの教鞭を手に戻しておられました。ただ、持ち手の親指の位置が以前より半寸、外側へずれておりました。
親指の、半寸の、外側。三十年の持ち方がずれる。その幅の中に、敷居の一歩手前の石のひと粒の冷たさが畳まれていた。進んだのか、止まったままなのか。「ただ、見ておられました」の十一文字の中に静かに留め置かれていた。
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フィオナ様のご指示の三件は、今月も、日々、預かってございます。
お体を、お大事になさってくださいませ。
マルタより
「マルタより」の下に、今月は指先の震えはもう来なかった。上がってこないというかたちで、イルマ様が紙の余白の向こう側へ静かに下がられた。
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紙をふたつ折りに戻した。「閉じて、いない」の七文字の右隣に今朝の一行を書こうとして、手を止めた。
書かないは、忘れるではなかった。喉の下に一度沈めておく——そういう選び方だった。
「意味が、ありません」「泣いても解答は、変わりません」「半歩、手前」「ただ、見ておられました」「お亡くなりになりました」。五つの文字列を喉の下に、ひとつずつ静かに置いた。
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学び舎の扉の外に、出た。
裏の井戸の縁で、レオン様の後頭部が見えた。深い緑の瞳は水面の縁を見ておられた。
「……レオン様。少しだけ、裏の林の縁の方に、参ります」
「……いってらっしゃいませ、メルツ」
四年前の冬の、半束の薪の届かなかった距離が、今日は半寸近かった。
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学び舎の裏の、杉の梢の手前の林の縁の苔の一角まで歩いた。子供たちの声も届かない距離。
革鞄の紙の束を外套の内側に引き寄せた。封書が心臓のすぐ外に触れた。「お亡くなりになりました」の下に、青い薬湯の匂いが鼻の奥まで上がってきた。
子供のいる部屋では、泣かない。
前世の指先の鉄則の、最初の一枚の薄い膜。その裏に細い書き添えがあった。
——子供の、いない、空気の、許しの、下でなら。
言い訳だった。自分でも言い訳だと薄く分かっていた。言い訳ごと許しの下に入れておいてほしいとお願いをしてから——指先は鉄則の薄い膜をそっと外した。
外した瞬間、瞼の内側の水分がゆっくり上がってきた。頬に細い熱い筋が一本ひいた。反対側からも一拍遅れて下りた。二本の筋は顎の先で合流し、襟に落ちて薄く染みた。
——イルマ、様。
声にはしなかった。声にしないは、もう一枚の鉄則だった。その鉄則は今朝、外さなかった。胸の内側に名前の四文字を静かに置いた。薬湯の匂いは、もう上がってこなくなった。三年のいちばん最後の一粒が、辺境の苔の空気の中に静かに溶けた。
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杉の梢から、薄い黄色の葉がひらりと落ちた。頬の二本の筋を指の関節でそっと拭った。泣き終えたではなかった。泣き始めたの方が近かった。
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学び舎の扉の手前まで戻った。レオン様は、私の足音で、一度、振り向かれた。
「……メルツ。お顔の色、薄い灰に近うなっておいでです。けれども、いちばん下の層に明るい一粒の色が、ひとつ増えておいでです」
レオン様は、何も問われなかった。
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午後の授業、二つ目の鐘の後、トビアスの椅子の右側の脚で、小さな乾いた音がひとつ鳴った。
ゴトッ、ではなかった。コン、でもなかった。椅子の脚の底が板張りの床に半寸だけ戻された、低い音だった。
トビアスの両手は座面の奥の縁に乗せられていた。日に焼けた赤毛の下の耳から後頭部へ、汗の一粒が流れた。
「……置いた」
三音節。誰に向けた言葉でもなかった。自分の喉の下に自分で置いた三音節だった。
トビアスは顔を上げなかった。あの半寸の戻りを褐色の瞳でじっと見ていた。
——投げなかった。
昨日まで、昨日まで、昨日まで。毎日のゴトッ、コン、ガシャンの三つの音のどれも、今日は鳴らなかった。
「怒る必要がないから。あなたは悪い子じゃない」の言葉の下に、今日、半寸の戻りの音がひとつ重なった。
私は黙っていた。声をかけないという選択を、今日、喉の下の層が自分で選んだ。
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レオン様は、「閉じて、いない」の七文字の右隣に、一つ書き足された。
「投げなかった、日」
深い緑の瞳が、私の横顔に、井戸の水の光の粒をそっと置かれた。
私は襟の内側の水分の痕を、右手の関節で半拍押さえた。朝の苔の筋の跡は、もう乾いていた。その内側に、半寸の戻りの乾いた音が静かに重ねられていた。
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夕刻、ドロテア様の手を引いて、トビアスが坂の下へ歩いていった。兄のシャツの肩に、半寸の戻りの音の温度が、ひと呼吸分乗っていた。
五冊目のノートに、鉛筆の先を下ろした。
《辺境、二月と少し。トビアス、椅子を投げなかった日。半寸だけ戻された乾いた低い音。声をかけないのも今日は私の仕事。》
机の燭台の下で、前回の返信の「お」の一画の未完のかたちが、揺れの中にふわりと浮かんだ。残り半分に「イルマ様」と書こうか書かないか、指先はまだ迷っていた。
迷った先で、指先は机の引き出しの奥の、冬から預かったままの薄い布の包みを思い出した。——「いざという時」の六文字のこと。
そのいざという時は今月、離れの戸の向こう側で静かに到来してしまった。まだ開かれていない包みのために、指先は五冊目のノートの横に仮の置き場を一つ空けた。本当の置き場は、まだ決まっていなかった。
鉛筆の先は今夜、返信の紙には下りなかった。いつか、ルーカス様が気づく日が来る。棚の一段目の五冊の背表紙の、名前の凹凸の温度のいちばん遠い一粒が、今夜、辺境の机の今日の二行の下に薄く重なっていた。
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【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第三十二話「二通目の手紙」は、第三アーク「承」の五話目。「承」から「転」へ橋を架ける一話です。
前置きのない一行——「イルマ奥様が、お亡くなりになりました」。三年間フィオナを邸に留めた盾であり、冬の病床で「置き土産」を準備しておられた方の最後の一拍が、辺境まで二月遅れて届きました。
逆証明はこの話で完成しました。エミリア様、マティアス様、ルーカス様——それぞれに、クラウス先生の冷たい筋が重なります。壇上の十歳は、ご自分の意志で、二本目の縦線を外されました。
ヒルデ様の半寸。教鞭を持たない両手、戸の木の縁に置かれた指。翌朝の親指の位置が、半寸だけ外側へずれていました。この半寸が、アーク4の再会への、最初の伏線になります。
フィオナは、子供のいない林の縁で、鉄則の一枚目を外しました。同じ日の午後、トビアスの椅子の脚が、投げられずに、半寸、戻されました。
次話「全部、覚えている」からは、アーク3の「転」です。棚の一段目の五冊の背表紙に、ある日、十二歳の指先が触れる日がやってまいります。
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