幕間:子供部屋
2時間前
石の冷たさが革靴の底を通って踵まで上がってきた。
葬儀から三日目の晩。廊下の燭台は半分まで落とされていて、子供部屋の戸の縁だけが中の暖炉の橙の光で薄く縁取られている。戸は半分ほど開いていた。
ヒルデは敷居の一歩手前で足を止めた。
教鞭は寝室に置いてきた。両手は腰の横に下ろしたままだった。三十年のあいだ右手は教鞭の柄の同じ位置を握り続けてきて、握っていないことに指の関節が慣れない。
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敷居の向こう。
マティアス坊ちゃまの寝台で毛布が小さく上下していた。星のスプーンを胸の前で握ったまま。エミリア嬢の枕の下からは栗色のリボンの縁が指一本分はみ出していた。ルーカス様の枕の横に石板はなかった。
——いつから。
問いの形が喉の下で一度動いた。声にはしなかった。
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正しい、とヒルデは自分に言った。
私の教育が正しい。公爵家の子女は手を叩いて騒ぐものではないし、筆記試験で頬に水を下ろすものでもなく、壇上で十二歳の声を震わせるものでもない。私の三十年が正しく叩き込んできたことだった。
正しいはずだった。
その「はず」の二文字が、息の継ぎ目の半拍の隙間に入ってきた。眉間の皺のいちばん深い一本がもう一寸だけ深くなった。
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中でマティアス坊ちゃまの寝息の縁に微かな湿った音が混じった。涙の粒が目の端で滲んでいる音。
右手の指先が戸の上の段の木の縁の方へ半寸動いた。動いて、止まった。
押せば戸は開く。寝台の脇まで三歩。坊ちゃまの毛布の縁を整えて、スプーンの握りを解いて——
——解いてどうするのか。
三十年のあいだ子供の寝台の縁に腰を下ろしたことはなかった。教鞭を握った右手は子供の髪に触れ方を知らなかった。
指は戸の木の縁に第一関節の外側だけを軽く置いた。置いて、すぐに戻した。動く先を指が持っていなかった。
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目だけが棚の方を見ていた。
壁際の一段目に、茶色、紺、深緑、黒。四冊の背表紙が色の順に並んでいる。四冊目の右隣に指一本分の空きがあった。
——四冊。
視線の中で文字にして数えた。数えたことに自分でもう一寸だけ眉を寄せた。
三ヶ月前、机の上で四冊目のページに目を落とし、「ただの日記では、ないのですね」と口に出した。出したきりで、あの日からヒルデは戸の内側に入っていない。
足が半歩前に出ようとして止まった。棚の前まで五歩。手を伸ばせば届く。
足は動かなかった。動かない理由が自分でも分からなかった。踵の冷たさが膝の裏まで上がってきた。
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正しいはずだ。
もう一度、胸の内側で書いた。今度は文字の縁が三十年の筆跡より半寸だけ揺れた。
戸を閉めようとして手を伸ばした。指先が木の縁にもう一度触れた。触れたきり押さなかった。閉めても開けてもならなかった。
ヒルデはそのまま見ていた。三人の寝息の上下の一拍だけを見ていた。どれくらいの時間そうしていたのか、自分でも分からなかった。
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踵を返した。
廊下の反対側の暗がりへ足を戻した。一歩。二歩。三歩。四歩目で半拍だけ遅くなった。五歩目は通常の速さに戻した。
寝室の戸の取っ手に手を置いた。右手の親指の位置が教鞭を三十年握ってきた位置から半寸だけ外側へずれているのが分かった。
明朝、取り直す時に戻せばいい。三十年の位置に戻せば、今夜のことは廊下の石の冷たさごと敷居の外に置いてきたことになる。
そのはずだった。
戸を開ける手が半拍だけ遅れた。遅れたことに、ヒルデは自分で気づかないふりをした。