第34話 靴紐を結んで
2時間前
2時間前
後にルーカス様から聞いた話の続きだ。
棚の一段目の五冊のノートは公爵邸の子供部屋の棚に残された。持ち出せなかったのではなく、持ち出さないと十二歳の兄が決めた。三人の小さな背中を街道の方へ運ぶだけで、この子の肩の骨の薄い輪郭が預かれる量は、ちょうど一杯だった。
——想像の補いは今夜も薄く混じっている。三日間の街道の話だ。
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夜明けの一刻手前。
獣脂灯の芯の橙の低い光の下で、ルーカス様は石板の升目の右下、三つ目の縦線の外側に、四つ目の短い縦線を足された。——今日の最初の印。
立ち上がった先で、弟の寝台の足元の方へ歩かれた。揃えた両の靴のちょうの結び目は、半寸左に寄った羽の長さだった。この寄りは昨日も一昨日も、五歳の指では揃えきれなかった。兄は膝を折った。
五歳の結びを一度ほどいた。麦わら色の紐を掌の上でひと呼吸温めた。右の紐を左の上に乗せて輪を作り、輪の穴に左の紐の先をゆっくり潜らせた。両の羽の長さを指の先で二度測り直す。右半寸、左半寸。揃った。
もう片方の靴も同じ手順で結び直した。
——揃った。
ちょうの両の羽は、冬の終わりの薄い朝の光の中で、左右同じ長さに並んだ。「できたね。もう、どこにでも、自分の足で、行けるよ」——退場前夜の私の一言が、この二つの羽の対称のところに静かに預けられていた。兄はその預かりの上に、自分の指の半寸分の補いをそっと添えた。
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ルーカス様は弟の金髪のつむじに顔を寄せられた。
「……マティアス。起きようね。今日から先生のところへいくよ」
五歳の瞼がゆっくりと開いた。胸の前に握ったままの星のスプーンの木の柄に、小さな指の力が半寸分増した。
「……にいに。ほんとにいく?」
「うん。本当に行くよ」
マティアス様は結んだ靴のちょうの羽を、寝台の縁の手前から覗いた。左右の長さが昨日とは半寸違うことを、小さな青い瞳の奥で確かめられた。
「……せんせいの、とこ、いく?」
「うん。フィオナ先生のところだよ」
「……せんせいの、とこ!」
五歳の柔らかい層の声が、夜明け前の空気の上の層に小さく昇った。昇った声の端で、マティアス様は星のスプーンを両手で胸の前に、もう一度深く抱え直された。
エミリア様はひと呼吸で瞼を開かれた。瞳の奥に昨夜の明るい光の粒が、まだ留まっていた。
「……いくのね」
「うん」
「……わたしも、したくしたわ」
枕の下の藤色と栗色のリボンの羽を指先で短く触れ、小さな巾着袋を毛布の外へそっと引き出された。
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机の上の書き置き。
——「父上へ」か「お父様へ」か。昨夜、書き始めの一語で決めきれなかった二択を、今朝ルーカス様は「父上へ」の方を選ばれた。
お父様へと書けば家の中の呼び方になる。父上へと書けば長子の父への呼び方になる。今朝の一行は家の子の呼びかけではなく、長子の父への最後の一行として置きたかった——と後に教えてくださった。
三行だけが乗った。
「父上へ。僕たちはフィオナ先生のところに行きます。探さないでください。ルーカス」
書かれなかった四行目は下書きの反故紙として、机の引き出しに収まっていた。反故紙の裏には「お母様の分まで先生が僕たちを」の一行の消された線の下に、薄いインクの染みがまだ残っていた。——「捨てられなかった」のだと、後にルーカス様は言われた。
清書は机の上に置かれた。下書きは外套の内側の胸のポケットに、半折りで収められた。
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棚の一段目。茶色、紺、深緑、黒、深い赤。
五冊の前をルーカス様は通り過ぎようとして、一度足を止められた。背表紙の五つの名前の凹凸の温度が、もう一度薄く昇ってきた。
——持って行くべきか。
迷いの下で、十二歳の兄は妹のリボンの羽と弟の星のスプーンの重さと胸ポケットの反故紙の重さを、一つずつ数えた。数え終えた先で、棚の一段目から半歩後ろに下がられた。
——三日分運ぶ。五年分の手順は、もう僕たちの指と喉と掌の深い層に、全部入っている。
後にルーカス様はそう言われた。持ち出さなかったのは忘れるためではなく、もう全部預けてあることを信じたからだった、と。
五冊は棚に残った。——色の順に並んだまま。
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玄関の石の段の手前で、マルタのエプロンの裾の細い擦れの音が止まった。
ルーカス様は驚かれなかった。昨夜、戸の敷居の半歩手前で止まっていたあの擦れの音の温度を、同じ温度で受け取っただけだった。
マルタは石の段の下から二段目、影の濃いところに立っていた。手に小さな布の包みを持っていた。
「……坊ちゃま」
「マルタ」
マルタは石の段を半歩上がってきた。膝を折って、マティアス様の外套の裾のほつれかけた糸の先を、指の腹で止めた。
「……お気をつけて、坊ちゃま」
マルタの声は五年間でいちばん乾いていた。乾いた層の下に、灰色の糸の縁の温度がひと筋流れていた。
包みをルーカス様の手の中に預けた。干し肉の薄い布の匂い。包みの内側に折り畳んだ小さな紙切れが一枚挟まれていた。後に毛布の下で開かれた紙には、宿場町の三軒の屋号と女将の頭文字が記されていた。「H」「M」「Y」。いちばん上の「H」の右端が、他の二文字より半寸だけ太かった。
「……ありがとう、マルタ」
声にはならなかった感謝が、エプロンの裾の縁にも一筋届けられた。マルタの伏せた瞼の端に、ひと粒の水分が一拍留まった。粒は頬までは下りずに、睫毛の付け根へ吸い込まれた。
——マルタも、子供の前では泣かない。
マルタは止めなかった。——行かせる。知っていて、行かせる。
「お気をつけて、坊ちゃま。お嬢様。……マティアス坊ちゃま」
マティアス様は兄の背中の上で、小さな鼻音の「……ぅ」を返されただけだった。けれどもその「……ぅ」の奥の層に、マルタの五年間の廊下の角の立ち方の温度が、薄く届いていた。
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一日目。
街道は北門を出た先で二つに分かれた。ルーカス様は昨夜マルタから聞き出した、左の分かれ道を選ばれた。石畳の縁に、冬の終わりの灰色の草の匂いがひと筋流れていた。
「……にいに。さむい?」
「……さむくない。にいにの、せなか、あったかい」
エミリア様は兄の空いている方の手に、自分の掌を薄く重ねて歩かれていた。革靴の踵は石畳の四つ目の升目ごとに、こつ、という音を立てていた。
「……にいに。マティアス、おもたい?」
「……少し。でも、まだ大丈夫」
「……かわるから、わたしも」
「……ううん。エミリアは歩いて。マティアスは僕が預かる」
日暮れ前、ルーカス様は街道の脇の藁束の物置の裏側、風の当たらない角を選ばれた。マルタの包みの干し肉を三人で短く分けた。
「……にいに、たべないの?」
「……食べるよ。あとで」
あとで、の下の半拍の間で、ルーカス様は自分の一切れの端を半分、妹の方に回された。エミリア様は受け取りかけた手をもう一度伸ばし、兄の半分を掌の上に短く受け取った。
「……いっしょに、たべよ、にいに」
「うん」
三人は藁の厚い層の下に身を寄せて眠った。星のスプーンは胸の前で両手で、深く抱えられたままだった。
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二日目の朝。
マティアス様の額が熱を持っていた。
外套の胸の内側に頬を預けたままの五歳の頬の紅の色が、昨日の夜よりも半寸濃くなっていた。兄の掌がそっと置かれた。掌の下から、薄い、湿った熱の層が、指先の方へ昇ってきた。
「……マティアス。どこか痛い?」
「……あたま、すこし」
——二日目のこの熱で、残りの二日を歩かせてはいけない。
マルタの包みの紙切れの、いちばん上の「H」の半寸太かった一画の温度が、ルーカス様の指先にもう一度昇ってきた。
「……エミリア。次の集落のいちばん手前の宿に入るよ」
「……うん、にいに」
エミリア様の靴下の毛糸の層を、兄は足の甲の上でもう一度引き直された。足の裏の革靴の縁のところに、薄い血豆の紅い層が、もう生まれかけていた。
「……痛い?」
「……だいじょうぶ」
エミリア様の上の層の声は、嘘の薄い端に乗っていた。十二歳の耳はその嘘の薄さを聞き取っていた。聞き取ったまま、兄は妹の嘘を半寸受け取った。自分の背中の預かりの深い層に、静かに預かった。
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宿場町は、街道の二つ目の分かれ角を左にひと曲がりした先、木立の薄くなった開けのところにあった。軒先に「宿 ヘルガ」と細い筆で書かれた小さな看板が下がっていた。「H」の一画の右端が、紙の角のところで半寸太く止まっていた。
ヘルガさんは厨房の奥の竃の前に立っておられた。灰色の混じった髪を後ろにひとまとめに結わえておられた。目尻の皺は深かった。けれども皺の下の頬の肉の内側の層に、温かい一筋が確かに通っていた。
「……おや」
日に焼けた手は、三人の並び方の遠い端を、一度静かに測った。
「……道連れは、いないのかい」
「……いません。三人だけで歩いてきました」
ルーカス様の声は嘘を置かれなかった。ヘルガさんの目の奥の層は、嘘の温度を受け取らない温度だった。
「……熱かい、坊や」
「……はい。弟が二日目の朝から、少し」
「……入んな。粥をあっためてやる」
ルーカス様はマティアス様を、奥の長椅子の毛布の重ねの上にそっと下ろされた。エミリア様は椅子の縁に膝を折って座られた。八歳の指が、弟の額の紅の縁のところを薄く整えた。
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ヘルガさんは浅い素焼きの椀に、麦の粥を分けられた。湯気の柔らかい一杯を、マティアス様の椅子の縁の前に運ばれた。
「……坊や、口、開けな」
マティアス様は兄の顔を一度見上げられた。兄はわずかに浅くうなずかれた。五歳の唇の内側の層が半寸開いた。
「……あーん」
「……あーん」
匙の湯気のひと筋が、口の中の奥の層に静かに届いた。のど仏が一度上下した。
「……おいしい」
ヘルガさんは目尻の皺の深いところを半寸深めて笑われた。声は出さずに、もう一匙を五歳の口元の方へ運ばれた。
三匙で、マティアス様の瞼は半分閉じた。閉じる前に、五歳は兄の方を呼ばれた。
「……にいに。ほしさまの、おばあちゃんの、おうちだ」
ルーカス様は一拍動かれなかった。ヘルガさんは半寸だけ首を傾げられた。
「……星の、おばあちゃんの、家かね」
「……うん」
「……そうかい」
ヘルガさんの皺の奥のところに、ほんの半寸、水分の層が昇った。頬の外側には下りなかった。下りない代わりに、日に焼けた手の爪の薄い一段に、一拍留まった。
ヘルガさんは十年前に流行病で一人息子をお失いになった——後に街道の別の宿場町の女将から、私はその話を聞いた。五歳の「ほしさまの、おばあちゃん」は、この方の胸の深い層の、まだ閉じていなかった一粒の余白に、静かに届いた音だったのかもしれない。
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夜。
ヘルガさんはマティアス様の額の上に、冷たく絞った麻の布を置いた。エミリア様の足の裏の薄い血豆の紅の層の上に、井戸の冷たい水で二度絞った目の粗い布を、一枚目を静かに当てた。二枚目を巻いた。三枚目で甲の側から踵の方へ、厚く結んだ。
「……痛くても、一晩寝れば、半分は引くよ」
「……はい」
エミリア様の嘘の端の声は、もう置かれなかった。置かれない声は、ヘルガさんの日に焼けた手の温度に、半寸受け取られた。
深い時間の低い一拍のところで、ルーカス様は外套の胸のポケットから、マルタの紙切れを取り出された。「H」の半寸太かった一点を、もう一度指の腹でなぞられた。畳んだ紙を毛布の下の枕の近くに、静かに置かれた。
——いつか先生に、この夜の話を全部する。
昨夜の子供部屋の机の上で置いた、あの一行が、毛布の下の紙切れの温度の隣のところで、もう一度確かめ直された。十二歳の喉の下の深い層のところに、低い一拍の波が動いた。音にはならなかった。
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三日目の朝。
マティアス様の額の熱は、深夜の三つ目の一刻のところで半分引いた。
ヘルガさんは厚めの二枚重ねの布を、八歳の足の裏の踵の方から甲の側へ、静かに巻き直してくださった。
「……今日はもう、あんた、歩くのは半分でいいよ」
「……はい」
ルーカス様はマティアス様を、自分の背中にもう一度負われた。星のスプーンは兄の外套の襟の内側に、片手で抱え直された。エミリア様は兄の空いている方の手に、自分の掌を半寸深く重ねられた。
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戸の外までは、ヘルガさんが三人を見送られた。街道の先の森の遠い稜線が、朝の薄い紅の層の中に静かに浮かんでいた。
「……坊や」
ヘルガさんは街道の方の空を、一度見上げられた。目尻の深い皺のところに、朝の光がひと筋留まった。留まった先で、街道の方の空に声を預けるように、半寸低く言われた。
「……その、先生は、よほどの、方なんだろうね」
ルーカス様は動かれなかった。十二歳の下の層の喉のところに、一拍の静かな昇りが生まれた。昇った一拍はヘルガさんの方には返されなかった。返されない代わりに、マティアス様の小さな腕の首の輪のところに、半寸深く肩を預け直された。
「……こんな、小さな子が、三日も、歩くんだから」
ヘルガさんの声の遠い端が半寸湿った。払う代わりに、エプロンの裾を指の腹で一度だけ握られた。握った一筋の指先の温度が、街道の方の空の下に静かに留まった。
「……ありがとう、ございました、ヘルガさん」
エミリア様が半寸膝を折られた。
「……ありがとう、ございました」
マティアス様は兄の背中の、外套の襟の内側から頬を半寸出された。
「……おばあちゃん、ありがとう」
ヘルガさんの日に焼けた手の短い一本の指が、五歳の金髪のつむじに半寸届きかけて止まった。指は許しを待っていた。兄は半寸浅くうなずかれた。ヘルガさんの指は、五歳のつむじの外側の一筋に、一拍だけ預けられた。預けられた一拍の下で、十年前の一人息子のつむじの遠い温度が、ヘルガさんの胸の深い層のところに、もう一度静かに昇った。
指は離された。三人の背中は森の稜線の方へ、半歩踏み出された。
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街道は宿場町の外れから森の縁の方へ、ゆるやかに傾いていた。エミリア様の足の裏の二枚重ねの布の厚みは、革靴の縁の擦れの深い層を、朝の一刻分守った。マティアス様の額の熱は、夕方の二度目の鐘の音のところでほとんど引いた。
ルーカス様はマティアス様を一度下ろされた。五歳の足の革靴の、ちょうの羽の長さを、指先で二度測り直された。右半寸、左半寸。朝の結び直しのまま揃っていた。
「……マティアス。少しだけ歩ける?」
「……うん」
五歳の小さな足が、石畳の端の土の混じる縁に置かれた。一歩、半歩。次の一歩。
エミリア様の手が、弟の反対側の手を薄く握った。兄の空いた手は、妹のもう一方の空いた方の手を、静かに握った。
三つの小さな影が、街道の森の稜線の方へ歩いた。足元の石畳のひとつひとつの升目に、揃ったちょうの両の羽の長さが、左右同じリズムで乗っていた。
——どこにでも、自分の足で、行ける。
フィオナがこの五年育てたものの名前が、ひとつだけあるとしたら、それは「自立」だったと、後に私は思う。自立はひとりで何でもできる力のことではなかった。妹弟と手をつないで、三つの影をひとつの街道の遠い森の稜線の方へ並べていく力のことだった。
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夕刻、三つ目の鐘の音の少し手前のところで、三人は丘の上のゆるやかな曲がりの先に、辺境の森の入り口の稜線を見た。
グリューネヴァルトの立て札は、まだ見えなかった。けれども森の縁の木立の遠い濃い影のところに、半寸薄い煙の筋がひと筋昇っていた。人のいる集落の、朝の竃の温かい煙。
マティアス様が兄の背中の、外套の襟の内側から頬を半寸出された。
「……にいに。けむり、みえる」
「……うん。見えるね」
「……せんせい、いる?」
兄は一拍動かれなかった。動かないまま、エミリア様と半秒目を合わせた。合わせた先で半寸浅くうなずかれた。うなずきの下で、十二歳の喉の下の層に、昨夜の「H」の紙切れの温度と、一昨夜の棚の一段目の五冊の背表紙の凹凸の温度が、もう一度重なった。
「……うん。……明日の朝には、会えるよ、マティアス」
——明日の、朝、五時。
その時刻は十二歳の胸の下の層には、まだ言葉としては置かれていなかった。けれども三日目の森の稜線の、半寸薄い煙の筋の温度の中に、その時刻の遠い端のひと粒だけが、もう届きかけていた。
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【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第三十四話「靴紐を結んで」は、第三アーク「転」の二話目、回想再話形式の二話目です。家出の前夜から三日間の街道の旅路、そして三日目の夕刻の、森の稜線の半寸薄い煙の筋が三人の背中に届くところまでを、ルーカス様の言葉の温度を頼りに歩き直しました。
マティアス様の靴紐の半寸左に寄ったちょうは、第二十三話の五度目の挑戦、第二十六話の退場前夜のようやく揃った結び目を経て、この夜明け前の子供部屋で、兄ルーカス様の指の半寸分の補いの上で、もう一度左右同じ長さに並び直されました。「できたね。もう、どこにでも、自分の足で、行けるよ」——退場前夜にフィオナが置いた一語は、この兄の指の補いの半寸に、静かに預けられていました。
棚の五冊のノートを、ルーカス様は持ち出されませんでした。五年分の手順はもう、子供たちの指と喉と掌の深い層に全部入っていると、兄は信じることにされた——その信じ方が、家出という決断の底の、静かで実務的な確信でした。
ヘルガさんの「その先生は、よほどの方なんだろうね」の一語は、十年前に一人息子を失われたこの方の、まだ閉じていなかった一粒の余白と、五歳の「ほしさまの、おばあちゃん」の重なる場所に置かれた一語です。この一言が、のちに王都のブラント卿の耳に届くことになります。
三日目の夕刻の、森の稜線の半寸薄い煙の筋の先が、翌朝の早朝五時の辺境グリューネヴァルトの朝に繋がっていきます。次話「来ました、先生」では、門前の再会の場面をフィオナの直接の視点に戻して書かせていただきます。引き続き、お付き合いいただけたら嬉しいです。
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