第35話 来ました、先生
2時間前
2時間前
早朝五時。目が覚めていた。
この五日間、同じ時刻に目は開いた。辺境グリューネヴァルトの学び舎の奥にある板張りの小部屋。木の寝台の薄い毛布の下で、私の体はまだ五年間つづいた公爵邸の子供部屋の朝の開き方を覚えていた。
覚えていると言いながら、本当は鳴かない鐘の音を探していたのかもしれない。目が開く前に子供の寝息の層の数を数えようとして、数えきれなかった朝。数えきれないまま、指の先だけが冷たくなった。
窓の外はまだ薄い紺の層だった。森の稜線の向こうのいちばん下の帯に、冬の終わりの薄い紅がひと筋、滲みはじめていた。
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木戸の外で物音がした。
枯れ枝の折れる音ではなかった。獣の足音でもなかった。革靴の底の縁が石に当たる音だ。小さな足音が三つ。そのうちのいちばん重い一つは、背中にもう一つ分の重さを預けている足音だった。
私は毛布を払った。払った腕の先で指が震えていた。その震えを胸の前でもう一度握り直すと、息の速さが朝霧の粒の流れ方を追い越していた。
——聞き慣れていない足音。
そう自分に言い聞かせた。言い聞かせた先で、足はもう廊下の板の軋みの上を走りはじめていた。
学び舎のいちばん奥の戸口へ。そこから外の、木戸の前の踏み石の方へ。
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木戸の外側に、三つの小さな影が立っていた。
冬の終わりの薄い紅の層の空の下で、いちばん背の高い影が一人分の重さを背中に預けていた。もう一つ背の低い影が、その外套の裾の縁を指でぎゅっと握っていた。
十二歳のルーカス様。
八歳のエミリア様。
背中の上の五歳のマティアス様は、兄の首のうしろに小さな両腕の輪を掛けたままだった。頬は金髪のつむじの端の方へ半寸倒れて、その淡い紅の下にわずかな熱の名残がまだ残っていた。
三人の外套は、街道の三日分の土と煤と宿場町の麦の粥の湯気の薄い層を、いくつも重ねていた。
ルーカス様の茶色の瞳が、冬の終わりの朝の薄い紅の、いちばん遠い一粒をまっすぐに受け止めていた。
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「先生」
ルーカス様の声は、三日分の街道の乾いた埃の層の下から昇ってきた。その声は、五年前の子供部屋の隅の「ち、ち……」という二音節の朝の音の、いちばん遠い延長線の上にまっすぐ乗っていた。
「来ました」
たった、ひと言。
けれどもその下の深い層に、十二歳の兄が三日間の街道を一里ごとに数え直してきた全部が積まれていた。棚の一段目の五冊の背表紙の、名前の凹凸の温度。書き置きの下書きの、消した一行のインクの染みの温度。「H」の半寸太かった一画の、紙の角の温度。ヘルガさんの厨房の麦の粥の、湯気ひと筋の温度。そのすべてが。
私は息を継げなかった。
継げないまま、指の内側の五年分の「泣かない」という細い一枚の紙が、一息でほどけた。ほどけたまま、私は木戸の閂を両手で持ち上げた。持ち上げた先で肩の骨が音を立て、鉄の低い軋みが朝霧の薄い粒の層の中に短く散った。
木戸を押し開けた。
押し開けた先で、私の足は踏み石を数えなかった。数えないまま、冬の終わりの薄い紅の層の空の下、三つの小さな影の方へ走った。
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走ったのだと、あとからエミリア様が教えてくださった。
私自身は、走ったという足の底の記憶を持っていなかった。気がついた時には、マティアス様を背負ったルーカス様の肩のいちばん低いところに、自分の両腕が回されていた。回された腕の内側に、三人分の外套の煤と土と粥の湯気の層が、重なって届いていた。
「……ルーカス様。エミリア様。マティアス様」
三人の名前を一息で呼んだ。呼んだ順番は、五年前の着任初日に子供部屋の戸口で呼んだ、最初の呼び方と同じ順番だった。呼んだ先で、私の胸のいちばん下の層に、五年分の溜まったものが一度にせり上がってきた。
せり上がってきたものを、今朝は堰き止めなかった。
——子供の前では、泣かない。
前世の指先に置いた鉄則の、いちばん古い一枚。退場の朝、一枚を嘘の方で崩した。もう一枚、「泣かない」の方は、辺境の街道の三日分の土の道の上でも守った。守り続けて今朝、五年間のいちばん最後のこの一朝に、届いた。
届いた先で、私はそれを崩した。
涙は頬の外側ではなく、外套の内側の、三人の薄い肩のいちばん高いところに落とした。落とした先で、ルーカス様の外套の襟の三日分の煤の層が、わずかに湿った。
「……来ました、先生」
もう一度、ルーカス様は言われた。声は今度は少しだけ湿っていた。その湿りの下の層に、安堵の小さな新しい一拍が、静かに置かれていた。
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エミリア様の八歳の小さな指が、私のエプロンの縁のいちばん下をそっと握った。握った指の爪の薄桃色の下の白さに、街道の三日分の豆の紅の層がまだ残っていた。
「……せんせい」
「……エミリア様」
「……わたし、ちゃんと、歩いたの」
「……ええ」
「……にいにの手を、ひいて、マティアスのてつだいも」
「……ええ。ちゃんと見ておりました」
見ていなかった。けれども見ていた、と今朝は言ってよかった。八歳が枕の下に隠していた藤色と栗色のリボンの、羽の長さの三日分の重さを、私の指は見なくても受け取れた。
エミリア様は頷かれなかった。頷く代わりに、握った指の第三関節を半寸深くした。深くした指の下で、私のエプロンの縁のいちばん古い布の折り目が、八歳の三日分の自立の温度を静かに預かった。
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ルーカス様の背中の上で、マティアス様がゆっくり動かれた。
金髪のつむじが、兄の首のうしろの輪の中から半寸持ち上がった。青い瞳のいちばん下の層には、三日分の街道の朝霧の粒がまだ沈んでいた。その粒のいちばん上に、私のエプロンの縁の蜂蜜色の一筋がゆっくり映った。
「……せ、ん、せい」
五歳の寝起きの声。ヘルガさんの厨房の麦の粥の湯気の、届き方の延長線の上に、今朝のこの声は乗っていた。
「……マティアス様」
「……せんせい、いた」
「……ええ。おりますよ」
マティアス様は、兄の首の輪のうしろから両腕をゆっくり離された。離した手の片方には、まだ柘植の星型のスプーンが小さな握りの形で握られていた。三年前の秋、台所の片隅の薄い欠片の匂いの下で私の指が削り出した、あの五つの角。掌の中で棘のない星の形。
ルーカス様は膝をゆっくりと折られた。折られた膝の高さで、マティアス様の小さな靴の足元を地面の方へそっと下ろされる。下ろした先で、マティアス様の足の裏の二枚重ねの布の厚みが、学び舎の踏み石の冷たい一粒へ静かに触れた。
私は膝を同じ高さに合わせた。五年前から同じ高さ。子供の目の、ちょうど合う位置。
マティアス様の両腕が、ふわりと、私の首のうしろへ回された。
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「……せんせい」
「……はい」
「……おほしさま、にんじん」
冬の終わりの薄い紅の層の空の下で、五歳の熱の残りの小さな息が、私の耳のいちばん浅い層に届いた。
「……たべたい」
三年前の夏の台所の星型の人参の葉の、あの一粒。それが三日分の街道の乾いた土の温度ごと、私の胸のいちばん下の層へ帰ってきた。
——呑み込んだ、あの日の「ぼくの、にんじん」という所有の意識の、いちばん最初の温度。
それが退場の朝、玄関の扉の隙間の「……せんせいのとこ、にも、いく」という最後の一語の奥の層を、三日分の街道の上でそのまま運んできた。運んできた先で、五歳の熱の残りの頬の内側が、私の肩のいちばん高いところに半寸預けられた。
「……はい、マティアス様。作りますわ。今日のお昼に」
声は乾いていなかった。五年分のいちばん深い層の水分の予備の一粒が、声の底のいちばん細い縁に薄く乗っていた。乗ったまま、私はマティアス様の金髪のつむじのいちばん遠い一筋に唇の端をひらりと触れた。触れた先で、三年前の夏の台所の蜂蜜色の午後の光の温度が、五歳のつむじの薄い皮膚の下にもう一度届いた。
マティアス様は頷かれなかった。頷く代わりに、星のスプーンを握った片方の手を、私の肩の薄い布の上にそっと置かれた。星の五つの角の外側の一つが、私の肩の骨のいちばん薄い輪郭の上に、静かに沈んだ。
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「先生」
ルーカス様の声が、もう一度昇ってきた。今度は埃の層の下ではなく、三日分の街道の朝霧の、いちばん上の薄い層から。
「……ハンスさんが、門を、開けてくださいました」
短い一行。
けれどもその下に、王都ヴェルデンの公爵邸の正門の鉄の細い擦れの同じ一音が置かれた。五日前の私の退場の朝の、あの同じ鉄の軋みの鏡像の位置へ、静かに。
五年間、毎朝、私が子供たちと庭に出るのを詰所から見ていたあの寡黙な老兵。その二十年分の門の重さが、三日間の街道のいちばん遠い端から今、辺境の学び舎の踏み石の上に届いた。
「……そうですか」
声は出たけれども、次の一つは続かなかった。続かない代わりに、私はルーカス様の茶色の瞳のいちばん真ん中の層に、自分の翡翠色の瞳のいちばん深い層を静かに置いた。置いた先で、ルーカス様の十二歳の静かな筋肉の低い一拍が、ひと呼吸分ゆるんだ。
「……ありがとう、ございます、先生」
「……いいえ。ありがとうございます、ルーカス様。ちゃんと来てくださって」
ルーカス様の眉のいちばん端が半寸、下がった。下がった先で、十二歳の三日分の預かりの重さの、いちばん深い層が静かにゆるんだ。ゆるんだ層の上で、茶色の瞳のいちばん下が一粒、湿った。湿った一粒は頬までは下りず、瞼の内側の深い層の方へ、ゆっくり吸い込まれた。
——この子も、泣かない。
十二歳の長子の、三日分の街道の鉄則。
私は右手を、ルーカス様の左の肩の外套の煤の層の上にそっと置いた。置いた先で、兄の首のうしろの小さな筋の張りが半寸、下りた。
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学び舎の戸口の板の軋みが、うしろで鳴った。
振り返ると、レオンが立っていた。亜麻色の乱れた短い髪の寝起きの一筋の跳ねの下で、深い緑の瞳が四人の並びの遠い端を一度、静かに測っていた。
右手は戸口の板の縁で半寸、止まっていた。迷いの出る右手。今朝も同じ場所で止まった。その奥の白墨の粉のいちばん遠い一粒が、四人の並びのいちばん低い影——熱の残りの淡い紅の頬をした五歳のマティアス様の上に、ひと呼吸留まった。
フィオナさん、と喉の下の層だけで呼ばれた。呼んだ声の底に、「戻りたいか」というひと月前の問いの遠い延長線が、もう一度薄く引かれていた。
その延長線の先で、ひと月前、私は「戻る場所が、もう、ないの」と答えた。あの答えは今朝、この学び舎の木戸の前で別の形に書き直された。戻る場所がないのではない。私のいる場所の方へ、子供たちが歩いて来てくださった。その足音の三日分の土の粒が今、私の膝の前の踏み石にひとつずつ落ちていた。
レオンの深い緑の瞳は、そのことを戸口の板の縁からすでに見届けていた。見届けた先で、右手は板の縁を離れた。
粥を、と唇の縁のいちばん内側で一語だけ形になりかけた。形になる前に、レオンは戸口の板の縁から一歩引き、学び舎の奥の竃の方へ静かに戻られた。薪を足される音。冷えた水を鍋に移される音。粥の麦の袋の口紐がほどかれる音。
——迎える用意を、始めた。
言わなかった。言わなかった音の下で、レオンの右手の迷いの出る癖は、今朝は止まらずに竃の薪の三本目までまっすぐ届いた。届いた先で、亜麻色の乱れた短い髪の一筋の跳ねの下に、四年前の冬の土間の隅の半束の薪の届かなかった距離の温度が、ほんの半寸薄くなった。薄くなった分の温度は、今朝の竃の三本目の薪の右側の縁に静かに預けられた。
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踏み石の上で、私はもう一度、三人の小さな肩の輪郭のいちばん高いところに腕を深くした。
深くした先で、ルーカス様の茶色の瞳が半寸、細まった。エミリア様の灰色の瞳のいちばん奥に、三日分の街道の朝霧の粒が一度、静かに沈んだ。マティアス様の青い瞳の薄い寝起きの層が、私の肩の布の蜂蜜色の一筋の上にもう一度、半寸預けられた。
「……お入りなさい。中は暖かいから」
「……はい、先生」
「……うん、せんせい」
「……せんせいの、おうち?」
「……ええ。今日から、みんなのおうち、ですわ」
三つの小さな影は、学び舎の戸口の板の軋みの方へ、半歩ずつ進んだ。進んだ足元の踏み石のひとつひとつの縁に、街道の三日分の乾いた土の薄い粒が、一つずつ静かに落とされた。
冬の終わりの薄い紅の層の空のいちばん下の帯は、森の稜線の杉の梢の先に半寸、昇っていた。昇った紅の粒の中へ、五年分の子供部屋の朝のいちばん遠い一拍が今、学び舎の戸口の板の軋みの方へ静かに受け取られていった。
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【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第三十五話「来ました、先生」は、第三アーク「結」の一話目です。
物語のいちばん最初の第一話で、三つの小さな影が、王都の公爵邸の正門の外の、霧の中に歩き出しました。門番ハンスが、一時間だけ報告を遅らせ、三人に猶予を与えた、あの朝の背中が、三日分の街道の、土と煤と麦の粥の湯気の層を重ねて、ようやく、辺境の、学び舎の、木戸の前に、届きました。
第一話を書いたとき、読者の方は、まだ、五歳のマティアス様が星型のスプーンを握り続けた三年間も、エミリア様の夜泣きの百八十夜も、ルーカス様の七歳の朝の「ち、ち……」の、声にならなかった二音節も、ご存じありませんでした。三十四話分の重さを、今、三人の小さな肩の輪郭の、いちばん高いところに、読者の方と一緒に、受け取っていただくこと——それが、この「結」の一話目に置きたかった、唯一の設計でした。
マティアス様の「せんせい、おほしさま、にんじん、たべたい」の一言は、三年前の夏の台所の「ぼくの、にんじんの、はだから」の、いちばん遠い延長線の上に置きました。三日間の街道の、乾いた土の温度ごと、あの日の一粒が、辺境の、学び舎の踏み石の上に、運ばれてきた——そう、書きたかったのです。
フィオナの「子供の前では、泣かない」鉄則は、五年間、守られ続けました。着任初日の、マティアス様の零歳一ヶ月の指の握りの朝も。エミリア様の百八十夜の枕元の夜も。弁論大会の壁際の席の、葡萄色の袖口の夜も。退場の朝の、星のスプーンを握った寝起きの声の前でも。守り続けた鉄則の、いちばん最後の一枚が、今朝、三人分の外套の、煤と土と粥の湯気の層の下で、一息で、ほどけました。ほどけた涙は、頬の外側ではなく、三人の、薄い肩のいちばん高いところに、落とされました——子供の、外套の内側なら、落としても、いい。五年分の、いちばん深い層の、最後の、静かな例外として。
ルーカス様の「ハンスさんが、門を、開けてくださいました」の、短い一行。この一行の下に、第一話の、王都ヴェルデンの、公爵邸の正門の、鉄の細い擦れの音が、五年越しに、辺境の、踏み石の上に、静かに届きます。二つの門の、同じ鉄の軋みの音で、物語の、五年分の季節が、ひとつの対称の形に、閉じます。
次話「だから僕たちは歩いてきました」では、翌日の夜、マティアス様の熱が下がり、全員が落ち着いたあと、ルーカス様が、フィオナの隣に座り、「全部、話します」と言われる——この第三アークの、回想再話(EP033・EP034)が、「いつ語られたか」が、ようやく明かされる構造を、書かせていただきます。引き続き、お付き合いいただけたら嬉しいです。
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