幕間:三十年
2時間前
宿の板戸の半寸内側に、獣脂灯の橙のいちばん手前の一粒が置かれていた。
ヒルデは灰色の外套を壁の木釘に預けた。両の手のひらの第三関節の内側の腹には、五年分一度も手放されなかった長い細い黒い教鞭の重みが薄く残っていた。それが今朝から半寸深く薄くなっていた。
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板の卓の縁に旅鞄を置き、留め紐を半寸ほどいた。
鞄の奥には教鞭が一筋横たえられていた。細く黒く乾いた一筋。三十年分の教壇の上の空気の温度が外の縁に薄く保たれていた。
取り出して板の卓の奥の縁に半寸横たえると、獣脂灯の橙の一粒がその黒い一筋の縁に届いた。
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椅子の板の座面にヒルデは座り、膝の上に両の手のひらを預けた。空いた、両の手のひら。
——マーガレーテ・フォン・アーレン様。
八歳。姿勢は正しかった。暗唱の三音節目で息を継がれた。成績は甲のいちばん外の縁。
笑顔は——
灰色の瞳の底の層が半寸止まった。止まった先で獣脂灯の橙の一粒が半寸揺れた。
——思い出せなかった。
字の跳ねの角度は覚えていた。お辞儀の腰の角度も、詩の三音節目の息継ぎの位置も覚えていた。
ただ顔の口の両の端が半寸上がった層のところだけが、三十年分のどの一日のどの光のところにも置かれていなかった。
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ヨアヒム様。十歳。計算は速かった。ザビーネ様。十二歳。字は整っていた。ルツィア様。アルブレヒト様。——
膝の上の両の手のひらが半寸握られた。握った先で、三十年分四十三の名前の並びが乾いた粉の層にひと粒ずつ置かれていた。
成績。姿勢。礼の深さ。字の跳ね。
笑顔の欄だけが一度も書かれていなかった。書くべき欄があると考えたことがなかった。
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獣脂灯の橙の一粒が半寸低く揺れた。
——「せん……せい」。
四歳の灰緑の瞳のいちばん深い層から今朝一度だけ運ばれてきた、六文字。
三十年分、成績表の名前の欄にはたくさん運ばれてきた。けれど子供の口から灰色の瞳のいちばん奥の一粒へ直接の線で運ばれたことは、一度もなかった。
まぶたのいちばん内側の層のところにひと粒、水分の光の粒が半寸深く上がった。頬の外側までは下ろされなかった。
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ヒルデは板の卓の黒い一筋の外の縁に右の手のひらを半寸置きかけた。
止めた。
半寸手前のところで止めた。指の腹が半寸の空気の縁に届いて、届かずに、静かに戻された。
明日。
——明日、持っていかない。
旅鞄の奥へも戻さない。板の卓の奥に、この一筋は今夜置かれたまま。学び舎へは運ばれない。
両の手のひらは空いたまま膝の上に預けられていた。
——三十年分、一度も空けられたことがなかった。
獣脂灯の橙の一粒のところで黒い一筋の外の縁の温度が半寸深く薄くなった。