もう大丈夫や
2026年2月22日
2026年2月22日
◆ティア視点
城の中で、一番に目を覚ましたのは——わたしだった。
窓の外はまだ暗い。空の端に、うっすらと白い線が見える。夜明け前。鳥の声もまだない。
布団を畳んだ。着替えた。髪を三つ編みにした。鏡を見た。——前髪の下に、小さな角。いつもの自分。
廊下に出た。
石の床が冷たい。春の手前。でも——寒くない。城の壁が、前より温かくなった気がする。
城門に向かった。
重い扉。両手で押す。毎朝やっている。先代の時代は——門は魔王様の命令で開け閉めしていた。今は、わたしが開ける。よしこ様に「朝の風通しは大事やで(^^)」と言われてから。
扉が——軋んで開いた。
冷たい空気が流れ込んできた。朝の匂い。土と草と、遠くの森の匂い。
「……おはようございます」
誰もいない城門に、言った。
最初は変だと思っていた。誰もいないのに「おはよう」を言うなんて。
でもよしこ様が毎朝、城に向かって「おはよう(^^)」と言うから。「城もな、起こしてあげんと(^^)」と笑うから。
だから——わたしも。
尻尾が——少しだけ、ぱたぱた揺れた。
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◆ガルド視点
暗いうちに、厨房に入った。
かまどに火を入れた。薪をくべた。赤い火が——ぱちぱち音を立てる。
棚から小麦粉を出した。塩。水。バター。昨夜のうちに仕込んでおいた生地を取り出す。
パンを焼く。毎朝焼く。もう何十回——いや、百回は超えたかもしれない。
最初はよしこさんが隣で教えてくれた。
「ガルくん、生地はこうやって(^^) 手のひらで押すんやなくて、包むように丸めんの」
何度も失敗した。焦がした。膨らまなかった。硬すぎた。柔らかすぎた。
でも——今は一人で焼ける。
天板にパンを並べた。丸いの。少し大きいの。小さいの。
ピプの分は小さく。ドルガさんの分は大きく。リーゼさんの分はほんの少しだけ甘く。
全員の好みが——手が覚えている。
「ガルド。卵、出しとくぞ」
トールが来た。
もう起きていた。最近はいつもこの時間に来る。命令じゃない。自分で来ている。
「ありがとう、トール」
「スープはどうする」
「あ、今日はかぼちゃのスープにしようと思って……よしこさんに教わったやつ」
「了解」
トールがかぼちゃを棚から出した。包丁を取った。
190cmの大男が、かぼちゃを丁寧に切っている。前は——盾を構える手だった。今は包丁を持つ手。でも——同じくらい丁寧だ。
かまどの火が——厨房を温めていく。
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◆レオン視点
目が覚めたのは——パンの匂いだった。
毎朝これだ。ガルドのパン。小麦とバターが混ざった甘い匂い。この匂いを嗅ぐと、腹が鳴る。条件反射みたいなもんだ。
起き上がった。
部屋を出た。廊下。
——石の床が冷たい。でも、前ほど暗くない。窓から朝の光が差し込み始めている。
ふと、隣の部屋の前を通りかかった。
扉が——少し開いている。
覗いた。
ドルガが——机に向かっていた。
「……何してんだ」
ドルガが振り返った。巨体が椅子に収まりきっていない。机の上に——紙とインク壺。
手紙を書いている。
「……見るな、小僧」
「字ぃ汚ねぇな」
「うるせぇ」
手紙の文面が——少しだけ見えた。
「第三師団ノ者ドモヘ」。カタカナ混じりの、大きな字。でも——読める字だ。前は自分の名前も書けなかったのに。
俺も——前は字が読めなかった。
「……俺も書くか」
「あ?」
「手紙。——書く場所、空いてるか」
ドルガが——鼻を鳴らした。
机の端を指で示した。椅子はない。立って書け、ということらしい。
紙をもらった。インクをもらった。
——誰に書く?
わからない。まだわからない。でも——書きたい。なんか、書きたくなった。
ペンを持った。
最初の一文字を——書き始めた。
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◆よしこ視点
朝。
目が覚めた。
——パンの匂い。
(ガルくん、もう焼いとるんか)
窓の外が明るい。もうだいぶ日が高い。——え。寝坊した?
慌てて起き上がった。着替えた。廊下に出た。
食堂に——走った。
「あ、よしこ様! おはようございます!」
ティアちゃんが、皿を並べていた。テーブルの上に——もう全員分の朝食が揃っている。
パン。スープ。目玉焼き。果物。サラダ。
「え——」
「おはようございます、魔王様。本日のメニューはかぼちゃのスープでございます」
ヴェルちゃんが——席についている。お茶を飲んでいる。いつも通りの姿勢。
「かぼちゃの——」
「ガルドとトールが作った。——それから、サラダはリーゼだ」
ヴェルちゃんの声が——平坦だった。まるで「いつものこと」のように。
「よしこ、おはよー!」
ピプちゃんが飛んできた。宙からぶら降りてきた。
「おはよう、ピプちゃん——って、このサラダ——」
「リーゼが作ったの! ボクはお手伝いした! レタスちぎった!」
「ピプ。お前がちぎると粉々になる」
レオンくんが——席について、もうパンを食べていた。
「あ、レオンくん、もう食べてるん——」
「腹減ってたし。ガルドが「先に食べてていい」って」
ガルくんが——厨房から出てきた。エプロンをしている。手に鍋敷き。
トールくんが後ろにいる。大鍋を持っている。かぼちゃのスープ。湯気が立っている。
「よ、よしこさん! おはようございます! 今日はかぼちゃのスープです! よしこさんに教わったレシピで——」
「ガルくん……」
「味見はしたんですけど、ちょっと塩が足りないかもしれなくて……でも、トールが「大丈夫だ」って——」
「うん。大丈夫です」
トールくんが——頷いた。短い言葉。でも——自信がある声だった。
「よしこ様、お席へどうぞ(^^)」
ティアちゃんが——わたしの席を引いた。
椅子の上に——座布団が置いてある。ティアちゃんが用意したんやろう。冷たい朝やから。
「……ありがと、ティアちゃん」
「い、いえ! 当然のことです!」
尻尾が——ぱたぱた揺れている。
座った。
テーブルを見渡した。
リーゼちゃんが——席についている。サラダの皿を、じっと見ている。
「……ドレッシング。メルに教わった」
ぽつりと言った。目が——少しだけ不安そうだった。味が不安なのかもしれない。
「まあ、わたくしの弟子ですもの。当然の出来栄えですわ」
メルちゃんが——隣でお茶を飲んでいた。優雅に。だが目が——リーゼちゃんのサラダを見ている。師匠の目。
シオンくんが——入ってきた。ミーナちゃんと一緒に。
「おはようございます」
「おはようございます、よしこ様」
シオンくんの声は——落ち着いている。前みたいに「任務報告」の声やない。ただの「おはよう」。
ミーナちゃんが——微笑んでいる。目が笑っている。教会で教わった笑顔やない。この子の笑顔。
ドルガさんが——最後に入ってきた。レオンくんの後ろから。
「フン。——かぼちゃか」
「かぼちゃ嫌いなん?(^^)」
「嫌いなどと言っておらん。——二杯もらう」
席についた。全員。
13人分の席。全部埋まっている。
カインくんが——端の席で、静かにスープを飲んでいた。軍人の顔ではなかった。ただの——朝ごはんを食べている顔。
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スープを一口飲んだ。
かぼちゃが甘い。塩加減がちょうどいい。——ガルくんが「塩が足りない」言うてたけど、足りてる。トールくんが「大丈夫」言うた通りや。
パンをちぎった。温かい。中がふわふわ。——上手になったなぁ、ガルくん。
サラダを食べた。ドレッシングが——あ、これメルちゃんのレシピや。酸味がちょうどいい。リーゼちゃん、ちゃんと作れてるやん。
(……全部、この子らが作ったんか)
スープも。パンも。サラダも。目玉焼きも。
ティアちゃんが席を用意して。ヴェルちゃんがお茶を淹れて。
わたし——何もしてへん。
座って、食べてるだけ。
(……わて、ニートやん(^^))
笑いそうになった。
いや、笑った。口の中でパンを噛みながら、小さく笑った。
「よしこさん? どうかしましたか?」
「なんでもないで、ガルくん(^^) 美味しいわ」
「ほ、本当ですか!?」
「本当(^^) めちゃくちゃ美味しいわ」
ガルくんの顔が——ぱっと明るくなった。「え、えへへ」。あの笑顔。
食堂を見渡した。
レオンくんがパンをおかわりしている。「もう一個寄越せ」。ガルくんが「焼きたてのがもうすぐ出ますから!」と慌てている。
リーゼちゃんがスープを静かに飲んでいる。「……美味しい」と小さく言った。自分で言えてる。
ドルガさんが二杯目のスープを受け取っている。「フン」と言いながら飲んでいる。
ピプちゃんが宙に浮きながらパンを食べている。「美味しいー! ガルくんのパン最高!」。ヴェルちゃんが「座って食べなさい」と言っている。
シオンくんがトールくんに「このスープ、うまいぞ」と言っている。トールくんが「ありがとうございます、シオン隊——いや、シオン」と返している。
——あれ。シオンくん、今「うまいぞ」って言った。前は「美味しいです」やったのに。口調が——ちょっとだけ、レオンくんに似てきた。ふふ(^^)
ミーナちゃんが目玉焼きを食べながら、隣のリーゼちゃんと何か話している。小さな声で。でも——笑っている。二人とも。
メルちゃんがリーゼちゃんのサラダを一口食べて、「まあまあですわ」と言った。だが目が——満足そうだった。
ティアちゃんが空いた皿を下げて、新しいパンを持ってきて、お茶を注ぎ足して——忙しそうに動き回っている。でも尻尾がずっとぱたぱた揺れている。
カインくんが——ふと顔を上げた。食堂全体を見渡した。何かを確認するように。それから——小さく頷いた。
——全員、おる。
全員、食べてる。
全員——「おはよう」を、自分から言えてる。
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食べ終わった。
みんなが——片付けを始めた。
ガルくんとトールくんが鍋を厨房に運んでいる。ティアちゃんが皿を重ねている。リーゼちゃんがテーブルを拭いている。ピプちゃんが——空中からフォークを回収している。レオンくんが——何も言わずに椅子を元に戻している。
わたしは——座っていた。
誰も、「よしこさん手伝って」とは言わない。
誰も、「魔王様、指示をください」とは言わない。
みんな、自分で動いている。自分の仕事がわかっている。自分の場所がわかっている。
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◆よしこ視点(内心)
——この子ら。
いつの間に、こうなったんやろ。
レオンくんが来た日を覚えている。
ボロボロの革鎧。頬がこけて。目がギラギラして。「俺は勇者だぞ! 魔王を倒しに来たんだ!」って。
あの子が——今、黙って椅子を片付けてる。誰にも言われんと。
リーゼちゃんが来た日。
何も食べなかった。「……問題ない。食べなくても動ける」って。痩せすぎて、頬に色がなくて。
あの子が——今、自分で作ったサラダを「美味しい」って言った。
ガルくんが来た日。
「ぼ、僕なんか足手まといで……」って。体は大きいのに、声が小さくて。
あの子が——今、朝一番に厨房に立って、全員分のパンを焼いてる。
シオンくんが来た日。
「任務です」としか言わんかった。目が——何も映してなかった。
あの子が——今、「うまいぞ」って友達に言えてる。
ミーナちゃんが来た日。
笑ってるのに、目が笑ってなかった。「わたしは大丈夫です」って。大丈夫ちゃうのに。
あの子が——今、本物の笑顔で、リーゼちゃんと話してる。
ティアちゃんが——先代の時代は、名前も呼んでもらえへんかった。
今は、毎朝一番に城を開けて、「おはようございます」って言ってる。
ドルガさんが——「強さ」しか知らんかった。
今は、手紙を書いてる。部下に。字で。自分で。
ヴェルちゃんが——300年、笑ったことがなかった。
今は——まだ笑わんけど。でも、目が柔らかくなった。
メルちゃんが——人を信じるのが怖かった。
今は、リーゼちゃんに料理を教えて、「まあまあ」って言いながら嬉しそうにしてる。
ピプちゃんが——ずっと一人で四天王やってた。
今は、みんなの中で一番賑やかに飛び回ってる。
トールくんが——命令がないと動けなかった。
今は、自分で「卵、出しとくぞ」って言ってる。
カインくんが——「状況を整理させてくれ」って言ってた真面目な騎士。
今は、黙ってスープを飲んで、小さく頷いてる。もうここが——普通の場所になってる。
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(この子ら……もう大丈夫やな)
食堂の窓から、朝の光が差し込んでいた。
中庭の花壇が見える。芽が——出ている。小さな緑。いつの間にか、芽が出ていた。
(もう、大丈夫や)
スープの匂いが残る食堂。片付けの音。ガルくんの「トール、鍋こっち!」。トールくんの「了解」。ピプちゃんの「ボクも手伝うー!」。ヴェルちゃんの「ピプ、皿を落とすな」。
全部——わたしがおらんでも、回る。
(この子らは、もう自分で立てる)
嬉しい。
すごく嬉しい。
——すごく嬉しい、のに。
胸の奥が——少し、きゅっとした。
保育園で、何度も感じた気持ち。卒園の季節が近づくと、いつもこうなった。
育った子どもは——巣立つ。それが嬉しくて、それが寂しくて。
40年間、何百人もの子どもを送り出した。「いってらっしゃい」を何百回も言った。
——でも、慣れない。
何回やっても、慣れない。
この気持ちだけは、ベテランにならない。
(——ほな、わては何をする?)
窓の外。花壇の芽。
煙突から——白い煙。ガルくんが追加のパンを焼いている煙。
(……決まっとるやん)
立ち上がった。
食堂を見渡した。
みんなが動いている。自分の仕事をしている。笑っている。話している。喧嘩している。——生きている。
(いってらっしゃいを、言うんや)
保育士の仕事は——育てることやない。
送り出すこと。
「もう大丈夫」と信じて、「いってらっしゃい」を言うこと。
そして——「いつでも帰っておいで」を、用意しておくこと。
(でも——まだ、もうちょっとだけ(^^))
もう少しだけ。この朝が続く間だけ。
「ガルくーん(^^) パンおかわりちょうだい」
「は、はい! 焼きたて持っていきます!」
焼きたてのパンをもらった。温かい。
一口食べた。
——美味しいわ、ガルくん。ほんまに美味しい。
窓の外で——花壇の芽が、朝の光に揺れていた。
---
【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第75話「もう大丈夫や」。最終章Arc8「世界で一番あったかい場所」の始まりです。
この話には、大きな事件は起きません。いつもの朝です。でも、「いつもの朝」が成立していること自体が、物語の到達点です。
ティアが一番に起きて城を開ける。ガルドが厨房に立つ。トールが隣で手伝う。レオンが黙って椅子を片付ける。リーゼが自分で作ったサラダを「美味しい」と言う。——全部、1話目にはなかった光景です。
そしてよしこは何もしていない。座って食べているだけ。「わて、ニートやん」と笑える。それは保育士として最高の瞬間です。子どもたちが自分で動けるようになった。手を出す必要がなくなった。それは成功の証であり、同時に——卒園が近いということです。
花壇の芽が出ていました。先代魔王が植えたかった花が、もうすぐ咲きます。
次回、第76話「レオンの手紙」。レオンが人生で初めて手紙を書きます。
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